濡れた魔王は臭い
某ライトノベル新人賞、最終選考落選作です。
ぜひ、ご一読ください。
3
昼休みになり、郁乃は早々に購買に向かった。
早くしなければ、パンが売切れてしまう。
休み時間になる度に教室から姿を消していたアラストルがついてきた。
「なに、召喚者捜さないの?」
「腹が減っては、戦ができないからな」
郁乃の質問に、憮然とした声で彼は応える。
すぐに見つかると踏んでいたのに、一向に召喚者が見つからないため苛立っているらしい。
郁乃は「どうぞ、お好きに」と肩をすくめる。
ふと、ひとつの疑問が脳裏に浮かんだ。
「お金は持ってるの? 『取っておけ』とか言って、金貨とか出さないでよ、騒ぎになるから」
「ふん、俺様に抜かりはない」
アラストルは、郁乃の言葉をせせら笑う。そんな彼の頭には、イヌミミが生えたままだ。
どこが抜かりないんだか――。
郁乃は、半眼になってアラストルを見た。
やがて渡り廊下を過ぎ、購買にたどり着く。人だかりを何とかもぐりこみ、郁乃は菓子パンと惣菜パンをそれぞれ一つずつ買った。
アラストルは、周囲の生徒を「俺様の邪魔をするな、殺すゾ」と威圧しながら苦もなくパンをゲットしている。
その数、十個ほど。
「あんた止めなさいよ、脅すの」
郁乃は、そんな彼に対して厳しい表情で注意した。相手が可愛いチワワの姿でないため、寛容な気分になれない。
「ヌ、よかろう」
アラストルは、意外にも素直にうなずいた。また、破壊神に命令する、だとか言うなと思ったのだけど。どうも、お腹が減って弱気になっているようだ。彼の子供みたいな性格からして、あながち間違っていない気がする。
「屋上に行くわよ」
彼を引き連れて屋上に向かった。
柄の悪い外見のアラストルのせいで、階段を上っていると露骨に他の生徒がこっちを避けていた。
「こっちこっち、郁ちゃーん」
尻尾を振る犬のような従順さで、屋上で桜子が待っている。
四脚あるベンチの一つを占領して、彼女は郁乃たちの席を用意していた。遠慮なく彼女の隣に座り、郁乃を桜子と挟む形でアラストルが座る。桜子は、興味津々の体で彼の顔を眺めていた。
アラストルは、袋ごとパンに齧りつく。こともなく、普通に包装を解く。むしゃむしゃ、とパンを平らげていった。呆れた食べっぷりだ。
「あんたよく食べるわねー」
郁乃はメロンパンを千切りながら食べていく。
「ほんとに食欲が旺盛だね」
桜子も、目を丸くしながら弁当を食べる箸の手を止めていた。
「人間の身体は、エネルギー消費が激しいから腹が減る」
ぶっきらぼうに応えながら、アラストルは早くも五個目のパンを口に放り込む。
彼の不思議な発言を気にかけた様子もなく、桜子はうんうんとうなずいていた。いいのか、それで、と郁乃は彼女のことが心配になる。もともと天然の子ではあるが、今日は一段とひどい気がした。
その後は、郁乃と桜子が他愛ない話に花を咲かせた。時折、アラストルに話がふられるが、適当に郁乃が誤魔化すことで何とか事なきを得る。
昼休みも終わりに近づき、そろそろ教室に戻ろうか、そんな雰囲気になった頃、そいつはやって来た。
「おい、麻縫。お前、とんでもないことを仕出かしたな」
と鼻をつく臭いが漂ってくる。屋上と校舎をつなぐ扉のところに、太い眉に団子っ鼻、筋肉ダルマのオヤジが立っていた。生活指導の教師、力持巌(脳みそまで筋肉と化した人間が考えたとしか思えない名前だ)、三十五歳独身だ。彼女いない歴も年齢と同じだろうともっぱら噂の男だ。
昼休みも終わりに近いため、郁乃たち以外に屋上に人影はない。
「何のことですか?」
不機嫌な声で応じる。郁乃は、この教師が嫌いだった。郁乃の髪を、染めただろ、と言い掛かりをつけてきたことがある。しかも、腋臭だ。
「貴様、悪魔を召喚したな」
郁乃は驚愕する。事実とは違うが、隣に座っているのが破壊神であることは確かだ。
「図星だな?」
力持がいやらしい笑みを浮かべる。
悪魔の召喚なんてしてない、そう抗議しようとした郁乃の目の前で異変が起きた。
力持の身体が純白の光りに包まれる。
郁乃は眩しさに目を細めた。
光が収まると、白いゆったりとした衣装に身を包んだ力持が姿を現す。背中には、一対の大きな翼が備わっていた。
しかし、郁乃の目がいったところはそこではない。彼の衣装は、露出度が高く、モジャモジャの胸毛や脛毛が丸見えになっている。
「き、キモい」
げんなりとした気分でつぶやいた。
「きゃあ、変態」
桜子などは、盛大に悲鳴を上げている。
「な。清らかで清浄なる天使をさして変態だと」
力持が、聞き捨てならないという表情をした。
いや、桜子の言ったことは正しいと思う――郁乃はそんな感想を抱いた。
「どっからどう見ても、変態だろうが、この筋肉バカが。だいたい、『清らか』と『清浄』じゃ意味が被ってんだよ」
いつの間にか立ち上がっていたアラストルが、郁乃の気持ちを代弁する。
「ぬぐう、この悪魔め。成敗してくれるわ」
力持は、指を突きつけて叫んだ。
「は、能天使程度がほざくな。ルシファー軍の第四副官を舐めるなよ、雑魚天使」
アラストルは、見下した口調で言い放つ。
「何?」
力持は、顔色を変えた。明らかに、アラストルの台詞を聞いて怖気づいた様子だ。
「へえ、あんた本当に凄かったのね」
「お前にはツッコミは入れん」
郁乃は感心した口調で告げる。彼は、疲れた口調でそう返した。
「ねえねえ、郁ちゃん。どうなってるの?」
桜子が、袖を引っ張ってテンポの遅れた質問を発する。
「ああ、はいはい。後で説明してあげるから」「むう」
郁乃は、ぞんざいに応えた。桜子は、頬を膨らませる。
うーん、この子、素で小悪魔よねえ――その可愛らしい仕草に、郁乃は思った。そんな郁乃たちのやり取りは関係なく、力持は一人盛り上がっている。
「ふはは、悪魔の軍勢と最前線で戦うことを神より仰せつりし能天使、臆しはせん」
胸を張って叫ぶ彼の顔中を、脂汗が伝っていた。
「は、要は使い捨てってことだろ? 俺様の魔力にさえ気づかない小者が吼えるな」
アラストルは、一言で切って捨てる。
「お、オノレ、我が鉄拳喰らうがいい」
郁乃の視界から力持が消えた、そう思った瞬間にはアラストルの前に立って拳を振り上げていた。
す、スゴイ――郁乃は、茫然となる。
だが、アラストル自身は平然とした顔だ。
力持の拳が霞む。アラストルの姿が掻き消えた。
「おおッ」彼が、力持を上回る速度で避けたのだと思った郁乃は、歓声を上げる。
「ん?」しかし、それは途中で疑問に変わった。足もとに、ちんまりした生き物が鎮座しているのを発見する。
「戻ってる」
郁乃は、驚愕した。
アラストルが、チワワに戻っているのだ。
「ふ、ふははははははは」
力持が腹を抱えて笑う。
「な、何が。ルシファー軍の第四副官だ。人間の使い魔に成り下がった小悪魔ではないか」
彼は、さらに身体を捩って大笑いした。
「なんで、チワワに戻ってるのよ」
「思ったより、人間の姿を維持するには魔力が必要だったみたいだ」
郁乃の問いに、アラストルは忌々しげに叫ぶ。
「さあ、どうするお犬様?」
力持が、嘲笑を浮かべて彼を見下ろした。
「こうなったら、仕方がない。おい、郁乃、お前が悪魔を召喚してこいつをぶっ飛ばせ」「ええ」
アラストルが突拍子もないことを口にする。郁乃は声を裏返らせる。
「アタシ、悪魔なんか召喚したことないわよ」
郁乃の抗議に、
「大丈夫だ、俺様の言う通りにしろ」
アラストルは、自信満々に命令した。
「させるか」
力持が、ベンチに座ったままの郁乃に向かって拳を叩きつけようとする。
「きゃッ」
動きが速すぎて、いくら運動神経が抜群でも避けられない。
恐怖に身体がすくむ。
「テメエはすっこんでろ!」
アラストルの声を合図に、突如として稲光が力持を直撃した。
「何だ、倒せたじゃない」
郁乃は、気が抜けた声を出す。
「ああ、変態さんが真っ黒焦げ」
桜子が、どこかズレた悲鳴を上げた。
「いや、まだだ。能天使の連中は、頭はともかく身体の方は頑丈にできてるからな」
アラストルの言葉を証明するように、
力持は、うめいて身じろぎする。
「じゃあ、どうするのよ」
殴られそうになった瞬間の恐怖が、郁乃の脳裏に甦った。
「俺様の言う言葉を繰り返せ! 我、館の主の名において呼び起こさん。 遅延なく我がもとに現われ、命令に従え。しからば、報酬として棲家を与えよう」「ちょ」
郁乃は、いきなりの長台詞に躊躇う。だが、そうしている内にも力持は起き出しそうな雰囲気だ。
「ええい、こうなったらやってやるわよ!」
殴られるのは嫌なので、破れかぶれで叫ぶ。
「我、館の主の名において呼び起こさん。 遅延なく我がもとに現われ、命令に従え。しからば、報酬として棲家を与えよう。って報酬って何よ」
郁乃は、自分の唱えた呪文に捨て置けない箇所が含まれることに気づいた。
しかし時既に遅く、鼻先には紫色に輝く五芒星が出現する。そこへ偶然、五芒星に宙を飛んでいた蝿が触れた。ピタ、と運の悪い蝿は動きを止める。次の瞬間、死んだと思った蝿が羽根を動かし始めた。
「おお、もしかして」
アラストルが、嬉しげに言う。
「我を呼んだのは、汝か?」
蝿がやや低い男の声で喋った。
「凄い、喋ってる」隣では桜子がつぶやいた。
「えーと」郁乃は、足もとのアラストルに視線を向ける。
「どうすればいいの?」と目で問いかけた。アラストルは、首を激しく縦にふる。
はい、と郁乃は自信なさげな声で応じた。
「我が名は、ベルゼブブ。契約成立だ」
簡潔に言って蝿は力持に向き直る。
ちょうどそこへ、力持が起き上がった。頭を振り、憎々しげにこちらを睨みつける。「ん?」宙の一点に制止している蝿を目にして、彼は怪訝な顔をした。その目に理解の光りが灯る。
「はっ、犬っころの次は蝿か?」
力持は、馬鹿にした口調で吐き捨てた。
「我は、蝿の王ベルゼブブだ」「大悪魔の名を語るのも大概にしろ」
厳かにベルゼブブは名乗りを上げる。力持は、彼を怒鳴りつけた。
「貴様は、礼儀を知らぬとみえる。身のほどを知れ」
静かな宣誓と共に、ベルゼブブの周囲に突然無数の蝿が出現する。とたんに、視界が遮られ何がなんだか分からなくなった。
「結局は、自分の身を隠しただけだろう。下らない」
力持は、そう言って蝿の群れに突っ込もうとする。鈍い衝突音が鳴った力持がよろめく。
「な、なんだ?」
動揺する彼を、さらに衝突音が連続して襲った。
よく見ると、音が鳴っている箇所には、粉々になった蝿の死骸らしきものが付着している。一方、ベルゼブブの周囲を飛び回る蝿の数が一瞬で膨れ上がった。
「あれは、音速で飛ぶ蝿を召喚してぶつけてるんだ」
アラストルが、謎の事態を解説する。
「へえ」感心する郁乃の前で、次々と蝿が高速飛翔し力持にぶつかっていた。その度に彼は悲鳴を上げている。
「この辺でよかろう。終いだ」
数十匹の蝿が、一挙に力持を襲った(らしいが、郁乃の目には力持が一人で仰け反ったようにしか映らない)。
どう、彼は屋上に倒れこんだ。
「死んじゃったの?」
桜子が、怯えた口調で訊いた。
「ふん、殺す価値もないわ」
ベルゼブブは、忌々しげに応える。
その言葉に、桜子と一緒に郁乃は胸を撫で下ろした。
いくら自分を殴ろうとした人間(天使?)でも、目の前で殺されれば目覚めが悪い。
ベルゼブブが、郁乃の前に飛んでくる。郁乃は、生理的な悪寒から若干身を引いた。
「世話になる。よろしく頼む」
力持と対峙していたときとは一転、彼はしおらしく告げた。
その言葉の意味を理解するのに、郁乃は少し時間を要した。
そして、理解した瞬間、
「やっぱり、あの呪文はそういう意味だったのオォォォ」
と悲鳴を上げる。
その声は、梅雨の晴れ間の空に長々と尾を引いた。