巡礼の娘
少女は泥のように疲れていた。
頭がくらくらする。体は重く、横になったまま動けない。
赤い髪は乱れ、手足の傷がじんじんと痛んだ。
夜通し走ったのだ。
だが、もう限界だ。
もう走れない。
どこへも行けない。
動けないなら、もうおしまいだわ。
観念し、そっと目蓋を持ち上げる。
するどく目に刺さるのは、きんと冴えた冬の光と冷気だった。
眩しさに目を細めて毛布を頭から被り直し、ハッとした。
どうして私、毛布なんて掛けているの?
──ぶわ、と跳ねるように飛び起きて、あたりを見回す。
ここ、どこだろう。
早鐘を打つように心臓が鼓動する。
どうして、なんでと頭の中で繰り返しながら、おそるおそる毛布をどけて衣を捲る。見ると手足には、傷の手当を受けた跡があった。
しかしその爪先は何も履いておらず、足の裏は血と土で汚れていた。
あたりを見回すと──すぐ近くに書き物用と思われる机があり、上には聴診器がぽんと転がしてあった。
──ここ、病院かしら──
彼女はほんのわずか安堵し、視線を巡らして壁の時計を確認した。
やだ、もうすぐお昼だわ。こんな時間まで寝てたなんて。
「よう……起きたのかい。おはよう」
声をかけられ振り返ると、男が一人壁にもたれて歯を磨きながらこちらを見ていた。
思わず息を飲む。
特異な外見の男だった。
髪が白い。
肌も白い。
青みを感じるほどの白さだった。
その中で瞳だけがどろりと赤く、際立って異質だった。
「……どなたですか」
問いかけた自分の声はかすれ、わずかに震えている。
お医者様かしら。でも、そうは見えない。
ならば何に見えるかというと、いまいちわからない。
「あー、ちょっと……待ってろ。うがいしてくる」
もごもごと答えると男は一旦奥に引っ込み、ほどなく戻ってきた。診察台の近くの椅子に腰掛け、伸びてほつれた白い髪をひょいと耳にかける。
そして、ふうーと息をついた。しぼみかけた風船から空気が抜けていくように。
「……はい、お待たせ」
「あの、あなたは……お医者様、でしょうか」
ちら、と赤い瞳がこちらに向けられる。すぐに視線は逸らされ、その白い男は目を合わせずに答えた。
「……違うよ。俺はただの居候だ」
まあこの人、睫毛まで白いんだわ。
思わずぽかんと見つめたが、そんな不躾な自分の態度に気が引けて、すぐに視線を外す。
男の方は慣れっこなのか気に止める様子もない。
「……いいかね、聞きたいことがあるんだが」
「……はい」
「名前、教えてくれるかい」
人に名を訊ねるときは、まず自ら名乗るべきである。
──と彼女は教わっていたが、問われるがまま素直に答えた。
「……アーナパーナアリヤサルマーサティ、です」
「……んん?」
白い男は眉間にしわを寄せて首を捻る。
ああ、私の名前は音が多すぎる──少女は慌てて名乗り直した。
「アーナパーナアリヤサルマーサティ……サティ、です」
ふうんと相槌を打つと男は億劫そうに体を動かし、小さな紙とペンを取った。そしてさらさらっと、少女の長い名前を綴ってみせた。
「……これで合ってる?」
少女は──サティはまた息を飲んだ。
この難解な名前を一度で正しく綴った。
それになんて美しい字を書くのだろう。
顔色が悪くて体温も血圧も低そうだし、もっと言えば投げやりに生きてそうな感じさえするのに。
こんな字を書くんだから、もしかしてちゃんとした人なのかしら。
そう思わせるに足りる美しく丁寧な筆遣いだった。
少なくとも彼女はそう思った。
「どうしてここにいるのか、わかるかい」
少し考え、首を横に振る。
「……わかんないか」
今度は、首を縦に振った。
指に挟んだペンをくるくる回しながら、白い男は横目でサティを見た。
「その怪我はどこでしたんだ」
「……」
「おまえの家は?」
「……」
「いや、まあ……いいんだけどさ」
なにがいいのだろう。
どう答えたものやら、サティは視線を足元に落とした。
つられたのか男も視線を落とし──一つ溜め息をつくと、ペンの頭で耳の後ろ辺りをかきながら呟いた。
「……まいったな」
髪が白いせいか、その男は若いようにも年老いているようにも見えた。
でもきっと、自分よりはずっと年上なのだろう。一回りか……二回りくらい、だろうか。声音や肌の感じで、サティはそうあたりをつけた。
けれど、そんなこと考えたって仕方ないのに。
そう思ったとたんに悲しくなる。
「……あーあ。こりゃだめだわ」
呟いて白い男は立ち上がった。カーテンのない窓際まで行くと、外に向かって声をかける。
「アントン、ちょっと来てくれ。洗濯代わるから」
ちらっとサティを一瞥すると、彼は開きっぱなしの扉へ向かった。
戸口にはもう一人男がいて──男というにはまだ若い。こちらは髪にも肌にも色彩があった。声をひそめながら二、三言葉を交わすが、内容は丸聞こえだ。
「……もうね、全然ダメだ。会話にならない」
「うそー諦めるの早くない? 僕、協力しないって言ったじゃん」
「苦手なんだよこーゆーの……初対面の相手って緊張するだろ。女の子も得意じゃないし」
「情けなっ! なに人見知りしてんの、信じられない。大人のくせにー!」
「じゃあ頼んだからな、よろしく。洗濯は任せろ」
……私、どうなるんだろう。この人たち、私をどうするのかしら。
逃げた方がいいのかしら。
サティはそっと寝台から下りようとした。だが裸足であることを思い出し、うっと思い止まった。
「ちょっと! よろしくじゃないよ、まったくもー」
男はひらりと片手を振って出ていこうとしたが、アントンと呼ばれた若者がその腕をがしっと掴む。若者は腰に巻いた前掛けでパンパンと片手をぬぐうと、白い男の背をサティの方へと思い切り押しやった。
「ほんとにさー、自分の行動に責任もってくんなきゃ困るんだよね」
「いやまあ……そうだけどさあ」
「だいいち、洗濯だっておちおち任せらんないよ。先生ぜんぶ混ぜるじゃん。白いのも黒いのも血がついたのも」
「あー……うん。ごめん」
「ごめんで済んだら僕は苦労しないよ。ほら、座って。だいたい先生は──」
若者がそこまでまくしたてたところで、あっけにとられていたサティと目が合った。
ぱちり、と若者は瞬いた。
そして苦笑いした。
困っちゃうよねとでも言いたげに。
「困っちゃうよね」
実際に言葉にして、彼は机のメモに目を落とした。すぐに首をかしげ、訊ねる。
「君の名前?」
「……はい」
「なんて呼べばいいかな?」
「……サティ、だとさ」
「先生には聞いてないよ。よろしくね、サティ。僕はアントン」
若者は右手を差し出した。自然でなめらかな、ためらいや戸惑いの無い動きだった。
この人は──大丈夫そう。きっと普通の人だ。ええ多分。
おずおずと握り返し、サティはその手の温かさに少し警戒を解いた。
白い男は大人しく椅子に掛け直し、机に頬杖をついている。
「……お医者様はあなたですか? あの、こちらの方は……」
アントンはどこからか椅子を運んでくると、白い男の隣に腰掛けた。そしてこう答えた。
「ううん、僕はまだ学生。ここは僕の実家で昨日から帰省してるの」
「……」
「先生っていうからには医者かと思っちゃうよね」
「……はい」
「この人は医者じゃなくてね、読み書きとか手習いの先生なんだ。この辺りの子供に教えてる。僕も昔、習ったんだよ」
「ああ、それで……」
それで、あの美しい字。
納得して、また少し安堵し、サティは白い男に視線をやった。男はこちらを見ていない。開いた扉から差し込む、陽の光を見ているようだった。
「大丈夫だよ。初めはこんなんだけど、慣れちゃえばくだけた人だから」
にこ、とアントンは笑ってみせる。
男はちらと横目で彼を見ると、小さく呟いた。
「……こんなんとはなんだ、失礼な」
「こんなんで十分でしょ。この調子じゃ肝心な話は一個もしてないんだろうし」
「肝心なって?」
「つまりさあ……サティ、先生から聞いた? 昨日のこと」
サティは少し困惑気味に、首を横に振った。
「あ、やっぱり」
「……はい」
「これだよ、もー」
アントンはやれやれといった様子で肩をすくめる。
この人たちはきっと、いつもこんな調子なのだろう。この若者の方がしっかりしていて、この“先生”にやいやい言うのだろう。
「詳しいいきさつは良く知らないんだけどね。昨日の夜、この人が君を連れてきたんだ。ここに。預かってほしいって頼まれたんだって。なんか、お坊さんに頼まれたようなこと言ってたよね、先生?」
サティは急に、鼓動が早まるのを感じた。
喉がからからだ。
なのに汗が出る。
冷や汗だろうか。
唇が、乾いて痛い。
「あ、お水飲む? おなかもすいてるでしょ。待っててね、何か持ってくる」
……どうしよう。
アントンが席を立つと、サティは急に心細くなった。
これから、どうしよう。
危難が去ったと考えて良いのだろうか。
この二人からはこちらを害そうという気は感じられないし、無愛想な白い男はどうか知らないが、アントンという若者はそれなりに親切な様子だ。
だからといって──それに甘えるわけにはいかない、さっき会ったばかりの知らない人たちに。自分でどうにかするしかない。自分のことなんだから。
「先生も飲むでしょ?」
と言いながら、アントンは水差しと杯を持ってすぐに戻ってきた。
サティには、ほらこれ、と言いながら水と一緒に何かを渡す。
受け取ってみると茹でて冷めきった芋だった。
「塩あるからね、適当につけて食べて」
「……芋しかなかったっけか」
「自分が買い物行かないからじゃん」
「あー……うん。ごめん」
「ごめんで済めばさあー……って全部は言わないけど。遠慮しないでよサティ、どんどん食べちゃって」
この診療所には女手がないのだろう。質素と言えば聞こえは良いが、侘しい食生活を送っている様子が伺えた。
サティは遠慮がちに芋に口をつけた。
目の前では若者が、まだ白い男にやいやい言っている。
「ふつう誰かが帰省してくるとなればさ、それに備えて食糧を買い置きしたりするもんだと思うんだよね」
「うん」
「それが帰った途端ご飯はないわ掃除はしてないわ洗濯物は山積みだわ、おまけに知らない女の子がいるわ怪我してるわ、いったいどーなってんのって話だよ」
「いやー……いろいろあったんだよ」
「いろいろって何さ」
「それは昨日言ったろ。“酔いどれ”行ったら坊さんが……」
「だーかーら。そのあたりの話をこの子とするべきなんじゃないの?」
白い男は、そこでようやくサティを見た。
サティはとっさに視線を外した。
目を合わせない理由などないのに、なぜそうしたのだろう。自分でも、なぜだかわからない。
「そうか。その通りだな」
「でしょ。会話にならない、じゃなくてさ。会話するんだよ」
「……で、何話せばいい?」
「えーっ」
呆れたような顔をしながら、アントンは白い男にもようやく水の杯を渡した。男はいや、ついとか何とか言いながら杯に口をつける。
「何話せばいい、って。昨日のことだってば」
「……昨日のこと、か」
「しっかりしてよ大人なんだから。だいたいさ、先生はちゃんと自己紹介したの?」
「えっ、ああ……うん。してない」
「もー! これだよ」
アントンは肩をすくめ、白い男はもう一度こちらを向いた。
今度はサティとしっかり目が合った。
この人の目、本当に真っ赤だわ──すぐに視線を外したのは男の方だった。指先を組みながらぽつり、ぽつりと話しはじめる。
話をするのはあまり上手くないとみえて、内容は時折前後した。
それは昨日の出来事だった。