1:予兆
耳をすませば波の音――青い空からふりそそぐ、真っ白な陽ざし。
あたたかい砂を裸足で踏みしめ、のんびり歩く。どこかに天国があるのなら、こういう場所に違いない。
ふと顔を上げると、むこうで誰かが手を振っている。
女の子だ。
誰だったっけな……でも俺は、あいつのことを知ってるぞ。あわく微笑み片手を上げて、ジェシーはゆっくりそちらへ向かった。
すると不思議なことが起きた。
潮が急激に満ちてきたのだ。
ジェシーの爪先を舐め、足首をつかみ、膝にすがりつく。
腰をかき抱き、背中を這いあがり、胸にもたれて首筋に手を回す。そして唇をこじ開け侵入してきた。
まずいぞ、と思う間もなくジェシーは波に攫われた。
◇◆◇
「いつまで寝てんのさ。そろそろ起きなよ、もー」
と聞こえた直後、冷気が全身を刺しにきた。
「寒っ」と小さく口走り、ジェシーは寝台で丸まった。
「ほんとだらしないよね、目覚ましくらいかけたらどうなの。……うわっすごい寝汗!」
「……毛布返せ……」
「返したって寒いよそれじゃ。なんなの先生、病気なの? 熱出した? 起きて着替えたら? あとヒゲ剃りなよ、顔洗ってさ」
毛布は結局、戻ってこなかった。
なんだよもう、とこぼしながら体を起こしジェシーは頭を左右に振った。すると「脱いだ服ちゃんと持ってきなよね」と階下からアントンの声がする。
へいへいと返事をして、寝台の柵にひっかけた着替えを物色する。畳まないからしわくちゃだ――でもまあいいか。今日はそもそも休みだし、誰かに会うような予定もない。
下着から何からすべて替えると、寒さはいくぶんマシになった。なんだってこんなびしょ濡れになるのかね……と首をかしげたその時だ。
「先生、早く下りといで」
アントンが一階から声をかけてきた。
「お湯使うでしょ。沸いてるよ。ストーブの上」
うぇーいとかうぁーいとか欠伸混じりに返事をして、ジェシーは軋む階段をノロノロ下りた。
熱があったわけではない。暑かったわけでも、もちろんない。
今は冬。もうすぐ年の瀬、医学校の休暇がはじまってアントンが戻ってくる季節。
昨晩の夜汽車に合わせて駅まで迎えに行ったときだって、めっぽう冷たい風だった。だから外套の襟をしっかり立てて行ったのだ。
そこでふあぁ、と欠伸をかみ殺す。
しいて言えばおかしな夢を見た気がするが……どんなだったっけ。
まだぼんやりとした頭のまま、ジェシーは洗面所に向かった。ストーブの上のヤカンを取り、洗面器にぬるま湯を作る。
鏡を見ると、そこには幽霊のような男が映っていた。
髪が白い。
肌も白い。
どろりと濁った瞳は、煮詰めた血のように赤い。
――自分だ。
いつにもまして血色が悪いのは、きっと寒さのせいだろう……そういうことにしておこう。割っちまおうかな、鏡なんか。
「ため息つくと幸せ逃げるよー」
洗濯ものを運びながら、アントンが茶々を入れてくる。
さっきの毛布は外に干したのだろう。
「逃げるほど残ってないよ……」
「何言ってんの、僕が戻ってきて溜まった家事が片付いてくんだから、そこそこ幸せでしょ――あーっ脱いだやつ持ってこなかったでしょ、もう!」
そう言って足音荒く階段を上がっていく。
それを聞き流しながら、ジェシーはもう一度鏡を見た。
ヒゲ、伸びてるな。何日剃ってなかったっけ。三日だっけ、四日だっけ――まあどっちでもいいか。
石鹸を泡立て、顔に塗ってカミソリを当てる。顎の下を剃りながら、このままスパッと横に動かしたらどうなるかな、と考える。
きっと皮膚が裂けて石鹸が滲みて、死ぬほど痛いに違いない。
けれど本当に死ぬわけじゃないんだろうから痛いだけ損だ。みっともない傷跡をひとつ、増やすだけ。
「ねー先生! どうすんの、あの子」
こんどは二階から、アントンがこちらに声を張り上げた。
「診察台に寝かせっぱなしだけどどうすんのさ、あの巡礼の子! 診てやるの!?」
ああ、とジェシーは呟いた。顔の半分に泡をのせたまま、鏡越しにちらりと後ろを覗く。
「診るもなにも……俺は医者じゃないからなぁ」
――しいていえば、教師だ。
鏡の中に映るのは、アントンの父が遺した診療所だ。
主を亡くして時を止めた診療所の診察台、その上には久々に患者が横たわっていた。
女の子だ。
毛布の向こうから覗くのは赤い髪。歳はアントンよりもいくつか下の十四、あるいは十五といったところだろう。
素性も名前もわからない。巡礼衣を纏っているからには、ポルトラ大寺院が目当てでこの街に来たのだろうが――それだって、本当かどうかはわからない。
「あれっ、まだ泡くっつけてんの? 早く剃っちゃいなよ」
ここに運び込んだ昨晩から、彼女は眠り続けていた。毛布の下の手足には傷があり、纏った衣にも血が滲んでいるのをジェシーは知っている。
その傷を消毒し包帯を巻いてやったのは、今しがた階段を下りてきたアントンだ。
「人の印象って最初の三分で決まるんだって。そろそろ起きるよ、その子。今のうちにさっぱりしとかないと」
「……なあ、アントン」
「あと髪の毛なんとかしなよ。せめて結わくとかしてさあ、明日あたり床屋行ってきたら?」
「いや、おまえ切ってくれよ。……でさぁ、アントン」
なにさ、とアントンが立ち止まる。両手にジェシーが脱ぎ散らかした衣類を抱えたまま。
「その子の相手……やっぱり俺がしないとダメかな」
「ハァー!? 当然でしょ!」
取りつく島もなく断られてしまった。未練がましく後姿を見送れば、台所やら診察室やらを忙しく行ったり来たりしている。
そりゃそうだよな、とジェシーはもう一度顎に剃刀をあてた。
実家でのんびりしようと帰省したのに、知らない女の子が――それも見るからに只事じゃない怪我をした、ようするに厄介ごとを抱えたような女の子が――連れ込まれていたのだから。ふつうの患者ならいざ知らず、腹が立つのも無理はない。
ヒゲを剃り終え、もう一度バシャバシャと顔を洗う。手拭いで顔をぬぐったところで、診察室の方から物音がした。
振り向くと、毛布の固まりがもぞもぞ動いている。
「その子起きたら、先生なんとかしてよね」
アントンはそう言うと、庭に続く扉を開けた。
「僕、協力しないからね!」
そして洗濯ものを籠にどっさり運びながら、鼻息荒く出ていった。
今朝はよく晴れている。
庭からの陽ざしの眩しさに目を細め、ふっ……とひとつ息をつく。それからジェシーは歯を磨き始めた。
もうすぐ巡礼の娘が起きてくる。
赤い髪がふわりと揺れて、咲きかけた花のようだった。