追跡②
「もうそろそろ近いんじゃねえか。――田辺、百メートルほど手前で止まってくれ」
政也が田辺に指示を飛ばしてから一分としないうちに、現場から百メートル離れた地点に到着する。そこからは政也が田辺の携帯を奪って先導し、携帯のマップと視界に移る建物とを照らし合わせながらゆっくりと路地を進んでいく。
「……ここか」
界斗のいる建物は、辺りの灰色の建物に同化するようにしてそこにあった。
つまり言ってしまえば、これと言って特徴のない三階建てアパートだった。
いや、特徴のないという表現はあまり適切ではないかもしれない。確かに、この辺りの建物と比べたら違いは見られない。しかし、そもそも周りの建物自体が異様と言えば異様であった。
灰色の鉄筋コンクリートの外壁には換気扇や配管一つ見当たらず、一階に木造の古びた茶色の扉が一つ取り付けられているだけである。向かい合う建物はともに二階と三階から路地に迫り出す形でコンクリートの塊があり、互いの距離は一メートルもない。それらのいくつかには布団が掛けられており、おそらくベランダとして使われていると考えられるが、であれば一階のベランダはどこにあるのか。少なくとも政也たちがこれまで通ってきた路地の中で、一階にベランダがあった建物は一つとしてなかった。ちなみに、それらの建物がアパートであると分かるのは、木造の扉の上に「柏木アパート」などのアパート名が黒字で記された灰色のプレートがあるためである。
そういう点において、一般的なアパートと比べるのなら、確かにこの辺り一帯の建物は異様だった。
「これって!」
佐久間がひそひそ声で指差したのは、界斗がいると思しき建物の扉の前の地面だった。
そこには、血痕が飛び散っていた。
血の量はそれほどではないが、ぽつ、ぽつと少量の血痕がいくつか認められた。
それら血痕の一つに政也が指先で触れると、血が指に付着した。凝固も見られないことから、どうやらこの血が流されたのはついさっきのことらしい。そして、おそらくこの血を流した人物は――、
「界斗の、か」
政也は沈痛な面持ちでそう言って、この場から一旦離れるために手で皆に合図を送る。
五人は来た道を戻り、角を一つ曲がったところで立ち止まった。
重苦しい雰囲気が漂う中、最初に口を開いたのは政也だった。
「これは、思っていたよりもかなり深刻な状況だな」
「……そうだね。ひょっとすると、ものっちやマッツンのおふざけに界斗っちや私たちが付き合わされているだけかも、なんて淡い考えもあったんだけど……」
先ほどまでは比較的明るかった佐久間の口調も、今は暗い。
「け、警察に連絡すべきだよ」
「モブオくん、それは止めておいたほうがいいと思う」
田辺の至極真っ当な意見に反対したのは、意外なことに美衣香だった。
「ど、どうして?」
「警察を呼んだら犯人を刺激してしまうかもしれないでしょ。それでもし犯人が自暴自棄になって界斗さんを殺そうとしたらどうするの?」
「そ、それは……」
警察を呼ぶことで事態が悪化するかもしれないという美衣香の反論にも一理あると思ったのか、田辺は口をつぐんだ。
「それに、警察が駆けつけるまでには時間がかかる。いつ界斗とやらが殺されるかも分からないこの状況で、悠長に警察の到着を待つのか。その間に彼が殺されたらどうする。――俺は、この場にいる俺たちで迅速に彼を救出すべきだと思う」
美衣香の意見に賛成したのは悪魔だ。
「……正直、犯人も現場の状況もはっきりしない中で、俺たちだけで界斗を助け出すのはかなり厳しいと思うぜ」
建物内の状況が分からないだけでも問題なのに、政也の言うように、そもそも犯人が待平であることさえ確かなことではないのだ。あくまでも彼である可能性が高いというだけの話で。
それに、笠根がどういった立場にいるのかもはっきりしない。仮に犯人が待平だとして、界斗と同じく捕らえられているのか、あるいは彼と共犯なのか。笠根と待平の性格の不一致から共犯という線は考えにくいかもしれないが、彼に弱みを握られて無理やり犯行に加担させられている可能性もある。
いずれにせよ、事件の全容が曖昧過ぎて、ぶっちゃけ一般人の手に負えるとは思えなかった。
が、先ほどの政也の発言を別の意味に捉えた人物がいた。
「かなり厳しい……。無理、とは言わないのね」
佐久間だ。先ほどまで沈んでいた顔が嘘のように、にんまりと口角を上げ、どこか楽しげだ。
「まあな」
答える政也もなぜか楽しげ。
そんな二人を見ていた田辺が、
「ちょ、ちょっと二人とも、悪いこと考えてる? 考え直してよ」
必死に二人に改心するように促すが、政也は界斗がいるアパートのほうを親指で示して、
「悪いことだって? 悪いのはあっちだろ」
と言って聞く耳を持たず、佐久間は一度ゆっくりと瞬きをしてから、
「そうね、警察に連絡しないことは悪いことかも。――でも、悪いことがいつだって間違いだとは限らないでしょ」
と言って結局立ち止まるつもりはないようだった。
「……じゃあ、作戦会議といこうか」
少し間を空けて、それ以上反対意見が出てこないことを確認した政也が、口火を切った。
彼の顔から普段の飄々《ひょうひょう》とした雰囲気は一切感じられず、限りなく不敵で獰猛な笑みが滲みだしていた。
これこそが策士としての彼の本性。
己の頭脳でどこまで行けるのか――その果てを知りたいと願う少年が、そこにいた。




