第1話 不謹慎極まりないスローガン『働かざるして喰っていこう』を 掲げ、私の旅の始まりです。(5)
「タロ。お前とジョイが恋人の関係になると聞いているぞ」
赤く緩んだ顔面をヘラヘラと笑いで崩壊させた黒豚さんが、グラスにレッドホースを注ぎながら呟いた。
「???」
ぼんやりとした意識の中で酔いに沈んだ意味不明な笑いが込み上げてくる。恋人の関係?何の事やら及び何ひとつ返す言葉が見当たらない。やがて酔いは少しずつ少しずつ醒めていく。私の眼は当然ジョイに向けられるのです。
「タロさん。あんだ頭のおかしい酔っ払いだってなぁ。Kさんから聞いてるどぉ・・・ひどいんだって。あんたの酒には気い付けろってなぁ」
笑顔を淡く紅潮させてはにかむジョイ。私に苛立ちが湧き上がる。
確かに私とKさんは酒を交えて何度も衝突していました。Kさんの奥さんの実家。まだ私がそこで居候を決め込んでる時期でした。私の怒りの原因は明白です。とても子供じみた理由。振り返れば恥ずかしさすら覚えます。奥さんの実家で、まるで王様のように振る舞う上司のKさん。Kさんにひれ伏す奥さんのご両親及び兄弟及び姉妹たち。その構図が見るに堪えない在り様でした。私は酒に酔う度ごとにKさんを激しく詰るのです。それは記憶に無いほどの下らない理由をでっち上げて詰るのです。思い付きで只々絡む質の悪い酒乱同様に・・・
(てめえは王様か何かかっ!なにを偉そうに振る舞う!見てみろこの家族たちをぉ!まるで下僕じゃねえか!顔を札で引っ叩くような真似は止めやがれ!)
言いたい事はそれだけでした。どうゆう訳だか言えませんでした。何故本音をKさんにぶつける事が出来なかったのか!?その下らない怒りの為に見知らぬ異国で後々放浪する羽目となるのです。
雨はすっかり上がっていました。シンと静まる夜の屋外から鳥の羽ばたきが聞こえました。色鮮やかな原色に覆われた名も知らぬ鳥たちが、マンゴーの木々から飛び立ったようです。
「俺たちの大事なジョイの為だタロ!お前が酒で暴れるかどうか!?今夜そいつを確かめに来たのよ」大人しめだった狐目さん。突然声を張り上げた。
それはある種の通過儀礼でした。
貧困に喘ぐ地域。所謂発展途上の地域 。それは、私の上から目線の印象ではありません。いわば底辺から見上げた彼等への想いです。何故なら追々私自身、彼らの中に溶け込む暮らしに何ひとつ抵抗を覚えませんでした。その成れの果てがパサイという地でホームレスの経験をする訳です。決して上から目線ではありません。
そんなこんなで、
スラムという貧困に喘ぐ地域ではドラッグと酒こそが諸悪の根源。そこでの「酒」は我が身を滅ぼすだけで無く、その周りの愛すべき人達をも簡単に滅ぼしてしまう。それらは歯止めなくその地に浸透し歯止めなく彼らを苦しめていました。彼等の周りでは幾世代も続いてきた最も解決すべき初段階の課題だったようです。
そうゆう意味での私に対する通過儀礼でした。
目覚めると朝でした。私はその時、人生初の「記憶が途切れた」を体験。
南九州で生まれ育った私。酒はそこそこ鍛えられて来たはずが・・・
微かな記憶をたどれば覚えている場面がひとつ。
それは、酒宴もやがて「たけなわ」を迎えようとしている最中、徐に立ち上がる私。そして振ら付きの中腰で来客を睨み付けてる。
その時私の目に付いたのは・・・
黒豚さんがクッション変わりに腰に添えたわたくし愛用の新品毛布。その毛布を黒豚さんから激しく引っ手繰る私。ドスンと転がる黒豚さん。タイル張りの床に頭を打ち付け唸り声を上げている。
「これは俺んだぁ~!バカぁぁ!!!返せエエェ~!」と日本語丸出しで叫んだ私の記憶。
それは所謂世間で言うところの・・・「酒乱」?
その朝、屋外は呆れ返る程の晴天。
マンゴーの巨木(実はマンゴー巨木も有りなのです。私のアパートの周辺は4メートル程の巨木が群生)に色鮮やかな野鳥が群がっていました。
「インコ・・・?」
私は潰れそうな中国製の椅子に深々と腰掛けて、痴呆者の様につぶやくのが精一杯。
フッと部屋の中を見渡すと・・・
部屋の隅の薄影の一角。壁越しに、ひと塊の人の姿を捉えました。私は老人並のノロい動きで、その塊に近ずきます。
果たして・・・塊はジョイでした。まるで、北斗七星のような形態で身体を折り曲げ、こちらに背を向け壁に張り付くように寝入っています。
わずかの後、目覚めたジョイ。
「みんなはどうした?」枯れ果てたガラガラ声でジョイに問いかける。
「馬鹿ァ。このう・・・」
「帰ったか」
「呆れて帰ったわァ」
「・・・」
「散々酔っぱらってっなんだァ、おめェ~!」
「何を怒ってる?」
「台無しだァ。すべて・・・」
・・・確かにそうです。間違いなく私はジョイに言いました。
この部屋の日用品買い出しの日。おおよそ一週間前でした。目抜き通りの商店街。ふたりで大きな買い物袋を両脇に抱えながら・・・
「まるで新婚夫婦みたいだね」と。
ジョイは新婚夫婦と言う日本語が理解出来ず、私に何度も問い正してきました。私はジョイに理解して貰おうと熱心に新婚夫婦について身振り手振りで説明。お互いの言葉の縺れが、やがてヤンワリ解け出した頃。異様な空気が互いの間に流れ出したその時。私はその空気を慌てて振り払い軌道修正を図ったはず。
それが何故こんな事に・・・今だに解せない展開なのです。
「こんな事ではママが反対するっぺ。それでいいのかァ?おめェ~!」
ジョイは私を口汚く罵りながら、甲斐甲斐しく朝一番の、身の回りの世話を始めました。シャワーの準備。朝食の準備。そして、今からネットカフェ勤務に赴く為の、二人の種々雑多な準備。口汚さとは裏腹な驚くほど繊細な彼女の心使い。
そして手際の良さ・・・
私は中国製のイスでグッタリしながら、それら一連の動きを只々(ただただ)ボンヤリ眺めていました。
彼女は3日後の夜半の刻。大小様々な色とりどりの手提げ袋を抱え、私の部屋に転がり込んできました。