眼
なんと距離十センチほどの至近距離から、天使はさらに顔を界斗へと近づけてきたのだ。
九センチ、八センチ、七センチ――もちろん界斗に正確な距離が分かるはずもなく、そのカウントダウンは単なる界斗の主観的なものに過ぎない。
がむしゃらに漕がれたペダルのように心臓が音を立てて拍動し、全身を流れる血液が熱く血管内を駆け巡る。
「お、おい」
頬を押さえつける形で顔を固定されていたため、界斗の口から漏れた声はくぐもっていた。
それでも天使にはきちんと伝わっていたようで、
「おいじゃない。じっとしていて」
さらにがっしりと顔をホールドされてしまう。
ぐんぐんと彼女の顔が近づき、思わず界斗が目を瞑ると、
「目を開けなさい」
と今度は別の叱責が飛んでくる。
もうなるようになれと目を開けた界斗の左の瞳に、顔の位置を右にずらした天使の左の瞳が……合わさった。
密着、と言って相違なかった。
黒の瞳と赤の瞳が重なり、瞬間、界斗の瞳に熱い何かが流れ込んでくる。
まるで彼女の赤い瞳の奥で眠っていた炎が彼の瞳に燃え移るようだった。
瞳同士が触れ合っていた時間は刹那――一秒にも満たない。
けれど、次の瞬間、界斗の左目が捉える視界はその様子を大きく変えていた。
――天使度:100%
――悪魔度:0%
眼前にある天使の顔に重なる形で半透明の四角いスクリーンみたいなものが表示され、天使度と悪魔度という訳の分からない文字が並んでいた。
天使の手による顔の拘束が解かれ、天使の顔が離れると、そのスクリーンらしきものは天使の頭の上あたりに移動した。
「心配するな、ちょっと私の眼を貸しただけだ。お前が望めばいつでも元に戻してやる。――さっき話した天使側や悪魔側についてだけれど、お前の視界に今表示されている天使度と悪魔度が、その存在が天使側か悪魔側かを決定するわけだ。私は天使だから、お前の目には《天使度100%、悪魔度0%》と映っているはず。悪魔であれば割合は《天使度0%、悪魔度100%》になる」
天使は袋から最後の一つのドーナツ――ダブルチョコレートを取り出して、自身の顔の前に持ってくる。
「天使や悪魔だと、0%か100%かの二択、俗にいう零か一かという話になるわけだけれど、人間はそうじゃない。人は誰しも天使と悪魔の心を持っている。その割合を表したのが、今お前が見ている天使度と悪魔度というわけだ。天使度80%、悪魔度20%の人間がいれば、天使度20%で悪魔度が80%の人間もいる。前者が天使側の人間、後者が悪魔側の人間ということになる」
天使はドーナツの輪っかの一部を食べ、欠けたドーナツを目で示す。それで円グラフのように人間の天使度や悪魔度の状態を表しているつもりなのだろう。
「最終的に天使側の人間のほうが数が多い場合は私の勝ち、悪魔側の人間のほうが多かった場合は悪魔の勝ち、というわけだ。偶然か必然か悪魔も日本に飛ばされたらしく、まずはこの日本を戦いの舞台とし、その数を競おうという話になった」
目の前の少女が本当に天使であるのかは未だに分からない。
だが、ここまでの話を聞いて、何より「彼女の眼」を共有されて、彼はようやく彼女が彼の知っている人間という存在ではなく、彼の日常とは遠く離れた別の世界からやってきた存在なのだと、納得することができた。……納得というより、そう考えざるを得なかった、と言ったほうが正しいか。そうしなければ、目の前のことを非日常に分類しなければ、これまで彼が積み重ねてきた日常が壊れてしまいそうだったから。
日常は心の拠り所。
そう簡単に壊れることは受け入れられない。
「この日本という島国で戦って勝つこと。それが私の目下の目標だ。戦いにおける第一戦が重要であることは言うまでもないだろう。この戦いの勝敗がその後の戦いの大きな流れを決める。悪魔などに負けるわけにはいかない。私は私の正義でもって奴を討ち果たす。そのためには、まずは戦場である日本のことをよく知る必要がある」
天使は食べかけのドーナツをじっと見つめている。その深紅の瞳にどのような感情が渦巻いているのか、界斗には分からない。
「……つまりだな、私はお前に教えてほしいのだ。この日本という国のことを」
唇の周りにチョコがベトベトとついている顔で言われても、真剣味も何もあったものではなかったが、彼女の頬はほんのりと赤く染まっていた。相手がそんな風に勇気を出して紡いだ言葉を即座に切り捨てるほど、界斗は人でなしではなかった。
「教えるって言ってもな……。この世界に飛ばされたときに一通りの知識は身につけたんだろ。率直に言って僕は一介の中学生で、あんまり教えられることは多くないと思うが」
「いいや、そんなことはない。私はこの食べ物の名前すら知らなかった」
天使は最後の一欠片となったドーナツに目をやる。
「それに、この三日間、無一文で街を徘徊していた私の目に映った飲食店たちは、いずれも私の知らない食べ物を多く提供しているようだった。きっと日本という国はあまりにも色々な種類の作物や家畜を育てていて、付け焼刃の知識の刷り込みでは補え切れないほどだったのだと私は推察している」
……彼女が身に着けた「この世界の一通りの知識」というのは、どうやら思っていたよりも抜けている部分が多くありそうだった。あるいは著しく偏っているのか。
彼女の頭の中には他国との交易という概念がなさそうだったし(もしくは周りを海に囲まれた島国である日本では、鎖国同然に外部の国との国交が不可能であると考えているのかもしれない)、先ほどから初対面の彼のことを「お前」と呼び続けているあたり、礼儀についての知識もなさそうだ。
「まだまだこの世界には学ぶべきことがたくさんある。それに、何より……」
ひょいと最後の一欠片のドーナツを口に放り込み、彼女は立ち上がる。
「私は、お前に運命を感じたのだ」




