悪魔が送り迎え
翌朝、悪魔が二階の自室で目を覚ますと、窓の外に佐久間の後ろ姿が見えた。
彼女は襟や背中に黄色の線が入った黒のジャージを着ており、映えるピンク色のラケットケースを肩にかけ、家から小走りに遠ざかっていくところだった。
そういえば昨日の夜に「明日は朝から部活で」という話をしていたなと思いながら、悪魔はベッドから下り、ほとんど物が見当たらないクローゼットの中から紺の長袖シャツと黒のジーパンを取り出して着替える。
ベッドの上の置時計(佐久間の両親が「何かの景品でもらったものだけど」と言って渡してくれた)に目をやれば、時刻は午前七時過ぎ。
佐久間の両親が「あんまり始めから根を詰めて働くのはよくないから」と言って、今日一日バイトを休みにしてくれた。「日曜日で色々と駅前でイベントもやっていると思うから、よければ行ってみたら」という佐久間の話もあり、駅前には多くの人が集まっていることだろう。今日は駅前に行ってみようかと思っていた。
日本についての知識は佐久間が教えてくれるとのことだったが、あくまでもそれは今後のシナリオを練る上での参考情報に過ぎないわけで、実際にどういう形で悪魔側の人間の数を巣やしていくのか、その方針は未だ決めることができていないでいた。
当面は時間のあるときに街に出て、彼の手足となって動いてくれる人間を探すのがいいだろう。佐久間みたいに嘘を見抜ける人間がそう多くないことを願って……。
動かせる駒が多いに越したことはないし、その駒が佐久間みたいに新たな情報源となってくれる可能性もある。
もう一つ、悪魔側の人間を増やす方策として彼の頭に漠然と浮かんでいるのは、やはりどこの世界でもそうだろうが、上に立つ存在になるということが挙げられる。上に立つ者の発言はそれだけで一定の影響力を持つし、どうしても「正しい」と思ってしまいがちだ。それを利用し、国民の悪魔度を一気に上げていく作戦。洗脳とも言えるかもしれない。
日本だと内閣総理大臣という表のトップがいて、この数日リビングで食事をとっているときに度々テレビでその姿を見かけたが、どうにも彼は頭を下げてばかりで、話す内容も薄っぺらく、さして国民から大きな信頼を寄せられているようには見えなかった。それに、日本にやってきたばかりで馬の骨とも分からない彼がその職を手に入れるのは困難を極める。ならば今の内閣総理大臣を手駒にするという選択もあるが、彼とコンタクトをとる方法など悪魔が持っているはずもなかった。
多くの国民に多大な影響力を持つという意味では、動画配信サービスやSNSで有名になるという手もある。実現可能性という点では総理大臣になるよりもこちらの方が高そうだ。しかし、すでに多くの古参がいる状況で今から始めて果たしてどこまで成り上がれるのかは一考の余地がある。できればすでに活躍している古参の意見を聞きたいところだ。
いずれにせよ人脈を築くことにある程度の時間を割かねばなるまい。一人目の佐久間と上手く関係を築けなかったのは失態だったが、いつまでも過去にこだわってばかりもいられない。それに彼女を拒絶したのは彼のほう。後悔などあるはすもない。
一階のリビングに下りると、すでに彼の分の食事が準備されていた。
「あら、おはよう、阿久多くん」
キッチンで調理器具を洗っていた佐久間の母が顔を上げる。
ベーコンエッグにレタスとプチトマト、ふっくらとした白ご飯、そして湯気の上るお味噌汁。日本ではありふれた朝食だと分かっているが、それでも元居た世界でほとんど食事を摂らずに生きてきた悪魔にとってはご馳走だ。
「今から起こしに行こうかと思っていたのだけれど、ちょうどよかったわ」
彼女はそう言って微笑んだ。
佐久間は肩ほどで切り揃えられた比較的短めの髪形をしているが、彼女の髪型は背中にかかるほど長く伸ばされたポニーテールである。それに髪の色も佐久間は黒だが、彼女のほうはダークブラウンに染めていた。そんな違いはあるけれど、やはり二人は親子なのか、くりんとした大きな目や整った顔立ちがとてもよく似ていた。
身に着けていた紺色のデニムエプロンを外し、彼女はキッチンから出てきてリビングのテーブルにつく。悪魔と彼女がテーブルを挟んで向かい合う形になる。
「いただきます」
彼女に続いて悪魔も復唱し、この数日で少しずつ使い方に慣れてきた箸で料理を口に運ぶ。
佐久間の父親はすでに食事を済ませ、七時から開店の準備をしているとのことだった。
リビングのテレビでは、朝のニュースを報道していた。内容は専ら「下野動物園でパンダの赤ちゃんが生まれた」とか「国内の住宅販売が高水準だ」とか「小学生が新種のカブトムシを見つけた」とか穏やかなものばかりが続いていたが、
「――次のニュースです。東京都内に住む十五歳の女子中学生の行方が二日前から分からなくなっており、警視庁による捜索が続いています。行方が分からなくなっているのは、東京江東区の中学三年生の待兼蛍さんです。二日前の今月十七日の午後五時ごろ、「知り合いに会いに行く」と言って家を出たまま連絡が取れなくなりました。警視庁は周辺の防犯カメラの映像や聞き込み調査を進めており、――」
ニュースを見ていた佐久間の母が、
「……早く見つかるといいわね。最近若い子の失踪事件が相次いでいて何かと物騒だし、うちの娘も心配だわ……」
と眉根を寄せる。ニュースを聞く限り、失踪事件が何者かによる犯行なのか、あるいは失踪者が「自発的に」姿をくらましたのかどうかは明らかになっていないようだが、佐久間の母親の言うように似たようなことが続いて起きているのだとすれば、それは確かに人為的な犯行である可能性が高そうだ。
「できれば学校への送り迎えもしてあげたいのだけれど、店のほうがあるし……」
そこまで言ってから、彼女はいいことを思いついたとでも言うように「そうだわ」と手を打つと、
「阿久多くん、琴羽の送り迎えお願いできないかしら?」
「……送り迎え、ですか」
「そうよ。あの子が失踪事件に巻き込まれないように、外を出歩くときはなるべく付き添いをお願いしたいの。平日の学校の行き帰りとか、今日みたいに休日に部活があって学校に行かなきゃいけないときとか、あと他の用事で出掛けるときも。もちろんアルバイトのほうは融通を利かせられるよう旦那にも言っておくし、娘のほうも私が説得するわ。どう、お願いできないかしら?」
親が子どものことを心配するのは当たり前だという知識は確かに悪魔の中にもあったが、これは中々にレベルが高いなと彼は思った。親ばか、とまではいかないのかもしれないが、中学生にもなって送り迎えをしてもらうというのは、佐久間としても周りの目が気になって仕方がないのではないだろうか。まあ、佐久間のことは説得すると言っているので、その点について彼がとやかく考える必要はないか。
それよりも彼が考えるべきことは自分の都合だろう。
悪魔側の陣営を増やし、三年後に日本国民の過半数をとること。
この目標を達成するために直近でやるべきこととして情報収集や駒探しを考えていたわけだが、佐久間の送り迎えをするとなるとどうしてもそれらに充てる時間が削られてしまう。しかも平日は朝と夕方に毎日送り迎えをすることになりそうだし、休日も可能な限り佐久間の付き添いをさせられるとなれば、纏まった時間を確保することも難しくなる。
アルバイトは最低限のお金を手に入れるために必要なのでやっているが、佐久間の送り迎えはいわばボランティアだ。ボランティア活動に時間を割けるほど今の悪魔には余裕がなかった。
ここは禍根を残さないように丁重にお断りしようと、悪魔は口を開きかけたが、
「もちろんお金は出すわ。送り迎えワンセットで一回千円なんてどうかしら」
「やらせていただきます」
こうして悪魔は金に釣られて佐久間の送り迎えをすることになったのだった。




