濡れた魔王は臭い
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その日の昼休みのことだ。
屋上の一角には、険悪な空気が流れていた。不機嫌に黙り込む郁乃。桜子を挟んでその反対に座る人間の姿のアラストルも、顔をしかめてパンにがっついている。
「ねえ、何があったの?」
気まずそうにしていた桜子が、意を決してという顔で郁乃に尋ねた。
至近距離で彼に聞こえないはずもなく、アラストルがこちらを一瞥するのを感じる。
「別に」
アラストルの視線を意識して、冷たい口調で尋ねた。
「なーにが『別に』だ。人のこと思いっきし殴りやがって」
郁乃の言葉に、アラストルが噛みつく。
「あんたが悪いんでしょ。お父さんが大事にしてる梅の木を燃やしちゃうから」
導火線に火がついて、郁乃は怒鳴りつけた。
「わざとじゃねえ」
アラストルが、立ち上がって郁乃を睨みつける。負けじと、郁乃も真っ向からその視線を受け止めた。
「まあまあ、郁乃ちゃん。何があったのか、なんとなく解ったけど、彼も『わざとじゃない』って言ってる訳だし」
桜子が困った顔で、どうどうと郁乃をなだめる。
「あーちゃんもさ、郁ちゃんが悲しむようなことをしたんだったら謝ろうよ」
彼女は、首を曲げてアラストルにも告げた。
ちなみに「あーちゃん」とは桜子がつけた彼のあだ名だ。
アラストルも、彼女のようなタイプの人間を怒る気にはなれないらしく、放置している。
「まず謝るのはソイツだ」
アラストルが、憎々しげに応じた。
「誰がよ? 悪いのは、全面的にあんたでしょ」
郁乃は、眉根を寄せて言い放つ。
「そうだぞ、お前が悪いのだから謝ってしまえ」
どこともなく飛んできたベルゼブブが、アラストルに言った。
彼は、郁乃が学校に行っている間は自由行動をしており、昼休みに姿をみせる。
「ふざけんじゃねえ。守ってやってるってのに、何で俺が文句を言われなきゃならねえんだ」
アラストルは、彼に向かって不満をぶつける。
「だが、その原因となっているのは、彼女の家で厄介になっている我々だ」
ベルゼブブは、だだっ子じみた彼の主張を一言で否定した。
アラストルは言い返す言葉が思い浮かばないのか、舌打ちしてベンチに腰を下ろす。
「謝りなさいよ」「うるせえ」
郁乃は、追及の手を弛めない。彼は、顔を背けて応じない姿勢を示す。
「意地になるな。郁乃殿も、『謝れば、それで許す』と言っておられるのだ」
ベルゼブブが、郁乃の言葉をいいように拡大解釈した台詞を口にした。
謝ったら、許してあげるわよ――彼の言葉に、内心うなずく。
悪気がなかったのは、郁乃にだって分かっているのだ。だからといってしていいことと、悪いことがある。
「誰が謝るか」
こちらを向いたかと思うと、アラストルは唇を歪めて言った。
郁乃の中で、確実に何かが切れる音がする。
「もう、家に上げてあげない」
怒りに任せて、宣言した。
「誰が、あんな犬小屋に帰るか」
そう言い放ち、彼は立ち上がる。そのまま、屋上を猛然と去っていった。
「ねえ、いいの?」「いいの」
桜子が、心配そうに訊く。郁乃は不機嫌に応えた。
アラストルに拳骨を喰らわせた拳が痛い。それは、物理的な痛みのはずなのに、胸が苦しくなっていた。
頬を、冷たい雫が濡らす。
「あ、雨だ」
桜子が空を見上げてつぶやいた。
数秒後、土砂降りの雨が降り出し、郁乃たちは屋上から校舎に退避した。
2
放課後にもなると、頭に上っていた血が下がり郁乃は冷静さを取り戻した。
言い過ぎたな――下駄箱からスニーカーを取り出しながら、そんな思いを抱いた。
自分の行いを悔いる。登下校口から見上げる空からは、相変わらず雨が降ってきている。
桜子は、何とか部――要はボランティアをしようという趣旨の部活だ。非常に地味な存在なので、名前をすぐに忘れてしまう――の活動で今日は一緒に帰れない。
「奴なら、腹でも空かして帰ってくるでしょう」
よほど郁乃が昏い表情をしていたのか、雨をものともせずに飛ぶベルゼブブが言った。
「うん」
うなずいて、傘をさして雨の中に歩きだす。
傘を、雨がリズミカルに叩いた。
夜になってもアラストルは帰ってこなかった。
ただ、夜になる前にひとつの出来事があった。近い公園なら探してやっともいい、と訪れた公園のひとつでのことだった。
雨が降りしきる公園の一角、頭上を枝葉が遮るベンチに妹の姿を見つけたのだ。その隣に半透明の少年の姿があった。何だか、ふたりは楽しげだった。そこには家では見せない妹の顔がある。
あの子――化生、幽霊の類は出会うなり祓う主義だったはず、と郁乃は怪訝に思った。怪訝に感じた。でも、嬉しくもあった。あの男の陰の薄かった妹が少年と、人間ではないが楽しげにやり取りしているのを見ると。
どうしたものか、と思っていると妹の視線がこちらをとらえるのを感じた。
そうなると、こちらも腹を決めるしかない。
郁乃は傘をさしたままふたりに近寄って行った。
「初めまして」
郁乃は幽霊の少年に向かって軽く頭をさげる。
「はじめまして」
少年が生真面目な顔で挨拶を返した。
「千佳と仲良くしてくれてるみたいね」
「ええ、まあ」
郁乃の問いかけに少年がうなずく。
「よかったね、千佳」
顔を向ける姉に、
「何がよ」
妹は顔を思い切りしかめる。
色々と聞きたい気もしたが、ふたりの時間を遮るのも悪く思えて、
「それじゃ」
ふたりに告げて背を向けた。
少年からもの言いたげな空気を感じたがあえて無視して歩き出す。