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無差別殺人の正当性の証明

作者: 鈴木美脳

【無差別殺人の正当性の証明】

 行き過ぎた格差社会における行き過ぎた自己責任論に反撃する意味では、無差別殺人には正当性がある、という議論があります。

 つまり、行き過ぎた格差社会における行き過ぎた自己責任論にそもそも不当性があるため、それによって理不尽に踏みにじられた被害者が行う反撃は、単純な違法性によって一律に否定することができないというのです。

 一方で、そういった犯罪者に何ら同情せず、断罪的かつ侮蔑的に完全に否定する立場もあります。

 そして、それぞれの立場から、持論を正当化する論拠が掲げられ、論争が行われます。

 そこで用いられる論点は、まだあまり整理されてはいないようです。


 無差別殺人や、その未遂事件が起こるたびに、そういった論争が社会の日陰で行われます。

 それら議論は、本質的には、自己責任論や格差社会のあり方を論じるものであって、包括的で意義深い内容を備えています。

 無差別殺人を犯して処刑される犯罪者達は、既存の体制に批判的な立場をとる代表的な素材として扱われているのです。

 実際の彼ら彼女らの意図や思想とは必ずしも関係なく、大げさに言えば、英雄視されたり、革命運動のイコンとなりえます。

 よってここでは、無差別殺人の不当性を証明するすべての主張を論破することによって、無差別殺人の正当性を証明します。

 既得権益による理不尽な自己責任論は、大いに実在し、かつ是正されるべきものだからです。


 結論から言えば、無差別殺人だから不当だと言うことはできません。

 無差別殺人だから正当だと言うこともできません。

 しかし、行き過ぎた格差社会における行き過ぎた自己責任論に反撃する意味では、理不尽かつ不当に踏みにじられて苦しみと憎しみに染まった者が無差別殺人などを犯すことは、既得権益や大衆のおごりを掣肘する唯一の手段として明らかに正当です。

 立場の弱い者は反撃もできないだろうと考えて、社会の理不尽をしわ寄せしていけば、間欠的に反動は生じるものであって、それは好ましいということです。



【善良な一般市民に迷惑をかけるな邪悪な強者を狙え】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 そういった主張は、善良な自分は被害にあいたくないし、どうせやるなら自分にとって有害な強者を狙ってくれればいいのに、という願望を投影して口から漏らしたものにすぎません。

 犯人は人生を犠牲に捧げているのに、それをしない自分が、メリットだけを享受しようとしつつ、立場の弱い犯人には上から目線で侮辱的な態度をとることが、その人が愚鈍であることを証明しています。

 そして、愚鈍で自己中心的な大衆こそが、行き過ぎた理不尽な自己責任論を生んでいるのですから、その人は自分が自覚するようには、無垢でも善良でもありません。

 つまり、自分が殺されないに値する人物であるとは論証できていないことになります。

 それに、そんな他力本願な利己心だけでは、社会は決して改善しません。



【善良な一般市民を殺しても社会改革としては無効だ】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 そもそも、既得権益は、強大な権力を備えています。だからこそ、立場の弱い人々に理不尽な自己責任論を押しつけることもできるわけです。

 立場の弱い者が反撃する時には、対象となる構造の最も弱い部分から攻撃することが最も合理的です。正々堂々と戦って、戦果なく破れたとしても、誰も褒めてはくれません。馬鹿に理解できるのは痛みと恐怖だけです。

 現代人には、大衆は善良であって悪徳は一部の権力者の属性だと自己欺瞞する傾向が刷り込まれています。実際には、権力と弱者とは、大衆を間においてせめぎ合っています。

 権力は、弱者を虐げる時には大衆を用いるのであり、大衆は、体制に従って弱者を虐げることを通して日頃から利益を得ているのであり、弱者が反撃する時に大衆を対象にすることは、とても自然だし完全に妥当です。

 それに、仮に権力者に被害を与えたとしても、大衆が目を覚まさないかぎりは、社会は改善しません。市民全体の認識や思想がより高く進歩していかなければなりません。



【無敵の人による犯罪だ】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 失うものを持たず、それゆえ犯罪をためらわない人々を俗に、「無敵の人」などと呼ぶことがあります。

 しかし、実際には、失うものを持っていない人など実在しません。だからこそ、立場の弱い人は多く存在するわりに、行われる犯罪はずっと少ないです。

 犯罪者達にも、犯行を行うことへの恐怖心や、警察と対立することへの恐怖心や、処罰されることへの恐怖心や、世間から批判されることへの恐怖心はあると考えることが自然です。対象者の精神的な苦痛を過小に評価することは、愚鈍な人々に典型的な考え方です。

 あるいは極端には、富裕であっても、正義感から犯罪を犯すことはありうると考えるべきです。それはありえないと考えたがることが、議論から倫理的な論点を捨象しようとする、自己中心的で愚鈍な悪意です。

 犯罪者達は、失うものはそれなりにあったが、とても苦しい立場を強いられ、なおかつ倫理的な不当性に対する苛立ちをつのらせ、犯行に及んだ、という可能性を視野に入れておくことが、健全な考え方です。「無敵の人」として犯罪者や弱者を対象化してしまうことは、議論を過度に単純化してしまいます。

 ただし、失うものをほとんど持たないような立場へと、一部の人を追いやってしまっているという社会の暗部を認知する意味では、「無敵の人」といった概念も様々に有用かもしれません。ただ、絶望的な苦しみに追いやられた人を「無敵」と称するのは、共感の欠落した果ての極めて残忍な発想だという気はします。



【落ちこぼれは怠け者だ】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 理想的な機会均等は実現されていませんし、将来に渡って完全に実現されることはありません。

 そして、十分な素質があって、まっとうに努力したとしても、「そこそこ」の報いすら得られないこともあります。

 それなのに、自業自得だと言う人がいれば、環境の格差についてあまりにも無知なのかもしれません。

 しかしその無知のほとんどは、実際には、積極的で悪意に満ちた無知です。なぜなら、この世に様々な環境の格差があることなど、並みの知力があれば簡単に想像できることだからです。

 つまり、自業自得だと言う人は、何らかの既得権益を手にしているがゆえに、弱者への損失のしわ寄せについて、「自業自得」だと、ゆがめて認知したがっているのです。

 そして、そういう心理を持っている人は、自分自身のそういう卑しい悪意について自覚的ではありません。つまり愚鈍であり、愚鈍な人ほど、自分にだけ好都合な理不尽な自己責任論を振りかざすのです。



【立場の低い者が多くを望むべきではない】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 例えば、生まれが不遇であれば、恋人や子を持てなかったとしても、犯罪を犯すよりは、諦めてその立場に甘んじて生涯を送れ、という意味のことが言われることがあります。

 怪我や病を負ったとしても、生涯賃金や寿命が少なくとも、それに甘んじろと言われることがあります。

 しかしその発想は、持つ人々が、持たない人々に、好都合な価値観を強いているだけです。

 学歴が低ければ給料が少なくても満足しろとか、正社員でなければ給料が少なくても満足しろとか、言うことは簡単ですが、言う側の願望でしかありません。フェアな競争など、既得権益の側の人々の脳内にしか実在しません。

 生命が生命である以上は、長く生きたいとか、子や子孫を残したいと思うことは、自然です。それを抑圧して、なかったことにしようと考えることは、不健全な無理のある考え方です。

 立場の低い人々が、力によって踏みにじられ、味わっている苦しみや苛立ちについて、安易に見て見ぬふりをすることは、愚鈍な考え方です。



【日本に生まれただけで幸せなのに】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 海外には紛争地域やスラム街が存在し、そこで生まれ生きる人々の苦労に比べれば、日本で立場の弱い人の言う不満は、甘えた泣き言だと言う人々がいます。

 実際、治安の悪い地域や貧困な地域ほど、PTSDや鬱病も多く、肉体的のみならず精神的なQOLも低いと考えるべきです。

 しかし、そういった地域であっても、家族との愛情や、友人や仲間との笑顔や、恋愛や出産はありえますから、日本の弱者のほうが一律に幸福だとはまったく言えません。

 また、人間の幸福観は一面で社会的ですから、世間のほとんどの人が当たり前のように享受しているキャリアや幸福から自分だけが妨げられている、ということはしばしば深い苦しみをもたらします。よって、飢えたことがないから石器時代の人より幸せ、といったことは簡単には言い切れません。



【社会幸福は多く納税する人々が支えている】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 実際、多く稼いでいる人々ほど、多くの税金を納めていて、それら多くのお金が社会全体のために使われています。

 しかし、それだけを見て、多く稼ぐ人ほど多く社会に貢献している、と考えることは愚鈍です。

 なぜなら、自由市場原理は、それだけでは社会幸福のためにまったく不十分であり、社会幸福を実際に支えているのは、一般市民の良識や民度です。

 それゆえ、そういった人格的な価値をまったく認識できず、資本の論理に思考が染まってしまっていることは、むしろ非常な悪徳を証明してしまっています。

 優秀な人や企業ほど競争を勝ち残り、社会的な価値の低い存在から地位を失い滅んでいくなら、その秩序は非常に問題のないものであって、文明が絶えず進歩していくことを運命的に約束することでしょう。しかしそれは、典型的な近代主義の狂気であり、自由市場原理はそこまで無謬ではまったくありません。経済発展や技術発展と平行して、市民が精神的には不幸になっていく場合もあります。

 人類が、加速度的な技術発展を迎えた現代において、自己中心的に視野狭窄した欺瞞的な利己主義が大いに蔓延していることは、技術発展に応じて人類幸福がかえって危機的な局面を迎えていることを証明しています。



【普通の仕事を頑張ることが社会に最も貢献する】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 世界にしろ国家にしろ企業にしろ、より小さなどんなグループにしろ、仮に改めるべき点があるとして、内側から改革すべきか外側から改革すべきか、という論点があります。

 内側で努力して評価されて地位を得て改革を行え、というのは、性善説です。

 なぜなら、善良でありつづけることで、いつか相手が理解してくれる、と言っているのと等しいからです。

 しかし、人は他者を道具として消費する生き物ですから、誠実に接しつづければどんな悪人もいつか改心してくれるだなんて、ありえません。

 多少理不尽な環境を強いられても、努力すればそこそこの報いを得られることはあります。しかし、努力してもそこそこの報いも得られない大いに理不尽な環境も実在します。それに対して、内側からの改革にこそ常に優越した正当性がある、と言うのは、理不尽で欺瞞的です。

 よって、外側からの、違法性や暴力性を伴った改革が絶対悪だと主張する人々は、実際には、既得権益を手にしています。そして、自分達は既得権益を守るために利己的であって、性悪説を自覚していながら、自分達に好都合なように、弱者を性善説に洗脳しようとしているのです。

 しかし普通、その悪意を相対化して自覚してはいませんから、単に思考停止しているだけであって愚鈍です。

 真面目に努力した人が報われる現実を作ろうという努力が伴っていないならば、自分よりも立場の弱い人々に対して、真面目に努力すべきだと説くことは、不当です。そのように、既得権益や権力者は、往々にして、利用する対象を性善説に洗脳しようと努めるものです。



【引きこもりの原因は親の甘やかし】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 自宅の自室などに何年間も引きこもるような行為が、幸せな人生を歩むために合理的でしょうか? もちろん、そうではありません。年齢に応じて学歴や職歴といったキャリアを積んでいくことは、幸福に生きるために大切ですし、外で身体を動かすことも健康のために大切です。

 では、引きこもりをする人々は皆、そんな当たり前のことも見通せないほど愚かなのでしょうか? それは、他者の知力に対する安易な侮りです。他者の知力を安易に侮ろうとする人々は、百人が百人、愚鈍です。自分のほうが賢いつもりになって主観的に気持ちよくなりたいだけです。

 引きこもるほとんどの人々は、深い将来不安を感じつつも、学校や仕事に適応できない恐怖心によって、引きこもることを強いられていると見るべきです。その対人恐怖が形成される原因としては、親による虐待がトラウマになっている場合もありますから、親の甘やかしが引きこもりの原因だと一律に断罪することは欺瞞的です。

 無職の人々や、生活保護を受給している人々についても、そうありつづけることが幸福に生きるために最も合理的なわけはありません。だからほとんどの人々は、働くし、財産を持つわけです。

 誰しも同じように利己的に、自分の人生が幸せであることを望んでいますし、そのために合理的な戦略を考える知力も備えています。財産を持たない立場に甘んじている理由や、働けずにいる理由があると考えるべきです。

 賭博や麻薬に依存する人々についても、何らかの現実逃避をしている可能性が高いでしょう。人様を安易に馬鹿にするのは、主観にだけ好都合な愚鈍な考え方です。



【暴れるなら外国に行って暴れろ】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 自分は被害にあいたくないから、自分が被害にあいかねないような場所で暴れるな、という願望が口から漏れているだけです。

 この主張は、フラストレーションは体制の外側に向かって吐き出せ、と言っていることになります。しかし、理不尽な苦しみを強いたのがその体制そのものであれば、外側に吐き出したなら、反撃にも改革にもなりません。社会改革としての正当性をかえって失ってしまう危険があるわけです。

 比喩で言えば、一般に、大きな犬に吠えられた犬は、より小さな犬に向かって吠えるものです。会社でパワハラにあった男性が、家に帰って妻に暴力をふるったりします。パワハラを行った上司が、私に反撃せずに家に帰って妻や子に暴力でもふるえ、と言ったならば、どれほど欺瞞的でしょうか? 外国に行って暴れろ、といったことを安易に主張する人は、そんな自らの邪悪さすら自覚できないほど愚鈍です。



【犯罪なんて割に合わないから馬鹿がやるもの】

 という主張は、あまりにも愚鈍です。

 普通に合法的に努力したほうが、自分の人生を最大限幸福にするためには最も合理的だから、一時的ないかりの感情に任せたような突発的な事件を犯す者は、愚鈍だろう、というわけです。

 しかし、利己主義者にとっては、人間は誰でも利己主義者であるように見えますが、実際には違います。

 理不尽に尊厳を侮辱されて、そんな立場の弱さの分だけ振る舞いも小さく、求めるものも小さくなって温和に生きる人もいますが、倫理的な不満感をつのらせる人々もいます。

 ですから、人間が感じるいかりの感情には、個人的な価値を害されたことへの反応もありますが、正義感から来るいかりの感情もありえます。それがありえる事実を認知できず、利己的な視野しか持っていない自分のほうが明らかに尊いと考える発想は、あまりにも愚鈍です。

 つまり、良心が弱い人々が犯罪を犯さず、良心が強い人々が犯罪を犯す状況は理論上、ありえます。そして、良心の不在は、利己的な視野狭窄を、良心の存在は、集団的な利害感覚を意味することが普通ですから、良心の弱さはある種の知性の低さを、良心の強さはある種の知性の高さを直接的に示唆しています。ですから、愚かだから犯罪を犯さないとか、賢いから犯罪を犯すということは、明らかにありえます。しかしこれは、利己心だけで生きている愚鈍な人々には理解しがたい論点なのです。



【むすびに】

 安全な立場から暴力的な犯罪を興味本位で煽るつもりはありません。被害者や家族らの肉体的または精神的な苦しみを過小評価するつもりもありません。

 しかし、不当な格差や理不尽な自己責任論が、多くの苦しみを生み、一部の犯罪の原因になっているのは事実です。

 よって、犯罪者をただ非難するなら、深い苦しみの中で行動を起こした人に対して、非道を繰り返すことにもなります。

 よって、犯罪者を題材に、社会の理不尽な自己責任論のあり方について、認識が少しでも整理されていくことを望みます。

 奴隷達が、故障して落ちこぼれる奴隷を笑い物にしていたのでは、社会の倫理的な不道徳性は改善されません。

 大切なのは、理不尽に不満を持つ人々が手をたずさえることであり、そのためには、精緻で堅牢な論理と思想を構築することが最も有効だと考えます。

 苦しみに対しては、憐れみがあるべきであり、それを逸脱するならば、それを人類の進歩だとは呼べません。

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[気になる点] 以下本文より引用 『しかし、行き過ぎた格差社会における行き過ぎた自己責任論に反撃する意味では、理不尽かつ不当に踏みにじられて苦しみと憎しみに染まった者が無差別殺人などを犯すことは、既得…
[一言] >> 自己紹介文?に「読んであげるととても喜びます。」とありますが、御自分に丁寧語使っちゃいけません。 >> ここは是非とも「読んでやると」でお願いします。 > 頭いいキャラじゃないけど性…
[良い点] すごいわ。 感情を廃したほぼ「理」だけの文章、それでいて読みづらさがないし、前後で読み戻る事もない。 技術面で感動した。 [一言] 合法違法と善悪は同義ではない、と言うべきか。 国際法すら…
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