少年は目覚める
頭蓋の内にジンジンと鈍く走る痛みに顔を顰めながら、界斗は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
そこはがらんとした十畳ほどの空間だった。
所々が赤黒く汚れた灰色のコンクリートの壁に三方を囲まれ、残りの一面はこげ茶色のカーテンが引かれていた。そのカーテンにはいくつか黒っぽい染みがついていた。壁と同じ汚れなのかは分からない。
それ以外の物は見当たらない。――いや、一つ扉があった。ちょうど壁と同じような灰色をしていたために気づくのが遅れたが、それはカーテンの引かれた一面とは反対の壁の右端にあり、鈍く光る銀色のドアノブが見えた。
……拘束されている!
体を動かそうとして、界斗はようやく自らの動きが封じられていることに気づいた。
手足を縄で縛られ、口にガムテープが貼られた状態で、部屋の真ん中あたりの床に転がされている。
くそ! 一体誰がこんなこと――。
そこまで考えて、界斗は直前に何者かによって後頭部を殴られて気絶したことを思い出す。
――そうだ、マッツンと笠根の後を追って、アパートの扉を開けようとして、それで……。
ここが意識を失う直前に入ろうとしていたアパートの一室なのかは分からない。
――とにかく、何とかしてここから逃げないと。
手足の縄を解きにかかろうとした界斗だったが、床に響く足音に動きを止める。
足音が扉の向こうから聞こえてくる。
カツ、カツという独特の足音は。階段を昇降する際のものだ。
その足音は段々と大きくなり、この部屋に近づいてきているようだった。
そして遂に足音が扉の近くで鳴りやみ、部屋の扉がギシッと金属同士が擦れ合う嫌な音を立てながら内向きに開く。
現れたのは、バド部顧問の松平小四郎――マッツンだった。
「やあ、目が覚めたかい」
学校で会ったときと何ら変わらない気軽な口調だった。その整った顔にはこちらを気遣うような、うっすらとした見慣れた笑みが浮かんでいる。
「おっと、そのままじゃしゃべれないよね」
そう言って彼は界斗の口のガムテープを丁寧に剥がした。
「……マッツン、ここは」
彼の普段通りの優しげな態度に、思わず緊張で張り詰めていた界斗の気が緩み、するりと抵抗なく口から言葉が紡がれる。
「ここかい? ここはね、私の遊び場だよ」
遊び場――その言葉の意味が界斗にはよく分からなかった。遊ぶにしても物が何もないじゃないかと、そんな場違いな感想を抱いたくらいだった。
待平は相変わらずの笑みを浮かべて、床に転がる界斗のことを見つめている。
「……助けてもらってもいいですか」
この言葉を言ってしまったら後戻りできないことは分かっていた。色々と余計な話をして時間稼ぎをすることも頭をよぎった。
けれど、これ以上曖昧な状況に身を置くことに耐えられなかった。
なぜなら、不確かさは不安や恐怖となって人の心を蝕むから。
目の前の人物が敵なのか味方なのかをはっきりとさせるための界斗の質問に、待平は笑みを崩すことなく、
「それはできないね」
と答えた。彼は続けて、
「君にはおもちゃになってもらうから」
おもちゃ――その得体のしれない響きに、界斗の全身が粟立つ。人に対して使う言葉ではない。そのことが余計に気味の悪さを増長させていた。
「……僕を殴ったのは先生ですか」
待平の様子を窺いながら慎重に言葉を紡ぐ。
「先生? いつも通りマッツンと呼んでくれて構わないのに。――まあ、そんなことはどうでもいいか。――それで何だって、君を殴ったのが私かどうか? その答えはもちろんYesだ」
しかし、界斗は待平がアパートの中に入るのを見ていた。どうやってアパートの外にいる界斗の背後に回り込んだのか。
「不思議そうな顔をしているね。いいだろう、私は先生だからね、生徒を教え導くのが役目だ。きちんと説明するよ」
依然としてうっすらと淡い笑みを浮かべる彼の内心は読めない。
「と言っても、それほど大した話ではないんだ。向かいに同じような建物があっただろう。あの建物とこの建物は地下通路で繋がっていてね。それを使って向かいの建物に移動して、君の背後に回り込んだというわけさ」
どうやらこの建物は彼が殴られた際に入ろうとしていた建物らしい。
「……背後で扉が開く音はしなかったように思いますけど」
もし本当に地下通路を使って、路地を挟んだ反対側の建物に移動したとして、路地にいた界斗を襲うにはその建物から路地へと出る必要がある。殴られる直前に界斗の背後で扉が開く音はしていなかった。路地の幅は二メートルほどしかなかったし、背後で扉が開いたら間違いなく音で気づいたはずだ。
「お、やっぱり学年二位は目の付け所が違うね」
そんな嫌味ともとれることを待平は言って、
「でも、この世界では音がすべてではないよね、五感と言うくらいだから。音で完結する世界なら五感なんて言葉は生まれない。つまりはさ、あのとき君にとって大切だったのは音じゃなかったわけ」
回りくどい言い方をする、と界斗は思った。この状況で待平の機嫌を損ねたら命にかかわることは分かっていたので、もちろん口には出さなかったが。
「扉は開閉時に音が鳴らないようにしていたんだ。サイレントドアなんて言って裏の仕事関係者の間では出回っている代物なんだけど――いや、まあそんなことはどうでもいい。とにかく扉は無音で開閉できるように作られていた。実際、君にも気づく機会はあったはずだよ。私と笠根くんがこの建物に入る場面を見ていただろう。そのときに果たして扉の開閉音は鳴っていたかな?」
そんなこと気にもしていなかったし、そのときに気にしていなかったことを今覚えているはずもなかった。
「まあ、たとえ扉の開閉音がならなかったとしても、君が背後に十分に注意を向けていたら、私の気配を察知できたかもしれない。まあ、私もある程度隠密の心得があるから、それも中々に難しかったとは思うけど。――どうだい、納得かな?」
「笠根は? 先生とグルなのか」
今の待平の話で彼女のことを思い出し、界斗はそう質問した。
「グル? グルだって?」
待平はここにきて初めて笑みを崩し、
「――これだから学年二位は――だから常日頃から教育方針を見直せと――脳なしのセクハラ教員ども――」
彼はぶつぶつと呟いたかと思うと、再びうっすらと笑って、
「それは違うね。これは私が一人でやっている。彼女は何もしていない。彼女は被害者だ。そして、未来の失踪者でもある。――巷で話題になっている連続失踪事件は知っているかい?」
界斗が頷くのを見て、
「素晴らしい! あの事件はね、私の手による作品なんだ。まあ、失踪というのは結果的にそうなったというだけで、私自身はあまりそのネーミングが好きじゃないんだけど。――だって、実際には彼女たちは失踪なんてしていなくて、死んでいるのだから」




