触らぬ神に祟りなし
思考の行き詰まった界斗が何とはなしに店内を眺めていると、見知った顔が目に入る。
「なあ。あれって、マッツン?」
「……だな」
マッツンとは二人の所属するバドミントン部の顧問で、本名は待平健紀と言う。
歳は二十代後半で、容姿端麗。政也はどこか神聖さを感じさせるイケメンであるのに対し(その神聖さも、彼の言葉遣いを耳にすれば即座に霧散してしまうのだが)、松平は優しげな印象を見る者に与えるイケメン、と言えば二人の違いが伝わるだろうか。
担当科目は数学で、分かりやすい板書や丁寧な説明は生徒たちの間で好評だ。マッツンと愛称で呼ばれていることからも明らかなように、男女問わず生徒たちからの信頼も厚い。
バドミントンについては大学の頃にサークルでかじった程度の経験しかないようで、普段の練習は部員の自主性に任せられていた。バドミントンについての技術的な指導を受けられない点は確かに残念だったが、経験の少ない顧問が逆にしゃしゃり出てこられても困るだけなので、松平の着かず離れずの顧問ぶりに不満を言う部員はいなかった。それに、大会の付き添いや練習試合の設定はしっかりやってくれる。文句を言うのは彼に失礼というものだろう。
松平はガラスの向こうにある屋外席に一人で座り、マグカップを片手に道行く人を眺めていた。
二人の視線を感じたのか、彼がガラス越しに顔をこちらに向ける。
松平は一度マグカップを大きくあおってから席を立つと、入口の自動ドアを通って二人のところへとやってきた。
「二人とも、練習お疲れ。奇遇だね」
人懐っこい笑みを浮かべて、松平は二人に話しかける。
彼の笑みに胸を撃ち抜かれる女子生徒が後を絶たないことから、「笑顔の弾丸」なんて呼ぶ生徒もいるらしい。
「マッツン、こんなところで何してんの? 待ち人?」
松平は独身だった。
からかうように言う政也に、松平は肩をすくめると、
「だったら嬉しいんだけど、残念ながら待ち人じゃないんだな、これが。単に近くの電気屋のタイムセールが七時からあって、それまで時間を潰していたってわけ」
ここは秋葉原。日本の誇る電気街があり、毎日どこかのお店に行けばセールが行われているような、熱気にあふれた街である。
松平が自作パソコンを趣味にしているのは生徒の間で広く知られていた。界斗のクラス担任である城ケ崎が「パソコンばかりに現を抜かしているから、彼女の一人もできないのですよ」と松平に廊下で説教(?)したという話も有名だ。三十歳独身女性である城ケ崎が松平にそのようなことを言ったのは、何も心から説教していたわけではあるまいと、周りで見ていた生徒の誰しもが感じていたことだろう。一歩間違えれば、というか明らかにセクハラ発言だが、被害者の松平は苦笑しただけで、その一幕が事件に発展することはなかった。
「二人はこのカフェの常連?」
「いえ、常連と言うほどでは。今日はたまたま二人で話そうってことになって、それで」
界斗の答えに松平は頷きを返す。
「そうなんだ。私はここのコーヒーが気に入っちゃってね、よく来るんだ。今度会ったときは、その偶然に感謝して、ゆっくりと話ができたら嬉しいね。――じゃあまた」
空のマグカップの乗ったトレーを片手に持ち、反対の手でひらひらと手を振って、松平は店を出ていった。
「……何とかして、マッツンに一杯食わせてやりたいぜ」
政也は他人の反応を見て楽しむことが多いのだが、マッツンはいつも冷静沈着で、ふりをすることはあっても、心の底から驚いたり怒ったりしたのは見たことがない。それが何となく政也には面白くなく感じられてしまうのだった。
不満を覗かせる政也を見て、界斗は「ラッキーでも思い通りにならないことがあるのだな」と思い、それから首を横に振る。
「やめとけ。相手が悪い。マッツンが感情をむき出しにしたら、それはもう僕たちの手には負えないだろうさ」
政也は何も答えずにカフェラテを一気に飲み干すと、
「今日はもうこれ以上話す気分じゃなくなっちまったな。お開きにしようぜ」
彼から誘っておいて何とも自分勝手な話だったが、界斗がそのことを気にした様子はなく、一言「ああ」と返し、残ったコーヒーを飲んでから立ち上がる。
界斗は先ほどから気になっていたことを思い出し、トレーを持って返却口に向かう政也の背中に声をかけた。
「どうしてラッキーは妹の部屋にフィギュアがあるって知ってるんだ」
政也は振り返り、当たり前のようにこう言った。
「は? 決まってるだろ。毎日妹が風呂に入ってる間に覗いてるんだよ」
「……ああ、そう」
あまりのシスコンぶりに恐怖すら覚えた界斗だったが、風呂を覗かないだけマシだという風に無理やり解釈した。
触らぬ神に祟りなし、だ。