カメラは二つの紅を映す
くるり、ひらり。
紅が舞い落ちる。
赤子の手のような紅葉が舞い落ちていく。
空気の抵抗を受け、くるくる、ひらひらと身を躍らせながら地面へと降りてゆく。先に木から落ちた仲間へ合流するために。
ぴちゃり。
しかし仲間の乾いた紅ではなく、ぬるりと湿ったものが地面を占拠していた。それは自身と同じ鮮やかな色の液体で、紅の葉はその中へ沈む。
「綺麗。君の紅の上に降り積もる、秋の紅。ふふ、君の名前と同じ『紅葉』だね」
うっとりと熱を孕ませ、女の声が響く。姿は見えず、声だけだった。
ごぶっ。
かけられた言葉への答えの代わりに、紅葉の口から液体がこぼれた。腹にはナイフが突き立てられ、そこから急速に液体が外へ流出していた。投げ出された手足は力なく血の海に沈んでいる。彼女の上には紅の葉が、飾り立てるように散らばっていた。
この惨状を眺める僕は、染め上げる紅をどうしようもなく美しく感じた。
「……っていう冒頭、衝撃的で素敵じゃない?」
どこまでも突き抜ける秋空。透き通る青の下で、緑の色彩の抜けた葉が紅く燃えている。
校舎の裏手に位置する所に植えられた紅葉の木。その根元に僕と楓は立っていた。
楓の手には彼女が書いた脚本が広げられている。僕の手の中にも、映画研究部員の数だけ印刷された一冊があった。
僕は脚本に目を通し、たっぷりと間を開けてから声を絞り出した。
「……そうかな」
確かに映像美ではあるかもしれない。脚本に書かれたことを忠実に再現出来れば、美しい映像が撮れるだろう。撮る側の人間である僕は、その美しさにとても心惹かれる。
だけど僕は彼女の意見に全面的に賛成出来ず、口から出たのは我ながら苦い声だ。
僕の斜め前に立っている楓は、僕たちが所属する映研部の部長兼、脚本家だ。
今回の彼女の脚本は学校を舞台にしたミステリー。それもそのはず。僕ら学生は製作費なんてかけられないから、舞台は近隣か校内、出演者は部員自身だ。ちなみに僕はカメラ担当なので出演しない。
僕の目と鼻の先には、カメラが三脚の上で鎮座している。代々受け継がれ、使い古されたカメラの現在の相棒は僕だ。
「そうよ! 足りなかったのは冒頭のインパクトだったのよ。最初に殺害された光景で始まる。スクリーンにすごく映えると思うの。横たわる美少女。美少女の上に降り積もる、真っ赤な紅葉。鮮血の紅」
脚本を小脇に挟みこみ、顔の前で両手を合わせてうっとりと楓が言う。
僕たちは文化祭に向けて、順調に映画を撮影してきた。素人が作る推理物としてはなかなかいい出来だと思う。
ヒロインとヒーローとのごく普通の日常パートで二人の関係と、二人に関わってヒロインに殺意を抱く人間模様を順を追って描いていく。中盤でヒロインが殺され、ヒーローが犯人を推理しながら殺さざるを得なかった悲しい理由に迫るのだ。
既にクライマックスとラストの撮影も終わって、編集の段階にいる。
でも楓は何かが足りないと、ずっと言っていた。それが見つかったんだと、急遽呼び出されて今こうしているわけなんだけど。
「冒頭に殺害シーンを入れ込むだけ。そんなに難しいことじゃないわ」
後から撮影したシーンを入れ込むのは簡単だ。だけど僕が渋っているのはそんなことじゃない。
その殺害シーンが問題なんじゃないか。
「最初にヒロインが殺されている。そこから始まる、ヒロインたちのごく普通の日常。どうしてヒロインが殺されたのか、きっとドキドキしながら進んでいくわ」
僕の懸念を他所に、楓の声は弾んでいた。
ああ、やっぱり楓は分かっていない。僕の心は反対に沈んだ。
「ね、素敵でしょ?……ほら」
楓が目の前で合わせていた指を離し、木の枝へ手を伸ばした。紅葉をつまんで引っ張ると、ぷつんと葉が音を立てて枝から離れる。小さな衝撃にがさりと木が揺れた。
楓の細い指が、紅の葉を空中で放す。揺れで、木からも葉が数枚剥がれ落ちた。
ひらり、くるり……ぴちゃり。
「こんなに美しい画が撮れた」
紅の葉が、僕たちの足元へ転がるモノの上へ降り立つ。
脚本と同じ姿を晒す、紅葉の体の上に。
僕の目には脚立で固定しているカメラのファインダーを通して、二つの紅が写されていた……。
「いくら、いい画のためだからって……」
僕は言葉を区切ってカメラのファインダーから顔を離し、斜め下を凝視した。そこには紅葉が横たわっている。降り積もる紅葉の葉と、人間の紅葉が。
「こんなことまでして」
笛を吹き損ねたみたいに細く長く吐き出した声は、小さくビブラートがかかっていた。その密やかな震えに、僕の恐れが現れているみたいだ。
「どうってことないじゃない、これくらい」
楓には恐れなんてないみたいだった。鼻歌でも飛び出しそうな様子で付け加える。
「あなたが黙っていれば済むことよ」
あっけらかんとしたその一言で、我慢していた感情が一気に堰を切る。
「隠しきれるわけないじゃないか!」
堪えきれず爆発した僕は、強い言葉と一緒に右手を振り下ろした。
信じられない。楓は本当にそう思っているのか?
「大丈夫よ。他の皆が来るまでにまだ時間があるわ。その間に片付けてしまえばいいの」
「これだけのことをして、片付けてしまえると?」
一気にぶちまけられた大量の液体を、地面は吸いきれず赤い水溜まりを作っている。水溜まりに浸かる紅葉の体。彼女の制服は液体を吸って重たそうに貼りついていた。
こんなの、どう見たって隠しきれない。
「私一人じゃ無理ね」
「僕に共犯者になれってこと?」
僕は呆然と口の中で事実を転がした。この映像を撮るにはカメラマンが必要だということ以外に、僕が呼ばれた大きな理由はそれか。
映像研究部の部員はそう多くない。
部長で脚本、監督と出演者もこなす楓、カメラマンと編集の僕、ビジュアルがいいという理由でヒロイン役をする紅葉、出演者兼、手先の器用さから美術担当の実、顧問で時に出演者にもなってくれる矢萩先生、この五人で成り立っている。
楓の映画にかける情熱は本物で、僕たちはいつも彼女に振り回されている。撮影のことになると、楓は常識だとかが抜けてしまうのだ。
「愁」
楓が僕の名を呼ぶ。
楽しそうに、決然と、酔ったように、厳かに、優しそうに、無慈悲に、歌うように。
「どちらにしろ、やってしまったことはなかったことに出来ないのよ?」
楓の告げたどうしようもない事実が、静かに僕の耳朶を打った。まだ熱を内包した日差しを、冷えた風が横切る。また、はらはらと紅葉が舞った。
その時。
「……ねぇ……」
下の方から微かな声が響いて、僕と楓は動きを止めた。くぐもり、湿った声だ。
それは聞きなれた声であるのに、奥底から湧き上がってくるような低いものだった。はっとなった僕と楓は、二人同時に勢いよく視線を下ろす。
そこには変わらずに横たわっている、紅葉がいる。地面に広がった長い黒髪、白い顔に形のいい紅い唇は半開きになっていて、中から零れ落ちた液体が垂れ、頬を染めていた。
長く濃いまつ毛に縁どられたまぶたがふるりと震え、閉じられていた瞳がゆっくりと開く。現れた黒い瞳孔が僕たちに向けられた。
紅葉の白目よりも多くの面積を占める虹彩が、楓の方へ動き、次に僕へ固定された。ひたと目が合って、僕は動けなくなる。
「……ねぇ……いつまでこうしてればいい……の?」
問いに答えられず、僕は凍り付いた。答えあぐねて、僕はすがりつくように楓を見る。
しかし肝心の楓はゆるく微笑んだまま、ピクリとも表情を変えなかった。
「ねえ……早く答えてよ」
紅葉の紅にまみれた手が、ゆっくりと僕の方に伸びてくる。
ざりっ。
無意識に後ろに下がっていたらしい、僕の足が土を削った。
「って、ちょっとっ! もう撮れたよね! 動いていいよね? ってか話長いよ!」
紅葉が僕の返事を待たず、がばっと勢いよく起き上がった。
お腹に刺さっていたナイフがぽろりと落ちる。地面に落ちて転がったナイフの、押されて引っ込んでいたダミーの刃がひょこんと戻った。
遅れて、べちゃっと血糊が入っていた袋も落っこちる。
「うぇえええ。不味いぃぃ。いくら食べても安心な血糊だからって、ずっと口の中に含んでるの気持ち悪いんだからね! だからって死体が飲み込んだらおかしいし!」
そう。この血糊は食べても安心な、片栗粉と食紅、ほんの少しほうれん草の絞り汁で出来ている。美術担当の実の力作だ。ほうれん草の緑色がいい色合いを作ってくれるんだと、実がほくほく顔で言っていた。
それにしても飲み込むの我慢してたんだ。律儀だなぁ。
「愁! いい画を撮るためって言うから、全身血糊でべったりにも我慢して死体役やってんのに、何をごにょごにょごにょごにょ渋ってんのよ。話が長いから乾いてきちゃったじゃない! ごわごわよ!」
「ええ。僕が悪いの?」
僕は楓に言われた通りに撮影しただけで。
文句は楓に言ってほしい。
「だって楓の言う通りでしょ! もうやっちゃったんだから、早く撮って、先生が来るまでに片付けちゃえばいいじゃない!」
「無理だよ! 血糊の量が多すぎ! 木にも飛び散っちゃってるし」
証拠隠滅するには、現場の惨状がひどすぎる。だから渋ってたんだよ、僕は。
「もう遅いみたいよ?」
楓が僕の後ろを指差した。僕と紅葉が、恐る恐る楓の指先を視線で辿る。
振り向いた先にいたのは、三十代後半の男性教師。細身だけど、肩幅の広い体育教師兼、映像研究部顧問の矢萩先生は、木の下へ広がる惨状に棒立ちになった。その後ろには実が目を丸くしている。
「な、な、な……」
先生の体がふるふると震える。
「うわぁ、今回はまた、派手にやったなぁ」
実が呑気にそう呟く間に、矢萩先生の目がゆっくりと血糊まみれの紅葉、それから赤黒く変色した土へ、そして僕と楓へと移った。実が心得たように両手で自分の耳を塞ぐ。
すううぅぅ、という、周りの空気が先生に吸われる音のみが、僕たちに落ちている奇妙な静けさを破った。
その音もしなくなってから、一拍置いて。
「なんじゃこりゃああああああっ!」
先生の迫力ある絶叫が、びりびりと僕たちの鼓膜を震わせた。
「ぎゃあああああっ、すみません、すみません、すみません!」
僕は脊髄反射で、ひたすら先生に頭を下げる。しかし楓はどこ吹く風、全く悪びれる様子もない。
こういう時に謝るのはいつも僕。だから嫌だったんだよ。
「お前ら、撮影はいいけど物を壊すな汚すなっつってんだろ!」
「はいはい。ちり取りと箒ねぇー」
そんな僕たちの横をすり抜け、ひょうひょうと掃除道具を取りに行く実。
「先生、ごめんなさい。すぐ片付けます。ちょっと楓。あんたこそ謝んなさいよ!」
血糊まみれのまま、怒鳴る紅葉。
どうでもいいけど、紅葉が動く度にぽたぽたと血糊が落ちて余計に汚れてる。
「謝ったら、テイク2撮っていい?」
にこにこと脚本を指さす楓。彼女は本当にぶれない。
「「「あほかぁぁああああああぁっ!!」」」
実以外の、僕たちの全力ツッコミが秋空へ拡散していった。