昨日のジェシー
……そうか、名前言ってなかったな。
ジェシーだよ。よろしく。
えーとそれで……昨日のことか。
昨日はな、“酔いどれ”に行ったんだ。
市場を抜けてポルトラ城壁の方に歩いた先の、隣の地区にある。城門はくぐらない。
安い酒と旨い飯の店だ。
……表向きはな。
……表向きがあるってことは、裏向きがあるってことさ。
店主が副業をしてるんだ。
金を受け取って仕事をする。便利屋とでもいうのかね。
それこそ雨漏りの修繕から喧嘩の仲裁、店に並ばない物品の取り扱いに、時には仇討ちのようなことまで──ようは、やくざだな。
トニーっていう太った親父なんだが……古い知り合いでね。
昔はそいつの下請けをしてたこともある。
昔の話さ。
ずいぶん前にきっぱり止めて、だいぶ経つんだが……
……なんだよ。
嘘じゃないぞ。
おまえが医学校に進んだ頃から、一切仕事は受けてない。
……本当だぜ。
昨日“酔いどれ”に行ったのは、飯を食うためだ。
こいつが夜行で帰って来るのに合わせて、駅まで行くついでに軽く腹ごしらえ、くらいのさ。
だから手ぶらで行ったし、店が閉まる直前に入ったんだ。
その方が目立たなくていいし、空いてるし。
昨日もあの時間の客は俺だけだった。店の奥、カウンターの左の隅で──別に席なんかどこでもいいんだけどな。なんとなくそこに座ることが多いな。本当は、表向きじゃない客が座る席だ。それがあの店の符丁なんだ。
とにかく俺はそこで大人しく飯を食って、支払が済んだらさっさと駅に移動するはずだった。
トニーはカウンターの内側でやれ景気が悪いだの寒くて膝が痛いだのとぶつぶつ言っていた。長いんだ、あいつの愚痴は。
「ジェシー、おまえは一人もんだからわからねえだろうが、一家の親父は気苦労が絶えねえよ。女房はやかましいしガキどもは生意気だ。かわいいんだけどな。いや、結婚なんてするもんじゃねえよ」
飯はいつもどおり、旨かったよ。
トニーの愚痴なんて、半分以上は女房との惚気話だからな。適当に相槌打って済ませて、さあ勘定してもう行こう……っていう時だった。
すごい音で店の扉が鳴った。
誰かが外から叩いたんだろう。トニーは舌打ちして表を見に行った。
……まずったなあ、と思ったよ。
あんな叩き方するんじゃ急用に違いない。
しかもこんな時間だ。
間違いなく“酔いどれ”の副業を知っていて、来たんだろう。
外では何か知らんが揉めるような声がしていた。トニーのやつ、それは困るとかなんとか言ってるようだった。
……運がないんだな。あいつが困ってる所に居合わせるなんて。間違いなく無関係じゃ帰れない。経験上、そう思うわけだ。
だいたい俺は飯を食いに来たんであって、仕事をしに来たんじゃない。
こっそり裏口から出ようかと考えた。
だが残念なことに、トニーが俺を呼ぶ方が早かった。
「ジェシー、ちょっと手を貸してくれ」
……ほら、やっぱりだ。
渋々表に出ると、あいつもずいぶんと渋い顔をしていた。
腕には赤毛の女の子を抱えて……そう、おまえだよサティ。
「……どうしたんだ、この子」
「どうしたもこうしたも、いま置いてったんだよ。坊さんが」
「坊さんが置いてった?」
トニーが言うことにはこうだ。
体のでかい坊さんが表にいて、大金と一緒におまえを押し付けてった。
その坊さんはすぐにどこかへ消えちまったんだと。
「……なんで坊さんが女の子を」
「知らん、俺が聞きたい」
「でかい捨て子だな……十四、五歳ってとこか」
「さあーなんだかわからんが、俺は仕事を頼まれたらしい」
「ふーん」
「安全なところで預かっててくれだってよ。金も置いてった」
「へえー」
「ジェシー。おまえ、連れて帰れ」
「……はっ?」
まあ、そう言うだろうとは思ってたさ。
トニーって奴はとんでもない野郎で、絶対に自分じゃ動かない。他人を動かして儲けは自分の懐だ。やくざな親父だよ。
おまえを店に運ぶまでは手伝ったが、俺はそれ以上関わる気はなかった。
そんな予定じゃなかったし、そんなつもりもなかったし。
「なんでだよ。あんたが直接受けた話だろ」
「受けるも受けないもねえよ。押し付けられたんだ」
「だからって俺に回すなよ。嫌だ、女の子を預かるなんて。無理だ無理、絶対に」
「ハナっから諦めんなよ。おまえ、仮にも教師だろ。子どもの相手は慣れたもんだろ」
「十歳すぎたら専門外だ。それに諦めてるんじゃなくて嫌がってるんだよ。だいたい、今夜の汽車でアントンが帰ってくる。あいつになんて説明するんだ」
「店じゃ預かれねえよ。それこそ女房子供になんて説明するんだ。あいつら俺の稼業は知らないんだから」
「勘弁してくれ、俺が現役だったの何年も前だぜ。警察にでもお任せしたほうがいい」
「警察を頼れるんならうちには来ないだろ。どこの坊さんか知らないが、寺の恨みを買うのは御免だ」
「そりゃそうだろうけど……」
「俺を助けるつもりで。な、頼まれてくれよ」
「……」
「おまえが断るってんじゃ仕方がないな……この子は“揚羽蝶”にでも連れて行くさ。
赤毛は珍しいし、顔も悪くはなさそうだ。これならイングリッドもはずんでくれるだろ」
気が変わったのは、それを聞いたからさ。
“揚羽蝶”ってのは城門をくぐった先にある古い娼館だ。……娼館、わからないか。ならその方がいい。
トニーはつまり、おまえをそこに売っ払ってしまおうと、そう言ったんだ。
「……“揚羽蝶”は安全とは違うだろ」
「だが大切にはしてもらえるぜ」
「可哀想だ」
「じゃあおまえが連れて帰れよ」
「……」
「その方がみんな幸せだ。この子も、俺も、アントンも、イングリッドも。
足を洗ったおまえにゃ悪いがな。
だが安心しろ、今までの仕事とは違う。これは人助けだぜ」
別に人助けをしたかったわけじゃない。
縁もゆかりもない赤の他人だぜ。
ぽんと目の前に現れた知らない女の子の人生まで、いちいち気にしてちゃ生きていけないだろ。
包み隠さず言うが、それが偽らざる俺の正直な気持ちだ。
……けどこの子を置いて帰れば、間違いなくトニーは高値をつけて売り払う。
そうとわかってて置いてきたと知ったら……アントン、おまえ何て言う?
げー最低、とか言うだろ?
イングリッドにもぼろかす言われるんだ、きっと。「情けない」とか「ふがいない」とか「仮にも教師があーだこーだ」ってさ。
まあ要するに──結局、俺は丸め込まれた。
「……わかったよ」
「わかってくれたか」
「連れて帰る。俺が。今から」
「そいつは助かった。ほら坊さんが置いてった金、丸ごと持ってけ」
丸ごと持ってけ、なんてトニーはそんな気前のいい人間じゃない。
一文も中抜きせずにこちらに渡そうとするなんて、異常事態だ。
……とはいえ、今さら止めときますとも言えないだろ。
おまえはずっと眠っていたよ。
運んでも何しても、ぴくりともしなかった。
何ヵ所か怪我してるのが見えて、それで合点がいったんだ。転んだ風の傷じゃない。得物を持った人間から逃げる時に、抵抗してできた傷だ。
坊さん絡みの事情持ちじゃあ、トニーが金ごと厄介払いしたがるのも納得だよ。
「……で、いつまで預かってろって?」
「それがあの坊さん、言わずに行っちまったんだ」
「はっ?」
「本人が起きたら聞いてみてくれ……だとよ」
「なんだよそれ、ひどい話だな」
眠っていたからかな。
背負ったら、見た目よりも重く感じたな。
おまえは靴も無かったし、荷物も無かった。着の身着のまま、どこかから逃げて来たんだろう。
あんまり穏やかな話じゃないのは、たしかだな。
背負って運んでここに置いて、また駅まで出かけて……アントンはそりゃあもう、怒ってた。「なんでこの年の瀬に」って。
でも連れて帰らないで“揚羽蝶”行きだったら、もっと怒ったろ?
怪我はこいつが診たんだよ。医学生だから。
まあそんなわけさ。
昨日の話はこれでおしまいだ。
……それで、いつまでここにいたい?
急に言われても答えられないか。まあ、考えといてくれよ。
そちらの事情がなんなのか、こっちはわかんないから……でも、一旦受けちまった話だしな。途中で放り出したりはしないさ。
金も受け取ってるしな。
おまえの話も聞いときたいけど……それはまあ、そのうちでいいや。
……ああ、その坊さんのことが気になるって?
じゃあ行くかい、“酔いどれ”。買い物もしなくちゃいけないし。
アントン何か履くもの……ああ、とりあえずそんなんで十分だろ。
……え、服?ああそうか。何か出してやれよ。お袋さんの、残ってるんだろ。
洗濯の続きだったらやっとくよ。
後は干すだけ? なら簡単だ。
じゃあ、庭にいるからな。
あーでもこんな時間だし、今日は乾かないなこりゃ……