いよいよアレにチャレンジします その③
土曜日。学校は休みである。
梨央は朝からずっと克彦が作ったゴーグルをかけて過ごしていた。
もうサイケデリックな色調の景色にも慣れてしまった。かけていたって次元の裂け目とかそういうのが見えるわけではないのだが、気休めのようなものだった。
ポケットにはいつも例の知恵の輪を忍ばせていて、時々取り出してはカチャカチャといじくっているが、一向に外れる気配はない。
ゴーグルをつけて外に出ると、いくら神経の図太い梨央でも他人様の視線が痛いので、終日家でごろごろしている。
頭の中ではいつも四次元のことを考えている。小春は悟りを開くようなものだと言ったが、本当にその通りだと思う。
四次元はいつもすぐそばにあるのだ。いや、「そばにある」という言葉では足りない。
「時間」と「空間」のように、常に同時に存在しているのだ。あたしが存在している、この空間に。
ベッドに寝転がったまま、天井に向かって手をかざす。空中で何かをつかもうとするが、何も手ごたえはない。当たり前だが、しかし、この手は今、四次元に触れているはずなのだ。
きっかけが欲しい。四次元の存在を身体で感じる、きっかけが。
それさえあれば、逆上がりができなかった子供が、ふとしたことでコツをつかんで回れるように、自在に四次元を操ることができると思う。
絵空事ではない。実際テレポーテーションできる人間がいるのだ。あたしにできないはずがない――。
梨央はまた天井に向かって手を伸ばす。そこにある何かを、つかむように――。
☆
月曜日の放課後。梨央の召集で、麗子、小春、克彦の三人はSF研の部室に集まっていた。
招集をかけた梨央本人はまだ来ていない。小春が紅茶を入れて、みんなのカップに注いでいる。克彦が礼を言って一口すする。
「レーコ、梨央と今日話した? テレポの方はどうだって?」
「進展ないみたいよ。今日も疲れた顔で登校してた。一日中四次元のこと考えてるようだけど」
「うーん、念写とは訳が違うからなあ。こっちにあった身体が消えて、別のとこに現れるんでしょ。そんなのできるのって感じするよ。まだサイコキネシスの方が簡単そうだよね。今度は無理かもしれないなあ、さすがに」
「そう? 梨央ならできそうな気がするけど」
「あれ、オレよりレーコの方が現実的だと思ってたのにな」
「……」
梨央の家で見た消える少年のことを、麗子は黙っていた。何となく、まだ話す時期ではない気がした。
カラカラと引き戸が開く。もちろん梨央だ。麗子の言うとおり、表情に疲れが見える。
「あ、梨央先輩、こんにちは。お茶入れますね」
只で振りまくにはもったいないくらいの笑顔を浮かべ、小春がティーポットを取り上げる。
「……小春、あなた、熱ある?」
開口一番がそれだった。小春がちょっと驚いた顔をする。
「あ、はい。土日ちょっと風邪気味だったんですけど、でも、もう大丈夫ですよ。保健室で測ったときも37℃ちょうどだったし。でも梨央先輩、よく気付きましたね。今日一日クラスで誰も気付かなかったのに」
「え、小春、あなた体調悪かったの?」
麗子が腕を伸ばし、手のひらを小春のおでこに当てる。
「あー! こら、あたしの小春に触るな!」
「誰があんたのなのよ……ほんとにちょっと熱いかなってだけね。血色もいいし。梨央、あんた入ってくるなりよく分かったわね。そばにいた私も気付かなかったのに」
「赤外線が見えるのよ、あたし」
ええ! と三人の声が重なった。梨央は大したことではないという顔で、パイプイスに座った。
「も、もうコピーしたのかよ!? あのゴーグルの機能!?」
「もうって、あたし土日一日中つけてたのよ。日曜日の午後くらいから色が変わって見えたから、故障かと思って外してみたら、裸眼で電波も紫外線も見えるようになってたわ……レーコ、携帯にメール来るわよ」
梨央が言い終わると同時に、鞄の中から着信音が鳴った。麗子が急いで携帯を取り出す。
「うわ、里美から。本当に今来たとこだ……り、梨央、あんた本当に電波見えるの?」
驚きを通り越し、ちょっと気味悪そうな顔で麗子は聞いた。
「見えるんだってば。クラスに木谷っているじゃない。あいつ男のくせに授業中しょっちゅうメールやり取りしてるわよ」
テーブルの上に置いたナップザックを、ずずっと克彦の方へ寄せる。
「克彦、これありがとう、返すわ。ノートパソコンとか使うでしょ? ゴーグルは中に入ってるから」
克彦がバッグを引き寄せ、ファスナーを開けてゴーグルを取り出す。ベルトを調整し、自分でつけてみる。
「これあげたの先週の水曜だったよな。五日でコピーしたのか……それにしても、自分で作ってなんだけど、すっげえ色彩。梨央、今どんな風に見えてんの?」
「どんな風って、普通に見えてるわよ、可視光線は。それ以外の色は……言葉では説明できないわね」
「へえ、そうなんだ。極彩色のままなのかと思った。で、テレポの方はどう? レーコの話じゃ、芳しくないみたいだけど?」
ゴーグルを外しながら克彦は言った。梨央が小さく溜息をつく。
「……そうね、通信教育でもあれば頑張るんだけど、何をしたらいいのかさっぱり分からないところが辛いところね」
くたびれたサラリーマンみたいな顔で梨央が言った。
梨央と麗子は教室でも顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたのだが、最近は梨央がこんな調子なので、喧嘩らしい喧嘩をしていない。
梨央には遠慮なしにキツイことが言えるので麗子にはいいストレス解消になっていたのだが(返り討ちに合うこともしばしばではあるが)、最近それがないのでちょっと寂しく思っていた。
「あんたがそんな風にテンション低いと、調子狂っちゃうわね。今日みんなを集めたのは、何でなの?」
「……別に。あたしの近況報告と、小春の顔を見るのと、なーんかいいアイデアとかあれば聞きたいなーって思ったんだけど、あったりする?」
麗子と克彦は即座に首を振った。梨央が小春の方を向くと、小春は拳銃を向けられたようにビクッとした。
「あ、う、うう……ご、ごめんない、梨央先輩……な、何にもないです……」
可哀想なくらい縮こまってしまい、声も震えている。
「ちょっと小春、いいのよ、そんな怯えなくても。あたし怒ってるわけじゃないんだから」
「……すみません、あたしが言い出したことなのに、全然役に立てなくて……」
「いいんだってば。そんなに怖がられたら、あたしが苛めてるみたいじゃない」
梨央がフォローしても小春は眉をハの字にして申し訳なさそうな顔をしていた。麗子がぽんぽんと肩を叩く。
「小春、気にすることないのよ。こいつの無茶な注文に応える方が無理なんだから」
しょんぼりしている小春が、「……お茶入れ直します」と言って席を立った。
そう言えばどうやってお湯を沸かしてるんだ? 梨央が今さらながらそう思って小春を目で追うと、食器棚と湯沸しポットがあった。
「……いつの間にか物増えたわね、この部屋」
「あんた今気付くの? よほど気持ちに余裕がなかったのね」
「冷蔵庫まであるじゃない。どっから調達したのよ?」
設立当初テーブルと椅子しかなかった部室には、梨央の知らないうちに電子レンジやパソコン、本棚などが備わっていた。
「あと流しと洗濯機があれば一人暮らしできるわね……レーコの仕業じゃないわね? 克彦?」
「はーい、オレです。何しろ家電メーカーの息子なんで、こういうのはお任せ」
「さすが、頼りになるわね。テレビとブルーレイレコーダも持ってきてよ」
「ダメよ! ただでさえ何の活動やってんだか怪しい部なんだから!」
すかさず麗子が怒鳴る。
「いいじゃない、何の権限があってダメって……そういえば部長って誰なの?」
「あんたよ。当たり前じゃない、私生徒会で忙しいんだから」
「じゃあ部長権限であたしが許可するから、克彦はテレビとレコーダとWiiと太鼓の達人持ってきて」
「増えてる! これ以上SFと関係ないもの置かないで!」
「何よ、部長に逆らうの?」
「あんたねえ、ここが『世界を大いに盛り上げる赤羽根梨央の団』だと思ったら大間違いよ。私が口を利いてあげたから設立できたんだからね。一度活動停止食らったら復活できないわよ」
腕組みをして麗子が睨む。梨央は反論できず、悔しそうにそっぽを向いた。
「ふん、分かったわよ。どうせテレビ見てる暇なんかないしね」
いつものように梨央と麗子がやりあっている間に、小春が入れ直した紅茶を注いで回る。
「何か今日は雑談で終わりそうね。梨央、あんたどうしてもテレポできるようになりたいんでしょ? 見込みはありそうなの?」
梨央はストレートティーを飲みながら「んー」と言った。
「……できるとは思うんだ……まだ雲をつかむように不確実なんだけど、身体はできてきてる気がするのよ、いつでも飛べるような……きっかけさえあれば……」
梨央とはひとりごとのように言って、カップの紅茶に浮かぶ波紋を見つめた。
静かに揺れる液体。二次元の液面に貼りついて、三次元の蛍光灯がぐにゃぐにゃと歪んでいる。
あたしがしようとしていることは、何なのだろう。
次元を操る?
水面に浮かぶ平らな蛍光灯をつまみ上げて、別のカップに移そうとしているのか?
そんなことができるのか? 不可能じゃないのか?
――いや、あきらめてはならない――できるはずだ、あたしにも、絶対できる――
「……梨央先輩?」
思考の淵に沈んでいた梨央が、ハッと顔を上げた。小春が心配そうな顔でのぞきこんでいる。
「あ……ごめんなさい。梨央先輩、すごく怖い顔してたから……」
「え?……ああ、そう……?」
梨央は頬に手を当てた。
そっか、あたし怖い顔してるのか、こんなとき――こりゃ、早いとこ答えを出さなきゃ、美容に悪いわね――。
小春を安心させるため、梨央はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫よ、小春。お茶美味しかったわ。さあ、今日はこれで解散しましょうか」
☆
帰宅した梨央はいつもどおりに夕食を作り、帰宅した智久と一緒に食べ、食器を洗った。
口数の少ない娘に、智久は何も言わなかった。そっとしておくのも親の愛だ。
ひととおり家事がすむと、梨央はベッドに横になり、再び思考に身を沈める。
テレポーテーションする自分を想像し、イメージトレーニングする。四次元を通って違う場所へ行く自分を、思い描く。
歪み、引き伸ばされる身体。痛みはない。次元は湾曲し、重なり、元に戻る。
不思議だ。こうして意識を深く深く沈めていくと、行きたい場所の景色が見えるようだ。
例えば、SF研の部室を思い浮かべる。目を開けたままで。
見上げている天井が消え、目の前に部室の光景が広がる。
壁、窓、テーブル、椅子、冷蔵庫、本棚――
それらの配置、色、形、全てが明瞭に眼前に広がる。
棚に置かれた食器の数を数えることもできるし、電子レンジの型番号を読み取ることもできる。
おそらく気のせいではないだろう。明日部室に行って確かめれば、全て合っているに違いない。
「視覚」はすでに「飛んでいる」。
SF研のみんなにはなんとなく黙っていたが、この感覚は二、三日前から生じている。
初めは想像で見えるように感じるだけだと思っていたのだが、最近好きなときに好きな場所を「見る」ことができるようになっていることに気付いた。
いつの間にできるようになったのだろうと思う。考え続けることで梨央の中で何かが変化しつつあるのは確かだ。
あとは、身体を――次は、どうすればいいのだろう――
あいつにできて、あたしにできないわけが――
そのとき、寒気に似た何かを、梨央は感じた。身体のどこで知覚したのか分からないような感覚だった。
しかし、この感じには覚えがある。それが誕生日のあの日だったことを思い出して、梨央はベッドから飛び起きた。
ドアノブを壊しそうな勢いで戸を開け、廊下に出る。アルの部屋へダッシュしようとして、急停止した。
違う! こっちじゃない!
微弱な電流のように身体をむずかゆくさせる感覚は、マリアと智久の寝室――今は智久ひとりで使っている部屋――から発していた。
振り返って狭い廊下を全速力で駆ける。ドアを開ける直前に、一瞬奇妙な感覚が身体を通り抜けた。影が身体をすり抜けて行ったような、手ごたえのない感覚。
乱暴にドアを開ける。誰もいない。マリアのクローゼットの扉が開いている。智久が開けるはずのない、マリアのクローゼットが。
しかしそれよりも、梨央は部屋の真ん中、空中に浮かぶ奇妙なものに、目を奪われていた。
それは可視光線では見えないものだった。空間の一部が、水にガムシロップを垂らしたように光が歪み、揺れていた。それは見る間に空間に溶け込んで、消え去ろうとしていた。
陽炎のごとく消える寸前に、梨央はビーチフラッグに飛びつくようにジャンプした。
精一杯手を伸ばす。かろうじて指先だけが、それに触れた。
言葉では言い表せない感覚が、指から伝わる。触れた瞬間にそれは空中から消失したが、梨央は一瞬で全てを理解した。
勢い余って、ヘッドスライディングのように固い床に倒れこむ。
めちゃくちゃ痛かったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。梨央はすぐに起き上がると、部屋を見渡した。
空中に漂っていた「何か」は消えうせ、人の気配もなくなっている。クローゼットが開いている以外におかしなところはない。
右手を見る。興奮で指先が震えているが、求めていた異次元に触れた感触はまだ残っている。
梨央は短パンのポケットから、克彦にもらった知恵の輪を取り出した。
両手でそれぞれの輪を持ち、大きく深呼吸する。そして、二つの輪をゆっくりと離していく。
カチリと小さな音を立てて、輪はぶつかり合った。
梨央はもう一度、深く深呼吸した。スタートピストルが鳴るのを待つ短距離走選手のように真剣な目で、輪を見つめる。
ゆっくりと、輪を離していく。
輪がぶつかるまで、あと一センチ、五ミリ、一ミリ――
二つの輪は、音も抵抗もなく、はじめからつながっていなかったかのように、スッと解けた。
「あ……」
梨央は大きく目を見開いて、二つの輪を交互に見た。その顔に、徐々に歓喜の表情が浮かぶ。
「……や……や、やったー!!」
梨央は一メートルも飛び上がった。そして、重力に引かれるまま床をすり抜け、階下の浴槽に落下した。
背中から落ちたので派手な水飛沫が上がった。湯が入っていなければ大怪我をしているところだ。
「おお、梨央、テレポーテーションできたか」
頭を洗っていた智久がのんきな声で言った。
いきなり水の中に飛び込んでしまった梨央は、状況が分からず溺れかかった。もがくうちに浴槽のふちに手がかかり、ザバッと身体を引き上げる。
手で顔を拭い横を見ると、泡まみれの智久がいる。それでやっと風呂場だと気付いた。
「パ、パパ! あたしテレポーテーションできた!」
さっきの言葉は水中で聞こえなかったらしい。梨央は志望校に合格した受験生みたいに興奮して報告した。
「そうか、偉いぞ梨央。よく頑張ったな」
まったく動じない智久の心臓も大したものである。
「パパ! あたし外行ってくるね!」
言うなり梨央の姿は消えた。主のいなくなった空間に水が押し寄せ、浴槽に波が立った。
梨央が飛び込んだせいでお湯が半分に減ってしまった浴槽を眺めながら、智久はつぶやいた。
「……やっぱりアルが自発的に戻ってくるのは期待できないか……梨央には頑張ってママを連れ戻してもらわないといけないなあ」
梨央は家の前の道路にテレポートした。通りすがりの老婆が、突然現れたずぶ濡れの少女に目を丸くして立ちすくんだ。
両手を広げ、手のひらを見つめて歓喜の表情を浮かべる。人外の能力に目覚めた人間が一様にとる、あのボーズだ。
梨央は夜空を仰いだ。電話会社の大きな鉄塔が目に留まった。十階建ての建物の上に、高さ五十メートルほどのアンテナが屹立している。
建物の屋上に視線を集中させる。梨央の視界はジェット機に搭載したカメラの映像のように高速で移動し、屋上の隅に到達した。軽く膝を折って身構える。
「てやっ!」
掛け声とともに梨央の姿は消えた。後で家族に認知症の疑いをかけられることになる不運な老婆は、腰を抜かしへたり込んだ。
屋上の隅、フェンスの外側に、梨央はスタッと降り立った。風が強くよろけてしまい、フェンスを鷲づかみにして身体を固定する。
濡れた服に強風が当たり、急激に体温が奪われてゆくが、そんなことは気にならない。梨央は鉄塔を見上げた。塔頂部に幅の狭い作業用のステージがある。
先に視界が飛ぶ。着地点を確認すると、身体を飛ばした。
目測を誤り、ステージ外周の手すりの上に梨央は着地した。
「おっとっと」
よろけたところを強風にあおられて、梨央は手すりから足を滑らせた――落ちる、と思った瞬間、梨央はもう一度短い距離をテレポートして、今度はしっかりとステージの上に着地した。
「ふうっ! 危ねっ!」
手すりに手をかけ、眼下の夜景を見下ろす。転落死しかけたのに恐怖の色は微塵もない。
家々はレゴブロックのように小さく、道路には赤いテールランプが蟻の行列のように並んでいる。
吹きつける風が、濡れたポニーテールを激しく揺らす。身体の奥から湧き上がってくる感動に、梨央は高らかに笑い声を上げた。
「はーっはっはっはっはあ!! 世界はあたしのものだ!!」
別にそんなことが目的ではなかったはずだが、調子に乗って梨央は宣言した。
☆