平和な朝
「“まゆだま塾”、ですか」
そう呟いて少女は横目で食卓の方を見た。
「かわいい名前ですね、“まゆだま”って」
「僕も昔通ってたんだよ。ちっさな塾でね、先生と、塾長先生の二人でやってる。そこで読み書きを教わったんだ。君よりも、ずっとずっと小さい子どもの頃」
アントンは診療所でサティの手に軟膏を擦り込みながら、言葉を続ける。
あいつめ、どうあっても俺に連れて行かせるつもりだぞ──ジェシーは聞こえないふりで食卓を離れ、裏の勝手口へと回った。木戸に挟まれた新聞を引き抜き、また食卓に戻る。
「でも……お仕事の邪魔ですよね。私は大丈夫ですから。ここで待ちます」
ああそれがいい、ぜひそうしてくれ。
心の中で少女に同意しながら、ジェシーは新聞を広げ、記事に目を落とした。
「ダメだよ、女の子一人なんて物騒だもん。物盗りでも入ったらどうするの」
「物盗り、ですか」
「金目のものを出せーとか、体を差し出せーとか、いるんだよ時々。ここらへんはそんなに治安が良いわけでもないし」
「物はわかりますけど……体なんて、どうやって差し出すんですか」
「さあ、それは僕もよく知らないけど」
うそつけ、と一人ごちてまた新聞に目をやる。
とりたてて気になる記事は見当たらない。しいて言えば、税金が上がりそうだと伝える記事くらいだろうか。
それだって、どこにも住人として登録されていない人間にはあまり関係のない話だ。
「戸締まりなんてしても、悪いやつは壊して入ってくるからね。行っておいで、先生と」
「でも……」
今度は手足の傷を診せながら、サティは探るようにこちらを見る。
ジェシーは素知らぬふりで新聞で顔を隠した。
「大丈夫、邪魔になんかならないよ」
少女の包帯を巻き直しながら、アントンが言う。
「先生だって、教えてる時間より子どもと遊んでる時間の方が長いんだから」
「まあー、そうなんですか?」
「そうだよ。でしょ、先生」
こちらに話を振られ、ジェシーは渋々顔を上げた。
診療所のサティと目が合う。特に何も起こらない──昨日のような幻は、特に見えない。
あれはなんだったんだろう。
気のせいだったのかな。
──などと考えながら、ジェシーは少し反論することにした。
「そーゆーこと言えるのはな、アントン。あのチビたちの遊びに付き合うのがどんだけ重労働か知らないからだな」
「またまたー。けっこう楽しんでるくせに」
「そう見えるんなら、それは俺の精神修養の賜物だ。おまえ代わりに行ってみるといいよ。もう許してくださいって気分になるから」
「精神修養、ですか」
と呟いたのはサティだった。
男二人が同時にそちらを向くと、彼女は慌てたように──あるいは恥ずかしげに顔を伏せた。
「……変なところに食いつくな」
「あ……そ、そうでしょうか」
「渋いなー、精神修養なんて僕は口に出して言ったことないよ」
「いえあの、別に深い考えは無いんです。ただそんな言葉が出てきたのが意外に思えて……あっ、別にあなたが精神の鍛練とは縁遠そうだとか、そんなこと思ったわけじゃないんです。ただなんというか……」
「なんというか?」
「普通に暮らしてる方も、そういった言葉を使うことがあるのだな、と思って……」
ジェシーとアントンは互いに顔を見合わせた。
サティは「御茶を淹れますね」と言いながら二人に背を向け、台所に立った。この話はもうおしまい、という意思表示だろうか。
どうなの、先生──とカルテを記入しながらアントンが目配せしてくる。放っとけ、とこちらも目で合図する。
サティはというと、あちらこちらの戸棚を開けては閉め、開けては閉めを繰り返している。その姿を見て、ジェシーは茶葉を切らしていることに気がついた。
自分一人が飲むために茶葉を用意し、湯を沸かしたことなど、考えてみれば一度もない。
「……ごめんなさい、白湯でいいでしょうか」
何とも済まなそうな顔をして、サティは湯気の立った薬缶を手に取った。
かまわんよ、と返事をする前にアントンがこちらに言い放つ。
「先生、お茶っ葉買ってきて。あと茶筒どこにやったの?」
「……茶筒?」
「葉っぱむき出しでしまっとくわけないでしょ。あるはずだよ、こん位の缶」
そんなんあったかな、と首を傾げる。しばらく思案して、在り処を思い出す。
ああ、まゆだま塾に持って行ったのだ。小さくなった白墨を入れとくのにちょうどよかろうと。
「……替えを調達してくるよ」
「あっ、さては失くしたんだ」
「いや、ある。あるけど今は茶筒じゃない、ただの缶になってる」
「なにそれ」
「なんでもないよ」
もーこれだよ、と呟いてアントンも診療所を離れた。台所に向かい、湯呑に白湯を注いだサティに話しかける。
「君に買ってきてもらおうかな、お茶っ葉」
「えっ。市場で、ですか?」
「うん。先生にお茶の違いが分かる気がしない。番茶でいいのに玉露買ってきそう」
まあ、とサティは少し面白がるような声を出す。
だがすぐに元の真面目な顔に戻り、こちらを見て、アントンを見て、思案するように俯いた。
アントンがこちらを見る。ほら、なんとか言ってあげなよ──目にそう書いてある。ジェシーは渋々ながら、口を開いた。
「……一緒に行くかい?」
ぱっ、と少女は顔を上げた。そして「はい」と頷いた。
アントンがにまっと笑う。
「行っておいでサティ、“まゆだま”に」
はい、と少女はもう一度頷いた。
彼女が淹れてくれた白湯を啜りながら、ジェシーは一つ息をついた。
まあ、仕方なかろう。
なんにせよ一人にするのは良くないだろうし、昨日は靴を買ってやるのを忘れたし、番茶と玉露の違いなど自分にはわからない。
──それに、彼女の件を“まゆだま”の塾長に伝えておくのは必要なことだろう。言葉で説明するより、本人を連れて行った方が話が早い。
アントンは食卓の向かいに腰掛け、隣に座ったサティに“まゆだま塾”の話をしている。
小っちゃい塾でね、教室は一つで、本があって、あと人形やなんかの遊び道具も。
まあ、いいですね。
通って来る子は小さい子ばかりだから。最初に教わるのは、自分の名前の綴り方。次に家族の名前、物の名前、町の名前……
ここは、なんという町なんですか?
ポルトラ西。
……では、王宮や大寺院とも近いんですね。
そうだね、城下町の西の端あたりだよ。“まゆだま”の塾長先生は、城下町の城壁の内側の人。貴族じゃないけど、お金持ち。
その方が、なぜ塾を?
なんでだろうね。道楽かな。
道楽、ですか。
塾代をほとんど取らないから。だから、みんな通えてるんだけどね。
まあ、それは素晴らしいことです。
「……さて、そろそろ支度して行こうかね」
そう呟いて席を立つと、サティも「はい」と立ち上がった。
素直な良い返事だ。
ジェシーは自分で意外に思うくらい、それを聞いてほっとした。外套を着込んで帽子をかぶり、サティの方を見る。
ああ、あいつの上着ちょっと薄いな。一冬越すには頼りないぞ──
「サティ、これ使って。それだけじゃ寒いから」
自分が気づくようなことはアントンがとっくに気づいている。
アントンは少女に肩掛けを巻いてやっていた。それは兄妹のようにも、若い恋人たちのようにも見えた。
“普通の娘の生活”か。
与えられるとしたら、自分ではなくアントンのような“普通の”若者だろう。
「はい、行ってらっしゃい」
戸を開けると冬の冷たい空気が頬を刺した。
細い指で肩掛けの前を合わせながら、後からサティがついてくる。
小さな歩幅に合わせ、ジェシーは歩く速度を落とした。
十四歳か、十五歳か。
このくらいの女の子って、どんななんだろう。
俺がこのくらいの時は、何して生きてたっけ。たしか、ポルトラ王家と西方伯が戦争するんじゃないかって、噂になってた頃だよな。
「アントンはいいやつだろう」
話しかけると、サティは小さく頷いた。
「優しい人ですね」
「世話焼きなんだ、あいつは。ばあやがいるみたいなもんさ」
「ばあや?」
「男だから、じいやかな」
くすり、とサティは笑ったようだった。
だが昨日の市場でのことを思い出してしまい、それも虚ろに聞こえた。
まだ二日だ。
ジェシーは自分に言い聞かせた。
大丈夫、きっと打ち解けられるさ。冗談だって言えるようになる。そうすれば、肝心なことも色々話してくれるだろ。
路地をいくつか抜けると大通りに出た。仕立ての良い馬車が行きかい、通りの左右に商店が並んでいる。
「靴屋、寄ってくかい?」
「いえ。お借りしたもので十分です」
「……おまえ、安上がりな娘だねえ」
「だって……本当の本当に十分なんですもの」
サティは困ったような顔をする。
やっぱり尼さんだ、とジェシーは一人頷いた。質素倹約を旨とする。貧乏暮しというよりも、寺院での生活で身に着けたに違いない。
だが待てよ、ポルトラの大寺院なんかは、けっこう豪奢だぞ。やっぱり総本山だからかね──
大通りを横切り、また人気のない路地に入る。城壁に背を向けるようにして歩くうち、子どもが何人か道端で遊んでいるのに出くわした。
すぐそばには冬だというのに草花の生い茂る庭があり、その奥には小ぢんまりとした白い壁の家がある。窓から小さな子供が顔を出した。
看板も何もないが、ここが“まゆだま塾”という小さな私塾だということは近隣の者は皆知っていた。
「せんせい、来た!」
誰かがそう言うと、子どもたちはきゃあきゃあと騒ぎ始めた。わらわらと走り出て、ジェシーの腕や背中に飛びついてくる。
サティは少し戸惑いながら、庭に足を踏み入れた。
「せんせい、ちこくした!」
「してないよ」
「遅刻したー、せんせいのくせに!」
「だから、遅刻なんかしてないぞ。おまえたちが早かったんだ」
両手両足に一人ずつ、背中にも一人、前にも一人、六人の子どもを張りつけて、さすがに身動きが取れない。
サティはほとんど唖然としている。
「せんせい、寝坊したの?」
「まさか」
「じゃあ迷子?」
「違うよ。おまえたち、どうしても先生を遅刻したことにしたいんだな」
「ちがーうもーん!」
子どもたちはジェシーの帽子や外套を奪うと、自分たちで着たり被ったりしながら建物に入っていった。
花の咲く庭は、そこだけ春のようだった。
「せんせい、遊ぼう! 追いかけっこ。あと鬼ごっこ!」
「ああ……先生はね、おまえたちと違って朝から全力出ないんだよ。走って遊ぶんならそこのお姉さんが若くて元気一杯だから、一緒にやんなさい」
サティは自分を指して、目で“私?”と聞いた。
するとジェシーが頷くより早く、子どもが二人彼女のスカートをめくりあげて走り去った。春のような庭に高い悲鳴がひびく。
「きゃあああ!!」
「せんせい、白だった!」
「白! きゃーだって!」
「きゃーだってえ!」
サティは耳まで真っ赤になり、スカートを押さえながら──なぜかジェシーを睨んだ。
「ひ……ひ……ひどい」
怒りに満ちた表情で低く唸っている。
そりゃそうだよな、怒るよな──ひとつ拳骨でもくれてやるべきかと悪戯小僧の方を見ると、彼らは建物──教室へと逃げ込んでいった。
いけないんだー! と言いながら、ジェシーに貼り付いていた子どもたちも、そちらへ走っていく。
「……ごめんな、悪ガキで」
「ひどい、信じられない、ひどい」
「おまえを気に入ったんだよ。一緒に遊ぼうって意味さ」
「うそ!」
「男ってバカなんだよ、子どもの頃は特に……後でちゃんと叱るから」
「今! 今です! 今言ってください!」
おやこの娘、案外気が強いのかもしれないぞ──語気を荒げて怒るサティを、ジェシーは意外な思いで見つめた。
彼女は続けてこうも主張した。
「こういうことはその時、その場でガツンと言わないと、意味が無いんです!」
「そうさ、その子の言うとおり。さあ、早く入っといで!!」
しわがれた声は建物からだった。振り向くと、開いた扉の内側に一人の老女の姿があった。
うっ、とサティが息を飲む。
一目見ただけで強烈な印象を残す老女だった。
銀色の髪が巻貝のごとく結いあげられ、高くそびえている。小柄な体には不釣り合いな大きな胸が、周囲を威圧するようにどんと鎮座ましましている。そしてぎょろりと大きな目がこちらを射るように見据えている。
その威力たっぷりの視線は赤毛の少女に注がれていた。
「あれがイングリッド……ここの塾長で、アントンの後見人で、“揚羽蝶”の大女将だ」
サティはなにも答えず、イングリッドの方を見つめていた。
イングリッドも、少女を見つめていた。
視線の応酬だ。
おお、おっかねえ──と呟いて、ジェシーは教室に向かった。