03.星詠み一族のお屋敷へ
それからは何事もなく、クロード様との婚約は無事に結ばれた。そしてクロード様がお屋敷に来てくれた一週間後となった今日、クロード様は約束通りに私を迎えに来てくれた。
アシュバートン家の家紋があしらわれた馬車が現れるとお父様やお母様、そしてクレアや使用人たちがみんな出てきて見送ってくれた。
無表情の使用人たちが並ぶ中、フィリスは昨晩からずっと泣いていたせいで真っ赤になった目にさらに涙の膜を張ってしまっている。そんな彼女を見ているとつられて視界が滲んだ。そっと手を握ると、フィリスは涙声でお祝いの言葉をかけてくれる。
「お嬢様、どうかお幸せに。どんなに離れていてもフィリスはお嬢様のことをいつも思っていますからね」
「私もよ。フィリスもどうか幸せにね」
その様子を見守ってくれていたクロード様は眉尻を下げて、「あなたの大切なお嬢様を奪ってすみません」と言った。
「これからは私が責任もってアデルを幸せにするからご安心を」
「ええ、お嬢様を泣かせたら許しませんよ」
「肝に銘じておく」
クロード様は優しく、使用人がこんなことを言っても笑って返してくれる。私にはもったいないくらい素晴らしい人と運命を結んでくれた女神様にはいくら感謝のお祈りをしても足りないくらいだ。
いよいよ馬車に乗り込むときになって、お父様とお母様に挨拶をした。
「お父様、お母様、いままで育ててくださってありがとうございました」
最後こそ出来損ないと思われたくなくて、精一杯背筋を伸ばす。足先や指先にも注意を払って礼をとった。
するとクレアが走ってきた。ひしっと抱きついて頬擦りする姿がいじらしくて、思わず微笑みが零れる。
いつも私に甘えてくれる可愛い妹。これからたまにしか会えなくなるのが寂しくて、私もクレアを抱きしめ返した。
「お姉様、お元気で」
「ありがとう、クレア」
両親が私のことをどう言おうと、クレアは私を姉として慕ってくれた。だからどうか、クレアもこれから幸せな道を歩めますように。そう気持ちを込めて彼女の頬にキスをした。
「……カイン様と幸せになってね」
カイン様の名前を口にするとこんな時に限って、カイン様への想いがかすかに滲み出てくる。
この一週間、なぜかカイン様がウィンストン家を訪ねてくることが多かった。顔を合わせないようにしていたのに、お父様とお母様が夕食に招くものだからクレアとカイン様が仲睦まじくしている姿を見ることになって、ちっとも味のわからない料理を咀嚼してその場をやり過ごしていた。
私といた時よりも楽しそうに話すカイン様の表情が思い出される。
クロード様もいつかこんな私に嫌気が差してしまうのかもしれないと、そう考えるとクラリと眩暈がした。ぐらつきそうになる体をクロード様が後ろから抱き寄せて支えてくれる。
「アデル、もう行こう」
「はい」
クロード様に手を引かれて馬車に乗り込む。
馬車が動き出すと、幼少期から過ごしていた邸宅が遠く小さくなっているというのに、感傷に浸りもせず、心が軽くなってしまう自分がいた。そしてクロード様に名前を呼ばれて、私は窓から目を離した。
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馬車でアシュバートン邸に向かう道中、クロード様は『果てなき航路』を始めとしたたくさんの本の話をしてくれた。ただクロード様が一方的に話すのではなく、「アデルはどう思う?」とか「アデルだとどうする?」などと私のことを聞いてくれる。
クロード様が名前を呼んでくれるたびに自分の存在を受け入れてくれているような気がして、心の中の氷が溶かされていくような心地がした。
昔のクロード様もそうだった。
いつも私のことを気に掛けてくれて、よく名前を呼んでくれた。
そんなクロード様が作ってくれた居心地のいい空間に揺られているうちに大きな塀が見えてくる。その後ろにそびえ立つのは王城にも劣らず立派な作りの漆黒の城。あの建物こそがアシュバートン家の邸宅なのは、王都に滞在する貴族なら誰でも知っている。
いよいよクロード様の家族に会うのだと、その時が近づいて来たとわかると緊張してしまう。幾つもの不安が押し寄せて来て膝に視線を落としていると、クロード様の掌がそっと置かれた。
「アデル、こうやって君を連れて帰れて嬉しいよ」
見上げると星のように輝く金色の瞳が優しく細められている。そこに映る自分は、ひどく怯えた表情をしていた。
「ようこそ、アシュバートン家へ」
馬車は背の高い門を潜り抜けるとしばらく庭を走って邸宅の前に停まった。
幾人もの使用人たちが整然と並んでいる景色は圧巻で、由緒あるアシュバートン家の気迫に押されて怖気づてしまう。
するとクロード様が先に降りて、手を差し伸べてくれた。「みんなアデルが来てくれるのを待っていたんだよ」と言って。
その言葉を信じて、クロード様の手を取った。
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馬車を降りてすぐにクロード様のお父様とお母様、セルヴィッジ侯爵と候爵夫人が出迎えてくれた。二人とも美しい顔立ちをしていて、それに加えて気品と知性を兼ね揃えた雰囲気を纏っている。崇める対象のような二人の前に立つと緊張して足が震えそうになるけど、それを必死で抑えてカーテシーをした。
「アデル・ウィンストンです。クロード様をお支えして善き候爵夫人となるべく努めますので、どうかよろしくお願いします」
すると侯爵夫人が彫刻のように美しい顔を崩して抱きしめてきた。侯爵夫人は私よりも遥かに華奢で、近づくとよい香りがする。何が起こったのかわからず頭が混乱してしまう。
「ふふ、アデルちゃんったらかしこまらなくていいのよ。本当のお母さんだと思って気楽に話してちょうだい」
自分の娘のように接してくれるのが嬉しい気持ちと、美しい人に見つめられる緊張感で言葉が思うように出てくれず、こくこくと頷くことしかできない。そんな様子を見兼ねたのか、セルヴィッジ侯爵が苦笑して侯爵夫人を離してくれた。
「放してやりなさい。アデルちゃんが困っているだろうし、クロードが妬いてしまうよ」
一見すると厳格な人のように見えるけど、クロード様と同じで優しく温かな眼差しで見守ってくれる素敵なお方だ。
「セルヴィッジ侯爵、侯爵夫人、不束者ですがよろしくお願いします」
「あら、お義父様とお義母様って呼んでちょうだい。あなたはもうアシュバートン家の一員なんですから」
「……っはい、お義母様」
こんな私でも歓迎してくれる優しい人たちの温かい言葉に涙が出そうになる。
それから私は、片側の手をクロード様に握ってもらい、反対側の手をお義母様と繋いで、アシュバートン家のお屋敷の中に入った。
久しぶりに来たアシュバートン家のお屋敷は、大人になった今でもとても広くて大きくて、一人だと迷いそうだ。クロード様は「アデルはもう知っていると思うけど」と言いつつ、一つ一つの部屋を案内してくれて、そこで働く使用人たちに紹介してくれた。
全ての部屋を見終わる頃には陽が落ちて、薄紫色の空には温かい色の光りを灯す星が姿を見せ始める。
やがてどっぷりと宵闇が深まり、盛大な晩餐会が開かれた。
広く大きな食堂を横断するように長いテーブルの上には、私たち四人では食べきれないくらい豪勢なご馳走が次々と現れては並んでいく。
シャンデリアの光を受けて輝く銀器に盛りつけられているのは、香草や野菜を詰め込んでこんがりと焼きあげられた鳥の丸焼きや、色鮮やかな野菜とサーモンを配置した芸術作品のように美しいテリーヌ、コクが出るまで煮込まれたエビのクリームスープに、その他にも見たことがない異国の料理などもあって目が回りそうだ。
どれも美味しそうだけどさすがに自分の胃袋に全てを収められる自信がなかった。次々と現れる魅惑の料理たちに困惑していると、お義母様がふふと笑い声を漏らす。
「アデルちゃん、料理長がアデルちゃんの好きな食べ物が知りたいそうよ。クロードに聞いたらキッシュのことばかり話すものだからその他にも好きな食べ物があったら教えて欲しいと言っていたわ」
「母上、その話はもう止めてください」
クロード様がほんのりと顔を赤くして抗議すると、周りにいる使用人たちから生温かい視線を送られた。それがいたたまれなかったようで、クロード様はコホンと小さく咳ばらいをした。
「アデル、他に好きな食べ物はあるかい? 俺も知りたいな」
少し照れた表情で聞いてくれるクロード様に応えたくても、何も好きなものが思い浮かばない。クロード様が舞踏会で言ってくれるまで、自分がキッシュが好きだったことすら忘れていたくらいだ。
返答に困っていると、クロード様は私の気持ちを汲み取ってくれて、「これから一緒に見つけていこう」と言って微笑んでくれた。こんなに優しいクロード様の妻になるのが私で本当にいいのか、と申し訳なくなる。
それからの話題は、クロード様と会えなくなってからの私の話であったり、これから迎える私たちの結婚式の話になる。
クロード様からもお義父様からもお義母様からも、絶えず質問が飛んできて私は答えるのに必死だった。それでもこのひと時が楽しくて、時間が経つのも忘れて話をしていた。
こうやって言葉を交わしながら摂る食事はいつぶりだろうか。
ウィンストン家では食事の間でさえ、お父様もお母様もクレアに夢中で、私はひっそりと息を殺して食べ物を口に運ぶことしかできなかった。
この温かな食事の時間が、覚めてしまう夢ではありませんように、と心の中でそっと願った。
夕食が終わると私の専属メイドになるリリーとジャスミンに案内してもらって寝室へと向かった。
リリーは溌溂とした性格で絶えず話をしてくれるから沈黙しないのがありがたい。ジャスミンはリリーより年上でおっとりとしていて、私の名前を呼んでくれる優しい声を聞いていると緊張が和らいできた。
「アデル様、星詠みの時間が近づいてきましたので身支度しましょう」
「身支度?」
「はい、寒いので温かい格好をするように坊ちゃんから言づかっております」
それに、と付け加えてリリーは口元を歪めた。
「坊ちゃんはアデル様に着て欲しいドレスがあるそうですよ」
「クロード様が?」
「ええ、あんな爽やかな顔をしているのにほんっっっっとうに独占欲が強いですね」
「本当に、クロード様が用意してくださったの?」
「ええ、坊ちゃんがですよ」
目を瞬かせているうちにリリーに連れられて浴室に移動すると、バスタブの中には乳白色のお湯がたっぷりと張られていて、その上には色とりどりの花びらが浮かんでいる。
まるでお姫様が入るような幻想的な湯船につかっているうちに丹念に体を磨かれて、仕上げに柔らかな百合の花の香りがする香油をつけてもらった。
「アデル様の髪は本当に美しいですね」
「そんなことないわ。クレアの――妹の蜂蜜のように綺麗な金色の髪に並ぶとこんな茶色はくすんで見えるもの」
「いいえ、アデル様の髪は温かくて甘いミルクティー色です。見目の美しさだけではなくて心の美しさも表しているのです! 私だけがそう思ったんじゃないですよ? 坊ちゃんは昔からそう仰っていましたもの」
「クロード様がそのようなことを?」
「ええ、坊ちゃんがですよ」
何から何まで信じ難いことばかりで耳を疑ってしまうけど、リリーが嘘をついているようには見えない。本当にクロード様がそんなことを考えているのかと、想像すると耳まで熱くなってしまう。
どう返事をしたらいいのかわからず、ただ黙って両手でお湯を掬っては零し、心を鎮めた。
湯あみが終わるとジャスミンに手伝ってもらって、クロード様が用意してくれたらしい淡い檸檬色のドレスに袖を通す。
ドレスはパフスリーブで、肘から手首にかけて柔らかな生地がフレアスカートのように広がっている。まるで花のつぼみが開いているかのようなデザインが素敵で見入ってしまった。
「坊ちゃんの見立ては素晴らしいですね。アデル様の可憐な美しさが引き立てられていますもの。それではさらに坊ちゃんを満足させるためにも腕を振るいますわね」
ジャスミンは耳の上にある髪を緩く編み込んでハーフアップにしてくれた。編み込む際に紫紺の夜空のように美しい色の薄紗のリボンも交えており、リリーが用意してくれた鏡を覗き込むと、リボンに織り交ぜられた金糸が頭の動きに合わせて星のように煌めいている。
「ジャスミン、会心の出来ですわっ! 坊ちゃんだけに見せるなんて惜しいくらいです。奥様たちにも見せたいですけど、そんなことすると坊ちゃんに呪われてしまいますわね」
はしゃぐリリーをジャスミンが窘める。そんな彼女たちを見ていると思わず笑ってしまった。
「さあ、坊ちゃんに見せてあげてくださいな」
リリーに手伝ってもらって椅子から立ち上がる。ぐいぐいと手を引いて歩くリリーはとても楽しそうだ。
「もう、リリーったらそんなに引っ張ったらアデル様が転んでしまいますわ」
「ふふ、私なら大丈夫ですよ」
これからお世話になるのが彼女たちで本当に良かった。そんなことを考えつつ、彼女たちに連れられてクロード様の元に向かった。