01.また会う約束
外は肌寒く、クロード様は上着を脱いでかけてくれた。温かくて爽やかな香水の香りがする上着は、私が羽織るととても大きかった。
少しでも温かくなるようにと、前を合わせてくれる彼の手は大きくて、指は長くて綺麗で見惚れてしまう。それと同時に、彼が、そして私が大人になってしまったのを思い知らされた。
クロード様は一歩下がって、私の頭からつま先までをじいっと見つめた。
「懐かしいな。昔は父上の上着に一緒にくるまって星を見ていたよね」
「よく覚えていますのね」
ずいぶんと昔の事なのに覚えてくれているなんて意外だ。それと同時に、些細なことなのに覚えてくれていたのが嬉しい。
周りの人は、クレアのことはよく覚えているけど、私のことはあまり覚えていないことが多くて。
地味だし印象に残らない人間なのはわかっているけど、それでも忘れられてしまうのは悲しい。ズキズキと、胸が痛みを思い出してしまう。
そっと胸を押さえて痛みに耐えた。
すると欄干に背を預けていたクロード様がすぐに目の前まで来てくれて、気遣わしげに背中を撫でてくれる。彼の優しさに触れて泣きそうになるのを堪えた。
「大丈夫?」
「ええ、人に酔った疲れが今出たみたいです」
そう言ったのに、クロード様の手は背に添えたまま。そのまま隣に並んで、一緒に星空を見上げた。
漆黒の夜空に散りばめられた白い光、赤い光、青い光。それぞれの星に名前や特徴があることを、幼い頃のクロード様が教えてくれたのを今でも覚えている。
クロード様はとても優しくて、教えるのが上手な先生だった。
「アデルとは一緒に走り回ったり、本を読んだりしたよね。今はどんな本を読んでる?」
「サイラス・オールストンの冒険小説ですわ」
「本当に?! 俺もこの前読んだよ。新作の『航路の果て』!」
星のような金色の瞳を星以上に輝かせて話す彼クロード様は子どもの頃のクロード様と変わらなくて、思わずクスリと笑ってしまった。それにつられてクロード様も照れくさそうに微笑む。
昔もこうやってクロード様と本の話をしていたのを思い出して、懐かしい気持ちになる。あの頃に戻りたいなんて、叶えられない願いを抱いてしまった。
クロード様が訪ねて来て、二人で一緒に次の日の約束をしていたあの優しい日々に戻りたい。
「羨ましいですわ。売り切れで買えませんでしたの」
「残念。それならアデルが読むまでこのお話はお預けということだね」
まるでまた会うかのような口ぶりだ。クロード様と私とではそんな機会なんてないし、きっと会話を円滑にするための社交辞令だと思うけど、そう言ってくれるのは嬉しかった。
「アデルの家に行くときに持って行くから読み終わったらまた話そうよ」
「……へ? 私の家に?」
「うん、明日行くからね」
「ウィンストン家に?」
「ははは、そうだよ。アデル・ウィンストンの家さ」
彼の言うことを理解するのに時間を要した。やっと頭の中で理解した時にはクロード様に手を取られていて、手の甲には彼の唇の熱が伝わる。
ようやく動き出した頭は、また混乱して止まってしまった。クロード様の伏せられた睫毛を見つめることしかできないまま、じっと、温かく柔らかな感覚を受けとめた。
するとクロード様は手を握ったまま、もうすぐで侯爵位を継ぐのだと教えてくれた。離れない手に困惑しつつ祝福の言葉を贈ると、だからね、と彼は付け加える。
「今宵は君を迎えにきたんだ。アデル、俺と結婚してください」
「……へ?」
「誰かがアデルを攫う前にどうしても伝えたかった。アデルに、そばにいて欲しいって。もちろん、一生ね」
夢でも見ているのかもしれない。
都合のいい幻聴を聞いているのかもしれない。
それでもカイン様に捨てられた私にとって、この幻想のような言葉に縋りたくてしかたがなかった。
クレアではなくて私を見て欲しい。必要として欲しい、といままで蓋をしていた思いが一気に流れ込んでくる。
「わ、たしで、よければ」
すでに婚約破棄された私を必要としてくれる人なんていない。ましてや、クロード様のようなステキなお方に出会えることはそうそうない。
反射的に答えてしまって、余裕のない態度が全面的に出てしまって恥ずかしくなった。彼の顔を見ることができなくて、ピカピカと光る靴の先に視線を逃す。
そうやって俯いていると、クロード様は優しい声で私の名前を呼ぶ。
そして、ありがとうと、言ってくれた。
見上げればとびきりの贈り物をされた少年のように無邪気に微笑んでいて、こんな私に向けてくれるのには恐れ多い表情だった。
「あ、あの。こんな地味な妻でもよければ」
慌ててそう付け加えると、やんわりと両手を包まれる。
「なにが地味だって? 俺はアデルが眩しくて見えないくらいなのに」
「茶化さないでください」
「本当だよ」
クロード様はしごく真面目な顔で言ってくれるから、どうしても顔が熱くなってしまう。私は、そんなことを言ってもらえるような人間ではないのに。
それなのにクロード様は満面の笑みを浮かべて、パーティー会場からお屋敷まで送ってくれる間中、「大切にする」と何度も言ってくれた。
朝になったら覚めてしまう夢なのかもしれない。そんな不安が押し寄せてきて、そっと頬をつねってみるけど、ピリリとした痛みが宿って現実だと教えてくれる。
お屋敷に着くと、クロード様は御者に急かされるまでずっと手を握ってくれた。
「明日、ここに来るときに本を持って来るから楽しみにしてね」
婚約の打診で来てくれるというのに、まるで遊びに来る約束をしているかのように弾んだ声だ。幼い頃に彼と次の日の約束をした時のことを思い出すと、柔らかな気持ちが心を包んでくれる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ、アデル」
クロード様は私がお屋敷の中に入るまで見送ってくれた。
星のように輝く瞳を持つその人は、闇夜に閉じ込められたかのように真っ暗だった私の心の中に光を灯した。