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いよいよアレにチャレンジします その②


 水曜日の放課後、SF研の部室には、梨央と麗子と小春が来ていた。

 少し遅れて克彦がやって来た。手にはスキーの選手が着けるようなゴーグルを持っている。

「お待たせ。梨央、これつけてみて」

 手渡されたゴーグルを梨央が受け取る。見た目よりも、ずしっと重い。

「わっ……結構重いわね」

「これでもデータ処理用のコンピュータは別にして軽くしたんだからさ、我慢してよ」

 克彦が背負っていたディバッグをテーブルの上に降ろす。中を開けるとB5サイズのノートパソコンが入っていた。

「ゴーグルが捉えた電磁波はいったんデータ化して無線でノートパソコンに送られて、そこで処理した映像がゴーグルのディスプレイに投影されるんだ――って、口で説明するよりかけた方が早いよ」

 顔半分を覆う大きなゴーグルを梨央はかけた。後頭部のベルトの長さを克彦が調整する。緩いと下がってしまうので、少しきつめに締める。

「痛……痛たたたた! か、克彦! 髪挟んでる!」

「あ、ごめん、ポニテが邪魔で……どう? いま大丈夫?」

「う、うん、気をつけてよね……それにしても、きっついわね! 孫悟空じゃないんだから、もうちょっと緩めてよ!」

「あー、きつい? あんま緩いと下がってくるから……はい、緩めた。でもこれ以上は緩くできないよ」

「ううう、きついなあ……」

 梨央は手でゴーグルの位置を微調整した。それでも締め付けはきつく感じる。

「念写のときのヘルメットよりはマシだけど、それでもビジュアル的にすごいわね」

 黒光りするゴーグルは頬から額の半分までを覆い隠している。これから戦闘機に乗り込むパイロットが装着しているなら違和感ないが、ブレザーの制服を着た女子高生が着けていると、尋常ではない怪しさだ。

「いったいどういう風に見えるの? それ?」

 麗子が聞く。

「……すっごいサイケデリックな色彩よ……レーコの制服がショッキングピンクに見えるわ……うう、頭がおかしくなりそう……」

 ゴーグルのせいで表情はうかがえないが、辛そうな声でうめく。

「しょうがないだろ、普通は見えない電磁波を、目に見えるようにして投影してるんだから」

 克彦がゴーグルの機能を説明する。

「超長波の電波からガンマ線までセンサーで捉えて、それを周波数変換して可視光線の領域に圧縮してるわけ。可視光線の領域は360から830ナノメートルくらいなんだけど、それを400から600に圧縮して、空いた領域に人間には見えない電磁波を周波数変換して割り込ませてるんだ。だから色がメチャクチャなのは勘弁してよ。肌や髪の色は変わってないでしょ? 人体に関わる色は変化しないようにして、不気味にならないようにしてるんだ。気を遣ってるんだよ、これでも」

「そ、そうなの? ありがたいけど……う~、気持ち悪いなあ。これで食事はしたくないわね……」

 麗子がオエ、と気持ち悪そうな顔をする。

「何色に見えるのか知らないけど、青いご飯とか食べたくないわね」

 青いご飯を想像したのか、小春も口をへの字にして舌を出した。

「あと、これはおまけ」

 克彦はポケットから直径五センチほどの金属の輪っかを二つ、取り出した。輪はつながっていて、継ぎ目はない。つなげた後に溶接したらしい。

「何これ?」

「知恵の輪」

「知恵の輪って、これ完全につながってるじゃない? どうやって外すのよ」

「四次元を通せば外れるだろ。それが外せたら、テレポもできるよ」

 克彦が知恵の輪を差し出す。梨央は頷いてそれを受け取った。

「……ありがとう。早く外せるように頑張るわ。克彦、このゴーグル、持って帰っていいのよね?」

「ご自由に。バッグにACアダプター入ってるから、バッテリー切れたら充電して」

「ありがとう。今日はこれで解散ね」

 そういって梨央はパソコンの入ったバッグを背負い、自分の鞄を手にした。

「り、梨央! あんたそれ着けたまま帰るの!?」

 ゴーグルを外そうとする気配のない梨央に、麗子が聞いた。

「当然じゃない。いつ次元の裂け目が見えるか分かんないんだから」

「……どっから見ても頭のおかしい人よ……その通りではあるんだけど」

「あたしには時間がないの。明後日、金曜日にまた集まりましょう。解散」

 梨央はすたすたと歩いて部室を出て行った。後ろ手に引き戸を閉じる。後にはポカンとした顔の三人が残された。


        ☆


 翌日、翌々日と、梨央はちゃんと登校してきたが、何だか疲れたような顔で、元気がなかった。

 麗子が家であのゴーグルを着けているのかと聞くと、そうだと答えた。

「……重いしキツイし、見るものみんな極彩色になっちゃって、最悪よ。んで、克彦の知恵の輪をひたすらカチャカチャやってるの。頭がおかしくなりそう」

 麗子が呆れ顔で溜息をつく。

「よくやるわね、あんた。小春が悟りを開くようなものだって言ってたじゃない、ゴーグルは要らないんじゃないの?」

「……今んとこ五里霧中だから、何でもいいから寄りすがるものが欲しいのよ。気休めだってのは分かってるけど……」

「あんまり根詰めない方がいいわよ。顔色悪いわ」

「……そうもいかないのよね」

 そう言って梨央は前を向いた。授業中も上の空なのが、後から見ていても分かる。


 ――人に心配かけないと生きていけないタイプね、こいつ。


 麗子は思った。


        ☆


金曜日の放課後、梨央と小春と克彦は約束通りSF研の部室に集まっていた。

「どうだよ、梨央? 知恵の輪外れた?」

「……まだよ。ルービックキューブ六面揃える方が簡単だわ」

 疲れ顔の梨央が面倒くさそうに答える。

 理屈を考えただけで役に立つアドバイスができないでいる小春は、申し訳なさそうな顔をしている。

 遅れて麗子がやってきた。手に数枚のA4紙を持っている。

「あ、レーちゃん、遅かったね」

「これ取りに行ってたの。みんな、これに名前書いて」

 一枚一枚手渡す。表題には「入部届け」とある。

「何よこれ? あたしら何に入部するの?」

 届出書をひらひらさせながら梨央が聞いた。

「部の名称のところは、『SF研究会』って書いてちょうだい。この部を復活させるの」

 腰に手を当て、麗子が宣言する。

「何で今さら、あたしSFなんか興味ないわよ」

「私たちの中であんたが一番SF的なんだけど……いいから名前書いて。SF研は仮の姿よ。実はあんたの超能力を開発する部なの」

 ふーん、と梨央は他人事みたいに書面を眺めている。

「申し出はありがたいけど、部にする必要あるの?」

「あるわよ! この部室あんたがかっぱらった鍵で勝手に使ってるじゃない! 委員長なのよ、私! ばれたら大変なんだから、私の立場も考えてよね! ……まあ、SF研の復活ってのは口実だけど、実際やってることは〝超能力の開発〟ってまさにSFっぽいことやってんだから、その点はあまり罪悪感ないわ」

「……そっか、慣れちゃって無断使用ってこと忘れてたわ」

「レーちゃん、顧問の先生とか要るんじゃないの?」

 小春が口を挟む。

「佐野先生にお願いしたわ。『部活に引っ張り込めば梨央の出席率も良くなると思います』って持ちかけたら、二つ返事でオーケーだったわよ。梨央、マリア先生が復職したら、あんたのお母さんが顧問よ」

 母親が部活の顧問。喜ぶのか嫌がるのか、多分喜ぶだろうと麗子は思っていたが、その通り梨央は顔を輝かせた。

「え! ママが顧問になるの、やったあ! レーコ、気が利くわね!」

 ……本当に母親が好きなのね、この子。お母さん留守で寂しいんだろうなあ。それはそうと、母親と、レズの娘と、娘が狙っている女の子が同席……何だか荒れそうな気がする。マリア先生は梨央がレズなこと知っているのだろうか?

「えーと、レーコ。確か部って最低五人必要じゃなかった?」

 克彦が疑問を口にする。

 まったく、梨央のための部なのに、こいつ自身は何にも気にしないんだから。

「あたしのクラスの里美に幽霊部員になってもらったわ。『SF研究会なんてダミーでしょ、集まって何してるの?』って聞くから、『梨央の超能力を開発してる』って言ったらケラケラ笑ってたわよ」

 梨央がちょっと怒る。

「ちょっと、軽々しくあたしの秘密を喋んないでよ」

「信じる人いないわよ。どうせ……」

「え? ひ、秘密だったの……? あ、あたし弟や妹に毎日喋ってた……」

 梨央は椅子からひっくり返りそうになった。

「こ、小春! あなた事の重大さをどう認識して……まったくこの天然娘は……」

 怒られてしょんぼりする小春。そういう姿も可愛らしい。

「いいじゃないの、この子の弟妹って幼稚園から中学生よ。よそで喋っても戯言と片付けられるわ。さて、私ちょっと取ってくるものがあるから、待っててくれる? それまでに入部届け書いておいてね」

 麗子はそういい残して部室を出て行った。「取ってくるもの」ってなんだろうと思いつつ、三人は入部届けに必要事項を記入した。


 ほどなくして麗子は戻ってきた。手にはコンビニのレジ袋。

「……今買って来たんじゃないわよね?」

 梨央が聞く。

「料理研の冷蔵庫借りてたの」

 麗子は袋の中身を一つひとつテーブルの上に出した。イチゴの乗ったショートケーキが二つに、ティラミスが二つ。コーラとお茶のペットボトルに、プラスチックのコップ。

 甘い物好きの小春が目を輝かせる。しかし、同時に三人の頭には?マークが浮かんでいる。

 何でケーキ?

「……誕生日おめでとう、梨央」

 ちょっと恥ずかしそうに、麗子は言った。梨央がハッとする。

「えー! 今日梨央先輩の誕生日なの!?」

 小春が素っ頓狂としか言いようのない声を上げる。

「もー! レーちゃん何でもっと早く言ってくれないのよ! そしたらプレゼントとか用意できたのに!」

「……あなたに事前に伝えると徹夜で編み物とかしそうだから、わざと黙ってたのよ」

 梨央はケーキを見つめて目をパチパチさせている。こういう風に祝福されるのに慣れていないようだ。

「あ、ありがとう、レーコ……あんた、あたしと喧嘩ばっかしてるのに……」

 麗子も気恥ずかしそうに頭を掻く。

「生徒会の集まりでクラスの名簿見てたら、あんたの生年月日が目に入っちゃったのよ。あんたとは腐れ縁だけど、知ってて何もしないのも心苦しいし、このメンバーで祝ってあげよっかなって思ったの。あんた、お友達を家に呼んでパーティーとかしないでしょ?」

「どうせ非コミュですからそんなことしませんけど。レーコも天邪鬼(あまのじゃく)ね、そんな憎まれ口きいて。あたしのこと愛してるんでしょ、素直になっていいのよ」

「……私と克彦はティラミスね。小春と、主役の梨央さんはイチゴショート。梨央、塩せんべいの方がいい? 用務員室からもらってくるわよ」

「ごめんなさいケーキが食べたいです」

 小春と克彦が笑う。梨央も照れくさそうに笑った。

「あ、そうだ。梨央先輩、いいものあげる」

 小春が鞄を取り、中から図書館で借りた本を出す。ペラペラとめくって、挟んであった栞を取った。

「はい、プレゼント。こんなのしかあげられなくて、ごめんね」

 梨央は栞を受け取った。ラミネートされた手作りの栞で、淡い黄色の和紙の上に、押し葉にしたクローバーが三つ乗っている。クローバーは全て四葉である。

「わ、これ四葉じゃない。い、いいよ、小春、こんな貴重なもの。また見つけるの大変でしょ」

「大丈夫。四葉のクローバーなら、うちに炒め物にできるくらいあるから!」

 ビシッと親指を立てて見せる。

 梨央は本当にもらっていいのか分からず、許可を求めるように麗子を見た。コクンと頷く麗子。

「じゃ、じゃあ、もらうね、小春……ありがとう、こんな大事なもの……」

 栞を手のひらに包み、大切に慈しむ。珍しくしおらしい梨央だった。

「じゃあ、オレも何かあげようかな、ガチャガチャしたのしかないけど。梨央、これ欲しい?」

 克彦がズボンのベルト通しにカラビナでぶら下げていたLEDライトを外し、差し出した。梨央は首を振った。

「いいよ、それあたしにあげたら、あんたまた買うんでしょ? 克彦にはいつもいろんな機械作ってもらってるから、気持ちだけもらっとくね」

「そう? 他にもテスターとか男っぽいのしかないからなあ……悪いね」

 克彦はそう言ってカラビナを腰に戻した。何故か梨央がジト目で麗子を見ている。

「何よ、梨央、その目」

「あんた何かくれないの?」

「私ケーキ買って来たでしょっ!! ご不満!?」

 瞬時に額に青筋を立て、怒鳴る。

「冗談よ、レーコの気持ちが一番嬉しいわ、本当にありがとう」

「うう……ってもう! 人を怒らしといて急に素直になるな! 切り替えにくい!」

 さりげなく素直な礼を言われ、麗子はぐだぐだに突っ込んだ。

「変なレーコ。さ、ケーキ食べよ。小春、飲み物注いで」

 小春はハーイと返事をして、ペットボトルを開けた。梨央と克彦がコーラ、麗子と小春がお茶。

「レーちゃん、ローソクないの?」

 麗子のコップにお茶を注ぎながら、小春が聞いた。

「コンビニスイーツだから、そんなのないよ」

「じゃあ、エアローソクでやろうよ」

「エアローソク? 何それ?」

「待ってて、暗くするね」

 小春は席を立つとトテトテと窓へ行き、カーテンを閉じた。

 続いてドアの方へ。蛍光灯のスイッチを切る。昼間だから真っ暗にはならないが、部室は本を読むには適さない程度に薄暗くなった。

 席に戻った小春が、胸の前で指を動かす。細長いものを数えているような動作。

「梨央先輩、十七歳だよね。じゃあ太いのが一本と、細いの七本。あ、ちょうどケーキ一個に二本だ。克彦君は男の子だから、太いの刺していい?」

「え? う、うん」

 克彦のティラミスの上に、小春が見えないローソクを刺す。太いのが一本に、細いのが一本。つまんだ指の間隔で、ローソクの太さが分かる。

 残りもケーキの上に刺していく。小春の手先は滑らかに動き、本当にローソクをつかんでいるようだった。

「はい、準備オッケー」

 テーブルの上にはケーキが四つひとまとまりに置かれているだけだが、梨央たちにはその上に立つローソクが見えていた。

 小春の手の動きが変わる。マッチ箱だと、すぐに分かった。

 箱を開け、中のマッチを一本取り出す。側面のヤスリに、シュッと擦りつけると、オレンジ色の炎が仄かに灯った。

 左手を添えて風を避けながら、一本一本、ローソクに火を点ける。全てに火が灯ると、小春は息を吹いてマッチを消した。

 燃えさしのマッチを持って、キョロキョロする。小皿を見つけたようで、それを引き寄せると、マッチを中に捨てた。

 梨央たちは魅入られたように、小春の手の動きを見つめていた。

「さ、歌お」

 え? 歌?

 小春のパフォーマンスに心を奪われていた三人はきょとんとした。


 せーの、ハッピーバースデイ トゥーユー ――


 澄んだ声で、小春が歌う。

 あ、そっか、と気付いて、麗子と克彦も声を合わせた。



  ハッピーバースデイ トゥーユー

  ハッピーバースデイ トゥーユー 

  ハッピーバースデイ ディア 梨―央―

  ハッピーバースデイ トゥーユー――


 三人の声は重なって響きあい、揺れるローソクの灯りと一緒になって、部屋を満たした。歌声は優しく梨央の心に染み込んでいった。

 静かに歌が止む。小春が、梨央先輩、と呼びかけた。

 期待を込めるような小春の目線で、ローソクを消すのだと気付いた。梨央は戸惑いながら、大きく息を吸う。

 なぎ払うように息をかけると、ひと息で七本が消えた。残った一本にふっと息を吹きかけると、それも消えて、白い煙が細く立ち上った。

 小春と麗子と克彦が、一斉に拍手する。梨央はその温かい祝福が自分に向けられていることがうまく呑み込めず、半分ぼーっとしていた。

 でもしだいに、子供のころ家族に祝ってもらった誕生日を思い出し、懐かしい幸せな気持ちが胸にこみ上げてきた。

 目頭が熱くなり、梨央はぐずっ、と鼻をすすった。

「あれ? 梨央泣いてるの?」

 麗子がからかうように言うと、梨央は慌てて手で鼻を押さえた。

「な、泣いてないわよ! ちょ、ちょっとローソクの煙が目に染みただけなんだから!」

「へー、煙がねえ」

「あ……ああ、し、しまった……」

 テーブルの上にはケーキが四つ。もちろんローソクは立っていないし、その跡もない。あれが幻とは、何だか信じられない思いだった。

「梨央ったら、感激して泣いちゃうなんて、可愛いとこあるじゃない」

「う、うるさい~! ひやかすな~! ひっく、ぐずっ」

 堪えようとしたのが逆効果で、梨央の目から涙がこぼれた。

 相変わらずハンカチを持ち歩かないのか、手の甲でぐじぐじと涙を拭っている梨央に、麗子がハンカチを貸した。

 梨央はそれで顔を拭き、広げて洟をかんだ。

 洟かむなって言ってんだろ! と麗子が突っ込み、小春と克彦は腹が痛くなるほど笑った。


        ☆


 梨央が帰宅するころには、辺りはすっかり暗くなっていた。

 新生SF研の部室で誕生日を祝ってもらい、長々とおしゃべりをしていたら、帰りが遅くなってしまった。

 玄関を開ける。中は暗い。

 父親の智久は、今日はどうしても抜けられない仕事があり、遅くなると言っていた。

 朝食を食べながら、誕生日にいてやれなくてすまないとしきりに謝る智久に、もう子供じゃないんだから構わない、と梨央は言った。

 リビングとキッチンの灯りを点ける。父の前では気丈なところを見せたが、誕生日にこうして誰もいない家に帰ってみると、切ない気持ちになる。

 みんなに祝ってもらえて良かった、と梨央は思った。

 部室でのパーティーは本当に楽しくて、まだ気分が高揚しているから耐えられるが、何もなしに家に帰っていたら、結構凹んでしまったろうと思う。

 テーブルに鞄を置く。冷蔵庫を開けて、冷やしてあった麦茶を飲みながら中を物色し、夕飯のメニューを考える。

 しばらく買い物に行っていないから大した食材はない。

 一人だしレトルトソースのパスタでいいやと決め、梨央は深鍋に水を張った。コンロに掛け、火を点ける。

 お湯が沸くまでに着替えようと、梨央は鞄を取って自室に向かった。

 二階への階段を半分ほど登ったときだった。階下で小さく物音がした。

 「カタッ」と、椅子にでもぶつかったか、何か固いものが倒れたか、そんな音だった。

 智久が帰ってきたのなら、玄関を開ける音がもっと大きく聞こえるはずだ。

 あるいは気のせいだったのかもしれないし、誰もいなくてそれくらいの音はするものだ。

 気にするほどのことではない。しかし、梨央は何故か胸騒ぎがして、鞄を放り投げて階段を駆け下りた。

 走ってリビングに飛び込む。誰も居ない。すばやくキッチンへ移動する。そこにも誰も居なかった。

 小さく溜息をつく。部屋はしんとして、人の気配はない。玄関や風呂場を見に行こうという気にはならなかった。

 やはり気のせいだったのだろうか。梨央はそう思い、何気にテーブルに目をやった。

 さっき麦茶を飲んだコップが置いてある。その横に、一枚のメモ用紙があった。

 梨央が目を見張る。テーブルに走り寄って、パッとメモを手に取った。




   梨央へ

     お誕生日おめでとう

     愛してるわ

             ママより


 ペン習字の手本のように達筆な文字。マリアの字だ。

 梨央は顔をこわばらせて、じっとその文面を見つめていた。

 目尻に涙が浮かぶ。まばたきすると、涙がゆっくりと頬を伝った。奥歯を強く噛みしめる。

「……ママのバカ……こんな紙切れ一枚で……」

 メモを持つ手を握り締める。クシャッと音を立て、メモは折れ曲がった。

 そのままゴミ箱に投げ込もうとして――梨央は腕を上げたまま、躊躇して止まった。

 捨てることはできなかった。腕を下ろし、手のひらを開く。クシャクシャのメモを梨央はテーブルの上に広げ、皺を伸ばした。

 冷蔵庫に磁石で貼り付ける。手の汗がついたのか、少しだけ文字がにじんでいた。

「……ごめん、ママ……」

 小さくつぶやく。

 梨央はキッチンを出て、自室へと階段を登っていった。


        ☆


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