02.差し伸べてくれた手
柔らかな光を瞼の裏に感じて目が覚めた。
寝台の薄布のカーテンがそっと開けられていて、ぼんやりとした人影が視界に映る。
まどろむ意識の中で優しく名前を呼んでくれるこの人影の正体はメイドのフィリスで、「本当はもっとお休みしていただきたかったんですけど、」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。
フィリスはいつも私のことを気に掛けてくれている。いまも昨日の舞踏会の後で疲れている私のことを心配してくれているみたい。
そんなフィリスの心遣いに、いままで何度も救われてきた。この家は、クレアが中心で動く世界だから。私のことなんて気に留める人はフィリスくらいだもの。お父様もお母様も、クレアに夢中で私の存在を忘れている時すらある。いまでは慣れたけど、幼い頃はそれがとても辛かった。
「アシュバートン卿がお見えになるので身支度をしておきましょうね」
「あ……」
「大切なお話をしたいと、昨夜のうちに先ぶれが来たんです。お嬢様もぜひ同席して欲しいと書いてあったそうですよ」
クロード様の家名を聞くと昨日の出来事が次々と蘇ってくる。
二人で見上げた星の瞬きや、クロード様の上着が纏う安心させてくれるような温かさ、そして、輝く瞳を甘くして伝えてくれた求婚の言葉が。
本当に約束通り来てくれるのが嬉しくて、言い表しようもないほど溢れてくる気持ちを落ち着かせるためにぎゅっと枕を抱きしめた。するとその様子を見ていたフィリスが顔を輝かせる。
「アシュバートン卿と、なにかいいことがあったんですね? フィリスはとっても嬉しいです!」
自分のことのように喜んでくれるフィリスの言葉に助けられて、そっと打ち明けてみた。
「昨日、クロード様が求婚してくださったの」
「まぁ、アシュバートン卿が求婚を! ああ、嬉しくて涙が出てしまいます。ここだけの話ですけど、フィリスはずっと昔からお嬢様とアシュバートン卿が結ばれたらいいのにと思っていたんです。アシュバートン卿ならお嬢様を任せられると認めていたんですよ」
そう言って抱きしめてくれるフィリスの温かさに触れると私も泣きそうになった。だれよりも私の幸せを願ってくれるフィリスだからこそ、この宝物のような思い出を共有したかった。心の中の柔らかい部分もフィリスになら見せられる。
だけどこれからは、クロード様ともそのような関係になれたらいいなと、淡い期待を抱いた。
身支度を終えるとフィリスが部屋に朝食を持って来てくれた。
ほかほかと立ち上る湯気は食欲をそそる香りを漂わせていて、誘われるままにスプーンですくって口に運ぶ。まったりとしたクリームスープは優しい味が口の中いっぱいに広がって、体の中を温めてくれた。
続いてキッシュを頂こうとフォークを斜めに入れたその時、バンッと大きな音を立てて扉が開き、驚いて肩が揺れた。その拍子にキッシュも跳ねたのを、フォークで押さえて事なきを得る。
「お、お嬢様。旦那様がお呼びです」
真っ蒼な顔をして現れたフィリスを見て嫌な予感がした。悪い話が待ち受けているのが、長年の勘で伝わってくる。それでも私はお父様のお話を聞くしかない。
「わかったわ。案内して」
フィリスは泣きそうな顔をしながら頷くと、お父様たちがいる居間へと案内してくれた。
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お父様とお母様はすでに長椅子に座っていて、二人で話していた。クレアの姿はなく、今日はカイン様と出かけるため身支度しているのだとフィリスから聞いていた。
私が部屋に入ると、お父様とお母様は話すのを止めて居住まいを正す。
「セルヴィッジ侯爵の令息アシュバートン卿が先ぶれを送ってきた。お前を同席して話がしたいと書いてあったが、なにか心当たりはあるか?」
「はい。昨夜、クロード様に求婚していただきました」
本当はフィリスにだけ教えたかった私の宝物。しかしクロード様が会いに来てくださるのなら、お父様たちにも伝えなければならない。
お父様たちはクロード様とのお話を伝えると飛び上がらんばかりに喜んだ。私のことでこんなにも喜んでくれる姿を見たのは久しぶりで、戸惑いとくすぐったい気持ちが入り混じる。
しかしそれも束の間のことだった。上機嫌のお父様が口ひげを撫でながら呟いた一言に心が冷えてしまった。
「アシュバートン家――セルヴィッジ侯爵の妻にするならクレアの方がいいだろう」
なにを言っているのか、すぐには理解できなかった。やがてその言葉の意味を理解できても心が追いつかず、息をするのさえ忘れてお父様の顔を見た。するとお母様は名案だと言わんばかりに胸の前に手を組み合わせて頷く。
「そうね。あの子の方が華があるし社交的だもの。アデルだといつか粗相しそうで気を揉んでしまうわ」
先ほどのくすぐったい気持ちは霧散して、絶望に突き落とされる。こんな時でも彼らの心の中に私の居場所がないということを思い知らされて、悲しいけれど泣いてはいけないと言い聞かせて膝の上にのせた拳に視線を集中させた。
お父様とお母様は、私の結婚を喜んでくれたわけではなかった。娘が侯爵家の妻になれるのが嬉しかっただけだ。それを確実なものにしたいから、出来損ないの私ではなくてクレアに交代させようとしている。
「い、やです」
自分でも驚くくらい無意識に、口から言葉が出てきた。お父様とお母様も目を大きく見開いて私を見ている。
これまで反抗しなかった私がこんなことを言うなんて予想すらしていなかったのかもしれない。
「クロード様は、私に求婚してくださったんです」
「それはクレアに婚約者がいるからだ。クレアと交代できると知ればクロード様も喜んでクレアを選ぶだろう」
否定できなかった。家族だけではなく社交界に出て誰に聞いて回っても、私とクレアならみんなクレアを選ぶに違いない。立っているだけで存在感があり、花のように笑う美しい妹だもの。それに私とは違ってとてもよく気がつくし、魔法を使える力と才能を持っている。
星詠みという特殊な能力を持つ者が当主を務めてきたアシュバートン家ならなおさら、魔法が使えるクレアを欲しがるかもしれない。
わかっていても、頷けなかった。クロード様が私にかけてくれた宝物のような言葉や思い出を手放したくなかったから。
俯く私の肩に、お母様がそっと手をのせる。
「クレアと交代したらまたカイン様の婚約者になれるのよ? あなた、カイン様のこと好いていたでしょう?」
お母様の言葉は氷の剣のように形を変えて心を抉った。
私がカイン様のことを好いていたのを知っていながら私に諦めるように説明したのに、今度はクロード様を諦めさせるためにその気持ちを利用しようとしている。
結婚は家がするものだと頭ではわかっていても、お母様にとって私の気持ちなんてただの道具にすぎないのだと思い知らされて泣きたくなった。
「わたしは、クロード様がいいんです」
もうなにも失いたくない。その一心で紡いだ言葉は震えていて頼りなかった。できそこないの私は何も望めないとわかっているけれど必死になって訴えた。すると、カツンと固い靴音が聞こえてくる。
「嬉しいことを言ってくれるね。私もアデルがいいんです。アデルじゃなきゃ嫌だと言った方がおわかりいただけるでしょうか?」
クロード様の声がして振り向くと、いつの間にかクロード様が部屋の中に入って来ていた。お父様とお母様も気づいていなかったようで、慌てて立ち上がる。
「アシュバートン卿! 久方ぶりですなぁ! あいにくクレアはいませんがどうぞこちらにおかけください」
「仰ってる意味がわかりません。私はアデルに会いに来たのですが、なぜクレア嬢のことを話すのです?」
クロード様は笑顔だけど、纏っている空気は凍てつくほど冷たかった。お父様はぱくぱくと口を開けたり閉じたりするだけで何も言えず、力なく笑って誤魔化している。
「私はアデルを妻に迎えたいと切に願ってここに来ました」
そんなお父様たちに見せつけるように、クロード様は私の隣に座って手を握ってくれる。温かく大きな掌が、「もう大丈夫だ」と言ってくれているようで安堵した。
「し、しかしクレアの方が器量も良くて魔法が使えます。アデルはお恥ずかしながら出来が良くないんです。候爵夫人にするならクレアを選ぶのがよいかと――」
お父様の言葉は何度も聞いて来たことだった。もう慣れていると思ったのに、クロード様に聞かれるのは悲しかった。そのことを聞いてクロード様もクレアを選んでしまったらどうしようと、そんな考えが頭に過ると、この部屋から逃げ出したくなる。
それでも、クロード様が反対側の手を背中に添えて、励ますように撫でてくれたのが心の支えになって思い留まれた。
お父様が話し終わると、背を撫でてくれていたクロード様の手が止まる。
「ティアニー伯爵がどう仰ろうと私の意思は変わりません。私は昨夜、星々に見守られながらアデルに誓った通り、アデルを迎えに来たのです。心変わりなどあり得ません。それにアデルにも承諾を貰っています。これ以上、私たちを引き裂くようなことは控えて頂きたい」
金色の瞳はお父様を射抜こうとしているかのように鋭さを孕む。形の整った眉が寄せられると、お父様は慌てふためいた。
「引き裂くだなんて、そんな……わかりました。後でクレアが良いと仰っても知りませんよ」
お父様はクロード様に気圧されて渋々と承諾した。
颯爽と現れてお父様を言い負かしたクロード様はまるで恋愛小説の中に出てくる王子様のようだったと、後にフィリスが涙ながらに絶賛していた。
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それから結婚式までの話を終えると私たちはクロード様を見送るために外に出た。
すると門の近くで見覚えのある黒髪の男性がクレアと一緒にいるのが見える。元婚約者の、カイン様だ。クレアと一緒に出かけるところなのだろう。
カイン様と目が合うと心臓が早鐘を打つ。というのも、カイン様とは婚約破棄になってから初めて顔を合わせることになるのだ。どんな顔をしたらいいのかわからなくて、足元の芝を見た。
すると目の前にすっと影が差して、見上げるとクロード様が私を庇うようにして立っている。
「ティアニー伯爵に折り入ってお願いがあるんです」
私の目の前に立ったクロード様のおかげでカイン様の姿が隠れた。ほっとしたのも束の間、クロード様はお父様に向き合って私の手を取る。
「花嫁修業でアデルをアシュバートン家に呼びたいと考えております。一緒に住む許可をいただけませんか?」
「た、確かに星詠みの花嫁になる者は婚前に花嫁修業を受けるとは聞いていますが……アデルはどうなんだ?」
お父様は聞いてくださっているけど、あまりにも唐突な提案に、私も答えに迷ってしまう。それでも、必要としてくれているクロード様に応えたくなった。それに、彼の家に居ればカイン様と鉢合わせすることもない。クロード様には申し訳ないことだけど、クレアに会いに来るカイン様と顔を合わせたくない私にとって、この提案は願ってもみない機会だった。
「私で、よければ……」
「嬉しい。アデルと一緒に住めるなんて夢のようだよ。来週には迎えに来るからね」
「ら、いしゅうですか?」
「本当は今すぐにアデルを連れて帰りたくてしかたがないんだよ?」
クロード様を利用しているのに喜んでもらえると罪悪感が募る。
顔を上げると、星の瞬きのように煌めく金色の瞳を細めて笑うクロード様とは対照的に、隣に居るお父様は苦笑していた。
クロード様はお父様たちに挨拶を済ませると、侍従を呼びつける。侍従から鞄を受け取って本を取り出した。
それは昨夜クロード様が話していた、サイラス・オールストンの冒険小説『航路の果て』で、表紙には大海原を航海する船が描かれている。四隅には金色の箔押しで精巧な装飾が描かれており、芸術品のように美しい一冊だ。
「アデル、約束の本だよ」
「ありがとうございます」
手渡された本を両手で受け取った。ずしりと感じる重みすら愛おしく感じる。この本はクロード様が私との約束を覚えてくださっていた証だから、手にすると震えそうになるほど嬉しくなった。
「来週迎えに来た時に、馬車の中で本の感想を聞かせてね」
「もちろんです」
「楽しみにしているよ」
クロード様はまた次の約束をしてくださって、馬車に乗り込んだ。
馬車から身を乗り出して手を振り続けてくれているクロード様はあの頃と変わりなくて笑ってしまう。彼は今や、王国中の令嬢たちが一度は憧れる星詠みの貴公子なのに。
そんな彼のおかげで私も、あの頃と同じように彼と会う楽しみができた。その気持ちを宝箱の中にしまうように、そっと胸に手を当てて見送った。