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西日射す静寂の水面

「聞きたいこと、全部聞けたかい」


 そう問いかけると少女は少し考え、はいと頷いた。

 そしてすぐに食事に戻った。

 顔色は、あまり良いとは言えない。元気のない様子で口元をもぐもぐと動かしている。

 だが腹は減っていたと見え、平らげるのは早かった。


「ごちそうさまです」


 そう呟いて手を合わせ、食べ終えた皿を重ねる。ジェシーの分まできちんと重ね、ちらちらと店内の様子を伺っている。昼時を少し過ぎ、店の混雑は一段落したところだった。


「あらよかったのに、お皿」


 そう言ったのは、給仕をしていたトニーの奥方だ。食後の飲み物を持ってくるなり、ジェシーに耳打ちする。


「珍しいじゃない、お連れがいるなんて。どうしたの」


 噂好きの奥方の目がきらきらと眩しい。

 彼女はサティに、小さな銀紙の包みを渡した。受け取ったサティはぺこりと頭を下げ、確認するようにジェシーの方を見る。


「それね、あたしが焼いたお菓子。女の子だけのサービスよ。おじ様はお茶で我慢してね」

「……おじ様ねえ」

「これくらいの歳から見れば、大人の男はみんなおじ様よ」


 サティは重ねた両手に包みを乗せたまま、もう一度ジェシーの方を見た。食べていいよという意味で頷くと、彼女も小さく頷いた。

 包みを開く細い指は、乾いて荒れている。

 中身はポルトラ大寺院の山門を模した焼き菓子だった。巡礼の客が増えるのに合わせて、新しく作ったのだろう。

 サティはそれをじっと見つめている。


「生徒さんなの?」


 そう問うと奥方は給仕をアルバイトの店員に任せ、空いている椅子に腰かけた。


「違うよ」


 とばか正直に答え、すぐにジェシーはそれを後悔した。

 面倒だから生徒ってことにしときゃ良かったかな。ああでもだめか、こんな大きい子どもは通ってないもんな。


「まさか娘さんなわけないわよね」

「……誰の? 俺の?」

「冗談よ。きっとまた訳ありなんでしょ」

「またって何だよ」

「うちのあれが、まーた何か無理言ったんでしょ」


 奥方の視線の先にあるのは、カウンターの内側で新聞を広げているトニーの姿だ。ジェシーは肩をすくめ、「さあ、どうだろな」と呟くに止めた。

 狸親父め、なーにが「あいつら俺の稼業は知らないんだから」だ。ばかにしやがって。


「はああ」


 と変な声がしてそちらを見ると、サティがうっとりした眼差しで菓子を放り込んだ口元を掌で押さえていた。


「美味しいかい?」

「もうすごく、すごく、すごく……はああー……すごく、美味しいです」

「そうか、そりゃ良かった」


 答えながら少し、頬が緩む。

 同時に少し、ほっとする。

 これなら何とかやっていけるかな。いつまでも御通夜みたいな顔されていちゃ、こちらも持たない。


「そんなに喜んでもらえると、おばちゃんも嬉しいわあ。うちの娘なんか何食べさせてもふーんってなもんよ、つまらないったらありゃしない」

「娘、いくつになった」

「上はもう十三よ。一番下はこないだ五つになったわ」

「へえ……もうそんなになるのか」

「おたくの塾に手習いに行くのも、もうそろそろね」


 サティがまたちらりとこちらを見る。ん? と首を傾げて見せると「あ、いえ……」と黙ってしまった。

 身を乗り出して助け船を出したのは奥方だ。


「大丈夫よ、この人見た目は気持ち悪いけど、中身は案外いい男なんだから」

「どっちかにしてくれよ。けなすのか褒めるのか」

「……皆さんそう言いますね。見た目はちょっと、って」

「そうでしょうそうでしょう。あはは、傑作だわ」


 奥方はひとしきり笑うと、ようやく席を立った。サティにそっと耳打ちする。

 後でお菓子包んであげるわね。持ってお帰りなさいよ。

 まあ、いいんですか。

 いいのよ、沢山作って余ってるんだから。


「……で、何て言いかけたんだい」


 支払いを済ませて“酔いどれ”を出ると、冬の日差しは早くも傾き始めていた。ジェシーは市場に足を向けた。

 急いで買い物済ませて戻らなけりゃ、あっという間に夜になっちまう。


「本当に先生なんですね」


 サティが後ろで呟いた。家を出たときよりも、近い位置でついてくる。


「ここ何年かはな」

「それ以前は?」

「ただのごろつきさ」


 やがて二人は市場へと足を踏み入れた。


「迷子になるなよ」


 屋根のない広場に露店がぎっしりと並び、どの店も所狭しと商品を並べている。夕食の買い出しに来る客で、辺りはそこそこの賑わいを見せていた。

 サティは心細げな風情で周りに視線を配っている。市場の規模に圧倒されているのか、それとも誰かに見られることを怯えているのか、あるいはその両方かもしれない。


「まずは服か。忘れないうちに」


 服を広げた露店の女主人は、胡散臭いものを見るような視線を浴びせてくる。

 いつものことだ。

 とくに気にするようなことでもないし、失礼だとも思わない。

 いちいち気にしていては、身が持たない。


「この子にいくつか、いいの出してくれ」


 女主人はサティにも無遠慮な視線を注いできた。

 じろじろ見られ、彼女は怯むように一歩下がると男の背にそっと隠れてしまった。


「あの、先生」

「ジェシーでいいよ」

「服は……いいです、本当に。自分で手直ししますから」

「そうかい?」

「そうです」

「じゃあ下着だけ何枚かくれ」


 女主人はますます不審がる様子だった。

 そりゃそうだろう。

 女の子の下着を買う男なんてどう考えても不審者だ。けれど仕方ないさ。必要なんだから。


「足りないと思ったら言うんだぞ」

「はい」

「じゃあ次、晩のおかずだ」


 広い市場をぐるぐると歩き、食糧品を扱う一画に入る。野菜、果物、肉、魚の類から、酒や調味料まで大抵のものはなんでも揃う。

 料理の心得があればな、とジェシーは思う。自分で美味いものが作れれば、この市場は楽しい場所にちがいない。

 ろくろく台所に立たない自分は芋くらいしか買わないが、今後はそういう訳にもいかないだろう。

 アントンも帰省したのだ。

 この子にだって、それなりのものを食べさせなけりゃ。


「……サティよ」

「はい」

「おまえなら、何を買う?」

「私、ですか?」

「任せるよ」

「えっ」

「先歩きな。俺がついてくから」

「ええっ」


 サティは困ったように視線を泳がせたが、少しあたりを見回すとゆっくりと歩きだした。

 時々足を止めては品物を覗き込む。


 ジェシーはその後姿をじっと観察していた。

 ──子どもの身体だな。

 小さな背中。細い肩。華奢な腰。胸も尻もまだまだ薄い。

 赤い髪は首筋のあたりで切りそろえており、滑らかなうなじが覗いている。

 他の娘ならもっと長く伸ばし、可愛らしく結い上げようとするだろう。あるいは若さを誇るように風になびかせるだろう。

 ──もう少し華やいだって、罰は当たんないぜ。


 傾き始めた日の光が、慎ましやかな後姿を包み込む。

 光の中で、サティはくるっと振り向いた。

 その眼が──


「……お魚にしましょうか」


 ──ジェシーを捕らえた。


 返事をしようと、彼は唇を動かした。

 つもりだった。

 そしてすぐに気づく。

 言葉が出ない。

 体が動かない。

 何も特別なことは言われていない。

 なぜ。


 サティは屋台に乗った魚に視線をやった。

 その途端、呪縛が解けた。


「……ああ、魚か。いいね」

「ではこれを一尾ください」


 サティは丸のままの魚を選び、それから野菜をいくつか買った。

 ──なんだ今のは。

 ジェシーは首を傾げた。

 気圧されたのだろうか。年端もいかぬ少女に。そんな、まさか。


「魚、捌けるのかい」

「はい」

「偉いな。俺はやったことがない」

「海で育ちましたから……」


 答えた後で、あっという顔をする。上目遣いにジェシーを見て、すぐにそらした。

 言いたくないんだな。

 理由があるんだろ。言いたくない、理由。


「……無理に言わなくていいよ」

「……」

「しかしまあ……何に気をつければいいのかくらい、知っときたいんだが」


 サティの寂しげな眼が、再びジェシーを捕らえた。

 その眼はつややかに濡れている。

 少女らしからぬ表情で、彼女は呟いた。


「言えば、あなたにも累が及びます」


 まっすぐにジェシーを見つめ、横顔を西日に晒しながら。


「二、三日のうちに、おいとまします。ご迷惑にならぬうちに」


 くすんだ景色の中、少女だけが鮮やかに赤く染まっていた。

 市場の喧騒は遠く、聴こえない。

 足元には──鏡のような水面が広がっていた。

 ここは、どこだ。

 西日射す静寂の水面に、赤い少女と白い自分。

 映り込むのはその二つだけ。

 体が動かない。

 言葉が出ない。

 だが何か言わなくては。

 戻れなくなってしまう、ここから。


「……自分で、自分の身を、守れるのか」


 声を絞り出すと、また辺りの賑わいが耳に戻ってきた。

 それと同時に、全身が汗ばむ。

 ジェシーは知っている。こういうのを“ぞっとする”と言うのだ。

 サティが何か言おうと唇を開く。それを遮り、彼は言葉を続けた。


「……身寄りもない。行き場もない。何かから身を守らなきゃいけない。その

ための手段もない。あったとしても心得がない。

 ……どうするんだい、ないない尽くしで」

「……」

「場所がどこであれ、生きていくには金が必要だ。おまえのその手を見れば、働き者なんだってのは予想がつく。仕事の口なら見つかるだろうよ……お屋敷の女中とかな」

「……」

「だが帰る家のない娘は、守ってくれる大人のいない娘は、周りの人間に簡単に食い尽くされる。

 ……そんなの、おまえを背負ってきた坊さんだってきっと嫌だろう」


 サティの目に涙が浮かび、そして零れた。

 少女は両手で顔をおおい、小さな肩を震わせた。

 ずっと気を張っていたのだろう。


「俺はおまえを引き受けたんだ。おまえが行くって言うんなら止めないが、その時は一緒について行く」


 少女は答えず、頷きもせず、ただ震えていた。

 巣から落ちた雛のように。

 水辺にそよぐ、花のように。


「……今日はもう戻ろう。先のことは、またその時考えればいい」


 小さな手から買った物を受け取り、肩に触れて促すと、サティは涙をぬぐってついてきた。すん、すんと鼻を鳴らす。涙を止めることに苦心しているようだった。


 ──変な幻を見た。


 ジェシーの表情は険しかった。

 たしかに見えた、限りない水の世界。

 あれは何だったのだ。

 ──俺はなんて言った?こいつに。

 おいとまするなら、すればいい。元々が招かれざる客なのだ。

 厄介事と一緒に立ち去ってくれれば、それに越したことはない。

 引き止める理由などない。

 ましてや、一緒についていくなんて。

 なんだって俺はそんなことを言ったんだ。

 縁もゆかりもない、知らない女の子に。

 そんな思ってもいないことを。いや、もしかしたらほんの僅か、思っているのかな。そうでもなきゃ、あんなこと言いやしない──


 無理に自分を納得させ、家路につく。帰りつく頃、サティはどうにか泣き止んでいた。

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