過去と今の隙間に
佐久間が家に帰ってきたのは、十七時を少し回った頃だった。
悪魔の勤務時間は十八時までで、勤務を終えた彼はそのままの服装で一階の喫茶店ブースと佐久間家の居住スペースを隔てる扉を開け、続く廊下に並ぶ扉の中から「琴羽の部屋」と丸文字で描かれたドアプレートの掛かっている部屋をノックした。
「阿久多だ。相談したいことがあるのだが」
少しして扉が開き、佐久間がひょこりと扉と壁の隙間から上半身を覗かせる。
「りょーかい、あっくん。お風呂入ってからでもいい? 汗かいちゃって」
彼女は着ていた白のブラウスの襟をパタパタと手で扇ぎながら答える。
出会ったときには敬語だったのが次の日の朝にはタメ語になっていた。二人の見た目は同い年くらいだし、一夜明けて彼女の中でなにがしか考え方の変化があったのかもしれない。
ちなみに、佐久間は阿久多という名前から「あっくん」と呼ぶことに決めたようだった。「悪魔」にも通ずるあだ名だと言われればその通りだが、もともと阿久多という名前も悪魔から思いついたものだから、そうなっても何ら不思議ではない。
相談は風呂上がりで構わないと悪魔が返事をすると、佐久間は「ありがと。上がったら二階のあっくんの部屋に行くね。なるべく急ぐから」という言葉を残し、部屋の中へと戻っていった。
その間にこちらは着替えを済ませて、夕食の支度をしている佐久間の母親を手伝いにでも――と、そこまで考えて、悪魔は人知れず苦笑する。
まだこの世界に来て四日と経っていないのに、随分と能天気になったものだ。アタンでは敵を陥れることや如何に相手を騙すかばかりを考えて行動していた悪魔が、よもや人に手を貸そうなどとは。
こちらの世界に生きる人間はあまりにもお気楽すぎて、だけど裏を返せばこちらの世界はそれが許されるほどに平和なのだ。
炎で焼け焦げた肉が放つ独特なタンパク質の不快な臭い。
辺り一面に飛び散った赤黒い血から沸き立つ鉄の臭い。
食い散らかされて放置された《《もの》》から漂う饐えた臭い。
そんな臭いがこびりついた、戦争が当たり前の世界で、悪魔は生きてきた。――数千年も。
だけどたった四日、ほんの四日、この日本で暮らしただけで、こうも気持ちが緩んでしまったのは、やはりそれだけこの地球という世界が、日本という国が、戦争や暴力や殺戮や略奪などから程遠い場所に位置しているのだろう。
――気持ちを引き締め直さなければ。
彼は悪魔。かつてアタンに数万と存在した同族たちは、一夜にして一体の天使に滅ぼされた。その天使は今この日本で戦っている天使とは別の天使だ。
幼かった彼は、灼熱の地獄の中で次々とその天使によって命を奪われていく同族の姿を、物陰に隠れて見ていることしかできなかった。
彼は、悪魔のたった一体の生き残りだった。
どうして彼だけが生き残れたのか。
あのとき天使は灼熱の地獄よりもなお赤い瞳で確かに彼の姿を捉えていたのに。
天使は物陰で震える彼に向かって唇を動かして何かしら呟いただけで、その場を去っていった。
なぜ天使が彼を見逃したのか。
天使は去り際に何と呟いたのか。
その答えを知る術は、もうない。
なぜって? その天使はすでにいないからだ。
天使もまた、いつの間にか今の彼女ただ一体になっていた。その理由を悪魔は知らない。風の便りでは外部による襲撃ではなく内部で起きた反乱によるとのことだけれど、真実のほどは定かではない。もし内乱が本当のことなら真相を知るのは生き残りの天使ただ一体だけということになるが、悪魔はわざわざその真相を訊いてみようとは思わない。
真相を聞いたところで、胸糞悪い気分になるのは目に見えているから。
――本当なら自分が天使たちをぶっ殺すはずだったのに、と。
悪魔の中に巣食っていた復讐の念は思わぬ形で踏みにじられ、後に残ったのは塵や滓が所々にへばりついた醜悪な虚しさだけだった。
偶然か必然か、アタンでそれぞれ唯一の存在になった天使と悪魔は、神の気まぐれでアタンという世界を舞台にして争うことになり、引き分けた。
神の気まぐれ――そう、まさしくその通りだ。
「そういえば、天使と悪魔、結局どっちが強いのだ?」
神の何気ない一言に始まり、どれだけ多くの種族が巻き込まれ命を落としたのか。
たとえ天使と悪魔であっても神の命令には逆らえない。
アタンという世界そのものを、神は従えているのだから。
あくまでも彼らが「アタンの」天使と悪魔に過ぎない以上、例外とはならない。
バイト時間外ということもあり、お馴染みの語頭をつけて悪魔は呟く。
「くっくっく……部屋で着替えるだけにしよう」
佐久間の母親を手伝うことはやめて、悪魔は部屋でこれからのことについて考えることに決める。これからのことというのは、佐久間にどのような形で協力してもらうのかについてのシナリオである。今もっとも身近にいて助力を仰ぐことができそうな人間は佐久間であり、彼女をいかに丸め込むかが直近の課題である。
ふと喫茶ブースとを仕切る扉のほうを見ると、扉の向こうから客や従業員の声が聞こえてくる。
赤っぽい声、青っぽい声、黄色っぽい声。
色々な声が扉の隙間から漏れ出してきて、だけどそれらはどこか遠くの国の言葉みたいに輪郭がはっきりしない。悪魔はこれ以上ここで立ち続けることに何故か心がざわつき、足早に二階へと続く階段を上り始めた。
キシ、キシ、――普段は耳につく階段の軋む嫌な音が、今は不思議と心地よかった。




