買い物が終わるまでに実は色々な事がある
3話目です。
・・・ではどうぞ。
さて、今日のタイムセールは、卵と豆腐、
火曜だから、朝分の魚も買って、牛乳も少なかったから・・・
そんな事を考えながら、自転車でスーパーに向かっていると史稀を見つけた。
12月に入り更に日は短くなった。西の空は朱から薄紫に染まりつつある。
それに伴い更に寒くなっているのに、彼はさらに風の吹き抜ける橋の上から川を眺めていた。
さすがに薄着ではないようで、グレーのコートを着込み、首には紺色のマフラーも見える。
ポケットに手を突っ込んで、一体何を見ているのか。
街灯の光を映す川面か、流れに身を任せる草か、泳ぐ魚は・・・まず見えないか。
とにかく分からない。
自転車を反転させて橋の手前の横断歩道に向かう。
もう少しで間に合わなかった信号を待って、反対側に渡る。
そして速度を緩め、史稀の側で自転車を止めた。
「ねぇ! あなたの名前は?」
自転車に跨ったまま声を掛けると、こちらを目で確認して溜息をこぼした。
またかという態度に、少々腹が立つ。
彼は川面を眺めながら
「しき。」
と言った。意外と素直に答えが返ってきて拍子抜けした。しかし、
「しき? それは、苗字? 名前?」
こっちは既にフルネームで名乗っている。それは何だ?
「自称。」
自称? どちらでも無いって、どういう事だ?
「はい? 自称って何? 本名は?」
こいつは、適当にあしらうつもりなのか?
「俺には不釣合いらしいから、使ってない。」
彼は目を閉じて言う。
自分の名前が嫌い・・・なのとは違うな、釣り合わないとはどういう事だろう?
名前負けするからって、タイプでもなさそうだし。
苗字を拒否するのは、家、家族と問題があるという事だろうが、
・・・名前もってのは何だ?
「・・・じゃぁ、『しき』ってどんな字?」
「歴史の『史』に、『稀』」
これも素直に答える。
ペンネーム、ハンドルネーム・・・そのくらいの雰囲気だな。
「その意味は?」
驚いた顔をして私を見た。
ちゃんと表情あるじゃないか。少し崩した気がして内心ほくそ笑む。
史稀は少し躊躇して、口を開いた。
「・・・長い歴史の中で、変わったやつが居てもいいだろうって。」
とてもバツが悪そうに。
聞かれて恥ずかしいなら、そんな名前名乗るな。
名乗るんなら、自身を持て。
とりあえず彼は、彼を取り巻く環境の中で異端という事だろうか・・・
意外と単純なネーミングセンスに、思わず笑ってしまった。
「・・・笑うな。」
薄暗くなってはっきり見えないが、以前のような無表情ではないようだ。
「変なやつだな、お前。」
それは、笑いを帯びた声だった。
また一つ突破した気がして心が躍る。
以前に名乗った名前は、どうせ覚えてないだろうから、改めて名乗ってやるか。
「お前じゃない、美晴だ。大垣美晴。」
「そういえば、前にそう言ってたな?」
やっぱり覚えて無かったか、
「覚いといてって言ったのに。それと、史稀に変人扱いされるのは心外だ。」
時間をロスした。自転車を漕ぐ足に力を込めスピードを上げる。
充実感はあるが、時間は無い。
スーパーの駐輪スペースに着くと急いで施錠し、売り場に走る。
豆腐はあった。卵は・・・
アウト。最後の一個を目の前で取られた。
「あれ? 美晴ちゃん・・・だったよね?」
卵を手にした人物に名前を呼ばれた。
「えーと、マスターのお孫さん?」
「・・・北川文紘です、文紘って呼んでね。」
さすがに呼び方が気に入らなかったのか、微妙な表情で訂正された。
「そんなに急いでどしたの?」
そう問われ、私は思わず卵を見てしまった。
「あぁ、ひょっとしてこれ?」
文紘さんは卵をかざした。
1パック78円は、家計にとって非常に魅力的だ。
だが人様の取り分を狙うなんて、意地汚いまねをしてはいけない。
というか、こんな事を考えているのもどうなんだ私?
「じゃぁ、どうぞ。」
えーと、思いっきり顔に出てたのだろうか?
「いいんですか?」
少し恥ずかしいが、遠慮なく頂きます。
渡された卵を、割れないようにそっと受け取る。
「いいよいいよ、でもまたお店に来てね。相談事だってOKだよ。」
「営業ですか、」
なるほど、それなら遠慮もいらないな。
思わず笑ってしまった。
「じいちゃんは趣味でやってるから、そんなに稼ぎないんだよ、
もっとお客さん増えてくれないと、俺の給料捻出できないんだよね。
だから、最近集客作戦考えてんだけど、何か無いかな?」
「おー、面白そうですね。」
そんな気はしてたんだけど、やっぱり趣味だったんだ。
「そう?」
賛同者が現れて、嬉しそうな顔をしている。
「あ、でも、文紘さん見た目が良いから、放っといても女の子は増えそうですよ?」
「そう? っていうかそれ素直に喜んでいいの?」
「間違いなく褒めてますよ。」
そうにこやかに言うと、複雑な顔で返された。
「・・・面白い子だね。」
「はい、よく言われます。あ、でも今の雰囲気壊すと怒られますね、」
「そこなんだよねー。」
文紘さんは眉根を寄せる。
「流行りものだからって、メイドとか駄目だよねー?」
「客層違うじゃないですか、絶対怒られますよ。
それ以前に人件費増えるじゃないですか?
あ、文紘さんがメイドやるとか?」
「女装は自信がないなぁ、執事でいい?」
ノリのいい人だな。
「格好だけなら、平気かもしれないですけど、
旦那様とかお嬢様って言ってると、確実に引かれますよ?」
マスターのお友達の常連さんには、絶対通用しないだろう。
そこで携帯が鳴った。
「あ、ちょっとすみません。」
携帯を開くと『和歌奈』とあり、時刻は18:21と表示されている。
あぁ、絶対お叱りの電話だ。気が進まないが通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もう、おねぇちゃん遅いっ!!」
「ごめん、ごめん。」
「もー、お腹すいたよー、いつまで買い物してんのー?」
「わかったから、早く済ませて帰るから待ってて、じゃ。」
さっさと話を終わらせて、一方的に切った。
「ずいぶん時間食っちゃったかな?」
文紘さんも携帯を出して、時間を確認していた。
「いえ、この前にもう一件道草しちゃってるんですよ・・・妹に怒られました。」
史稀の所では、どれだけ時間を費やしただろう?
時間なんか見てなかったから、分からないけど。
「そうなんだ、しかし、ワルキューレとは思わなかったよ。」
「あー、好きなんですよ。」
「クラシック好きなの? それとも曲限定?」
・・・そこに興味を持つのは何故だろう?
「クラシック全般好きですよ、専門的に勉強してるわけじゃないから、
あんまり詳しくはないですけど・・・。
ワーグナーは好きですよ、こう、背筋がピンとするような音が多いじゃないですか、」
「何となく分かる気はするけど、そういう曲が好きなのか。
美晴ちゃんありがと、ちょっといい事思いついたよ。」
その『ちょっといい事』について思いを巡らしているようで、少し視線が上を向いている。
「どんないい事ですか?」
「まだ内緒。ちゃんと形になったら教えてあげる。だからまたお店に来てね。」
また携帯が鳴った。今度はメールの音だ。
「今度はラ・カンパネラか。早く帰ってあげないとね、」
「・・・そうですね。」
乾いた笑いが漏れた。