4/1 嵐が来た その1
四月一日。春を感じさせない、一段と冷えた朝だった。中学時代からの日課である早朝のランニングを終える。
「ふぅ……」
鍵をがちゃがちゃと鳴らしながら、家に入る。下駄箱の横に置いたバスケットボールを手に取り、家をでる。目的地は近くの公園。鍵を閉め忘れたことを思い出して、戻る。鍵を閉める。扉を横に引っ張って、動かないことを確認して、また踵を返す。
公園は広いが、静かだった。周りの木々が、車の通る音すら吸い取っているようだった。奥には、バスケットコートがある。ゴールが向かい合って二つ。地面は固められたアスファルトが、緑色に塗られていた。この公園の存在が、あの家を借りた理由でもあった。
一週間後には高校生だ。中学の先輩に誘われて、この高校を選んだ。バスケ部はそれほど部員は多くないものの、県大会で十分戦える戦力が揃っていると言っていた。
加えて、この田舎っぽい雰囲気も自分には合っていた。静かで、空気が良い。登校するのに、急角度の階段を上らなければいけないが、それもトレーニングと考えると悪くなかった。
とにかく、入学式の後からすぐに練習に参加する予定だ。それまでに、できるかぎりの練習はしておきたい。中学時代にクラブで活躍していたらしき新入生も入ってくる予定らしい。高校ではポイントガードをやりたいと考えていたが、どうやらその人もポイントガードのようなので、うん。とにかく練習だ。
「ん……」
バスケットコートには、先客がいた。白いウィンドブレーカーと、黒いバスパン。青色のバスケットボールをダムダムと弾ませながら、長い黒髪を揺らし、華麗にターン。ぽすっと心地よい音でゴールを揺らした。
跳ねたボールを両手で掴んだ彼女が、振り返る。目が合った。赤い瞳だった。
なんとなく、すぐに目を逸らした。ボールの弾む音が聞こえてくる。負けた気になった。
靴ひもを一度解いて、力を込めて結びなおす。力強く地面を踏むと、ざりっと砂の噛む音が鳴った。体育館の、きゅっきゅと鳴る高い摩擦音が恋しい。
反対のゴールで、とりあえずドリブルをする。できるだけ、力強くボールを跳ねさせる。レッグスルー、ビハインド、とにかく手元は見ないように。三年前、バスケを始めたばかりの頃は、ただドリブルするだけでもぽろぽろとボールをこぼしていた。先輩は一年もやれば手に吸い付くようになると言っていたのを、訝しげに睨んだ覚えがある。
ダム。ダムダム、ダム。小鳥たちのさえずりと、バスケットボールの弾む音だけが響く朝。なんて良い日なのだろうか。
そろそろシュートを打ち始める。ゴール下。流石に外さない。ミドル。一本、二本。三本目はリングに当たって跳ね返された。ちくしょう。ボールを取りに行くと、近くの茂みががさりと揺れた。
「ん?」
「ん?」
茂みの中を覗くと、そこには小人のような老人がいた。もっさりと髭を蓄えた、ドワーフの爺さんだった。
「む!不法侵入者!」
「は?」
「ゆけ!」
老人は飯を食べていた。こんな茂みで何をしているんだこのドワーフは、と考えているうちに、老人はびしりと指で俺のことを指すと、隣の茂みが揺れた。
「バウバウ!」
「わーっ!?犬、犬っ!」
飛び出してきたのは、茶色いピットブルだった。牙がむき出しになっている。どう見ても、こちらを敵視している。とげとげの首輪が光る。幼少期のトラウマが呼び起こされた。飛ぶようにして逃げると、犬は追跡を諦めた。元々そんなつもりはなかったのかもしれないが。
「はぁ……なんで公園の茂みにドワーフが住んでいるんだ!しかも、番犬が守っている。田舎は怖い」
訂正しよう。なんて厄日なのだろうか。
ちらりと後ろのコートを見ると、彼女もミドルシュートを放っていた。綺麗な回転がかかったボールは、リングに触れることなくネットを揺らした。上手い。
「ふっ」
負けず嫌いの心に火が付いた。ミドルシュート。外れる。シュート練をさぼっていたつけが回ってきたか。フォロースルーが恥ずかしくなるほどの外れっぷりだ。茂みの方へ転がっていったボールをおっかなびっくり追いかけながら、やっぱり練習しなければいけないと反省が湧いてきた。
「手首の力が足りないのかな」
なんだかんだ、無心でただひたすらにシュートを打ち、反省点を洗い出し、またシュートを打つという作業は好きだった。自分の性格に合っているからだろうか。それでも、シュートが外れるたび、背を挟んで向こう側で練習している彼女の存在が気になった。
なんとなく、彼女より後に来て、先に帰るのは負けた気になるので、予定していたより長く練習した。いつもはあまり打たないスリーポイントを打つ。ネットの下にかすった。ギリギリエアボールじゃないから、恥ずかしくはないと自分に言い聞かせる。
「あの」
ボールを脇に抱え、シャツで汗を拭っていると、背後から声を掛けられた。びっくりして肩が上がった。振り返ると、やはり彼女がいた。汗一つなく、涼しげな顔。ここでも負けた気になった。
「は、はい」
「スマホ、鳴ってるよ」
彼女の人差し指は、俺の脱いだ上着の横に置いたスマホを指していた。スマホはぶるぶると震えながら、着信を伝えていた。
「あ、本当だ。ありがとうございます」
「ん。」
彼女はすぐにボールを弾ませた。まだ練習するようだ。体力も必要か……。
スマホの画面には、自分で設定した、母さんの三文字が表示されていた。電話が来たからしょうがない、と自分を納得させて公園を出る。タップして通話に出ると、もちろん母親の声が聞こえてきた。
「もしもし」
「もしもし、昂輝?ちゃんとやってる?」
「うん」
電話越しだと、声は少し変に聞こえる。それでも、しゃべり方はいつもの母さんだった。一人暮らしを始めて二日だが、こうやって声を聞けると、ちょっと心が落ち着いた。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「うん」
「入学式忘れないで、ちゃんと行くのよ」
「わかった」
どの母親もそうなのだろうか、特に俺の母親は世話焼きで口うるさい。そんな母親に幾度となく助けられてきたわけだが、それでもうるさいものはうるさい。制服は一度着たかだの、ネクタイは締めれるかだの、たまには電話しろだのと、畳みかけるようにしゃべり続けていた。これ以上は耐え切れないと声を出す。
「わかったから!用事はそれだけ?」
「ああ、そうそう!大事な話があったの。飛鳥ちゃん、星峰に来るんだってね。昂輝、聞いてた?」
「え?そうなの?」
家についた。スマホを耳と肩の間で挟み込み、空いた手で鍵を開ける。ガチャガチャと金属のぶつかる音が鳴った。扉は開かない。あれ、回すの反対だったかな?おっとと、スマホがずり落ちそうになった。
「あら、聞いてなかったの?お母さんもびっくりしちゃって。それで、三鷹ママと話してたら、寮に入るのはちょっと心配だって話になって。ほら、あそこ、ちょっと治安悪いって噂もあるし......。だからね、宏輝が借家で一人暮らしって話したら、シェアハウスしたらどう?ってなって。いいわよね?」
「ああ......あ!?良くないけど!」
「じゃあ、そういうことだから。昼前には飛鳥ちゃん着く予定みたいだから、お昼ご飯作ってあげなね。くれぐれも変な気は起こさないように。元気でやるのよ!」
「ちょっと!おい!勝手に……はぁ……。」
電話はすでに切れていた。ああ、そういえば今日はエイプリルフールか。きっと嘘だろう。母さんが嘘をついたことは、たぶんないけどきっとこれが初めての嘘なんだろう。そうだと言ってくれ。急展開に肩を落として、扉に手をかけた。
涼し気な風が吹いた。
背後からカラカラと音が聞こえる。キャリーケースを引きずる音だ。振り返る。
「コウ。久しぶりだね。」
「飛鳥......」
背中の翼を、ばさりとはためかせ。彼女は金髪を揺らし微笑んだ。
手の込んだドッキリとは思えない。嵐のような高校生活の始まりを予感させる、四月一日の始まりだった。




