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行く辺の無い二人、或いは破滅の後に生きる事

作者: 薫楓

いつか読んだ本/夢について


いつだったか、本で読んだことがある。古い本だ。

まだ、本が書かれていた時代について興味を持っていた読んだのだ。

それはとても印象的な言葉だった。

「人間は夢の中では生きられない。けれど、夢が無ければ生きていく事は虚しい」

夢とは一体何なのだろうか。私には解りかねる概念だった。

それはとても甘美で儚げな響きを持って私に刺さった。

夢。私達は眠りにさえも夢を見ない。

そもそもが、現実と夢とを違える境界線などとっくに失われてしまった。

そして本の中に書かれた夢という事場の意味する所は私の認識するそれとは違うのだろう。

なぜならば、私達は夢など見なくても満ち足りた生活を送る事が出来るからだ。

生きていくことさえ難しくなるなんて。

私には想像も、つかない。


朝焼け/ルインについて


朝焼けが、私の横たわるルイン(過去、人々はベッドに横たわって眠りに着いたというが今ではそんなものは存在しない。

円柱の中に眠る。個人的な宇宙のようなものだ。あるいは子宮。その中で眠りは訪れ、そして失われる。間は無い。そのような眠りを享受する為の空間の事だ)

を温める。眩しい、という事は無い。窓に収められたガラスは光を吸収する。過度も不足も無い程度に。

私はチューブの中で目を覚まし、そこから抜け出すという事はある意味で新生児が世に生まれ出でるという事に等しい。

一体いつ振りだろうか。目を覚ましたのは。

カレンダーも時計も無い。時間はただ区切られる事無く流れる。一日が繰り返される。そのような世界で私は目を覚ました。

時間は生活を規定した。つまり、日が昇り沈む。それに合わせて切り取られ、そして日々が構築されていったのだろう。

私には理解出来ない遠い過去、人々は一日一日を生きていたという事だ。

一日の長さが判らない。判る事に意味があるのならば、それを望むのだが。


アマンダ/食事について


ルインから抜け出て、床に足を付ける。そのまま身を預け、あたりを見回した。

眠る前と変わらない景色が其処にあった。アマンダのルインは変わらず私の横に位置していた。

外からは中の様子は伺い知れないが、彼女は安らかな寝顔で其処に横たわっているのだろう。

無機質な空間。私とアマンダのルインが並んでいる。

部屋の中には他に照明とテーブル、そして2つの椅子と冷蔵庫だけがあった。

それ以外は何も無い。

私は空腹に近い感覚を覚え、ルインの中に戻った。栄養はチューブを通して直接栄養として与えられる。

眠りについている時はそれで充分なのだが。

たまに目を覚ますと、酷い空腹を覚える。全く非効率的な感覚だと、思う。

それでも私は仕方なく、部屋の中に備え付けられた冷凍庫の中から幾つかのパッケージを選び、再びルインの外に出た。

ルインがある部屋の外には簡易的なキッチンがある。そこで、暖めてそれらの食品を胃に収めるのだ。

私はそれらを咀嚼する。飲み込んだ後喉を通り過ぎ、胃に落ちる感覚は好きだった。匂いや味やそんなものが好きだった。

けれど、私達は目が覚めた時に摂取する意外それらを感じる事は無い。

ルインの中で眠る限り、私の生を維持する為の栄養は直接私の血管の中に栄養として与えられるからだ。


言葉/古い世界について


私の思考は言葉を元にして成り立っている。感情や、感覚を表す言葉によって自身の思考を自覚する。

けれどその言葉達は他者へと向けられるものではない。皆、私の中で生まれそして役割を終えて消えていくような類のものだ。

では、私は一体その言葉達をいつ身に付けたのだろうか。最早記憶に無いほど遠い過去のことだ。

それについて考えるとき、私は他者へと向けられる言葉のことを考える。

私は誰かに倣って言葉を覚えたのだろう。ならばそこには他者に向けられる言葉があったはずだ。

そして言葉は誰かに何かを伝える為に生まれたのだという事について思う。

私はそれを私の為に使っているに過ぎない。

古い世界では言葉は一体どのような意味を持っていたのだろうか。

私にはわからない問題であるが、けれど興味深い問題でもある。

つまり、私達は今自分の世界をルインの中に構築し、そしてその中で事足りるような狭量の中で生きている。

アマンダは私の側に存在するけれど、私の世界からは遠い、彼女の世界の中で生きている。

私はアマンダと交わした言葉の事を思い出そうと試みるが、すぐにそれは無為だと気づく。

私は何故彼女の名前を知っているかについて考えて、すぐにそれは無為だと気づく。

彼女の名前が本当にアマンダであるのかさえ疑わしい。私の世界の中で便宜的に隣のルインに眠る人間を意味づけ、そして名づけただけなのかもしれない。

そもそもが関係性など現実的な意味ではありもしない。

そんな世界の中で言葉は一体どれだけの意味を持つのだろうか。

古い世界は一体どんな成り立ちをし、その中で人々はどんな生活を送っていたのだろうか。

少なくとも、私の知る世界とは異なるのだろう。幾つもの意思と、エゴが溶け合った世界。

私はそれについて考えたとき息苦しさを覚える。

他人のエゴなど知りたくも無い。そしてそんなものを私は知らない。


エゴイズム/終末の景色について


エゴイズムについて考えるとき、私は自身を省みざるを得ない。

ルインの外にある世界とルインの内側にある世界との関連性について言及するのであれば

両方を繋ぐのはただ私の意志だけであるのだから。

自身のエゴイズム、自我を他人に押し付けることなく平和に、安らかに過ごせる世界はどちら側に存在するのだろうか?

馬鹿馬鹿しいことだが、それは私達が古い世界を捨てた命題でもある。

個人が、個人として抑圧されること無く生きられる世界。

そこには優しさの押し付けも存在しない。

そこにあるのは個人の中から出でて、そして個人に帰結する環のような世界なのだから。

頭の奥に、最早それがどんな意味を持つのかすらわからない景色が焼きついている。

ルインの外に幾人もの人が流れ込んでくる。

空いているルインを求め、人が流れ込んでくる。

私は幸いに一つにもぐりこむことが出来た。

赤ん坊を抱く女を押しのけて。腰の曲がった老人を踏み台にして。

未来のある若者を振り払って私は私の為の穏やかな世界を手に入れたのだった。


断片/欠落した記憶について


少しの間、息を止めて。或いは我慢した後に瞬きをした後のような感覚。

一瞬前の記憶が失われてしまう。

一瞬前の記憶なのか、それとももう遠い記憶なのか。

何れにせよ私の記憶は多くの欠落したピースを継ぎ接ぎしたように曖昧だ。

断片が、重なって線になったとしても、その線上に存在しえない記憶の持つ意味はあるのだろうか。

歪曲され、望むべくある記憶。美化された記憶のようなもの。

そんなものを幾つか抱え、白紙を埋める作業に埋没する。

その結果。

私自身のアイデンティティーの欠落すら、その理由は明白であるように思える。

私自身のアイデンティティーなど此処に存在する意味はありはしない。

未来を紡ぐ時間の糸、その過去と未来とを環にして繋げた。

私はその両端を繋いだまま途方に暮れているのか、それとも穏やかに微笑んでいるのか。

わからない。


停滞/嘘吐きの吐いた言葉について


古い世界と比べたとき、この世界は停滞したものだと言えるだろう。そう新しい世界などというような素晴らしいものではない。

人は人としてあるべき姿を変えることでその停滞した世界を素晴らしいものに変えようと努力をしてきた。

私もまた、そのうちの一人だった。私のした事といえば、せっせと空っぽのルインの中に自身の世界を作り上げていたこと位だが。

アマンダ・・・私が彼女の本当の名前を知らないとしても、或いはそれをただ忘れてしまっているだけだとしても、隣のルインに眠る女も

また同じように自身の世界をルインの中に作り上げている。

新しい世界は、つまり自分自身の為に用意される世界なのだ。

他の誰にでもない、自分自身の為の世界。他人のエゴを排除した、争いの無い世界。

私の世界にある全ては調和の元に存在し、そしてそれを乱すことは無い。

いつかの記憶が頭を掠める。何だった、あれは。

そうだ、男の言葉だ。古い世界の中で、古い世界にしがみついていた男の言葉。

「孤独は死に至る病だ」と、言っていた。

私は孤独なのだろうか?

少なくとも一人でルインに横たわっている事は古い世界の価値観からすれば孤独なのだろう。

自分以外のほかの誰も存在しえないような空間の中で、延々と自身にとって都合の良い空想に耽るなんて、まともではない。

と、彼は言っていた。

私の人生の執着が死であることは私が人間である限り逃れようの無い事実である。

それは否めない。が、それはあくまで人間という種に等しく訪れる運命の範疇に横たわる死であり、決して孤独がもたらすような類の物ではない。

少なくとも、私の瞳に映る気配はいつだって変わらず肌に触れるような気安さで馴染んだ死でしかない。

或いは孤独のもたらすような死は既にルインの外には満ちてしまっているのだろうか?

私は食事の後片付け−と言っても空になったパッケージをゴミ箱へ捨てるという程度の事だがーを行うと、自分のルインへ戻った。

戻る時、アマンダのルインを目の端で追ったが、それは物質として其処にあり、そしてそれ以上の意味を持たないように思えた。少なくともそれは私にとってはただ在るという以上の存在ではなく、しかし確実性を持って私の世界の中に存在しているのだ。

ルイン、それ自体には意味が無いのだろう。私にとって、或いはそこに在るルインの所有者にとっては意味があるとしても、それは他人にとっては無意味なものなのだ。

一体それがどういう意味を持つのか、という事について考えたとき私に残された物は

エゴの存在していた頃の、断片的な記憶しか手繰る術は残されていなかった。

私は直ぐにルインに戻ろうと考えていたけれど、気分が変わり、椅子を一つ私のルインの前に持ってきた。

そして、それに座り私のルインを眺めることにした。どれ位の時間か、という事については考えていなかった。過去の記憶を、少しでも深く探り当てる作業に埋没してしまえればそれでよかったのだ。


埋没したモノ/深い海の底について


ルインが並べられた建物について、私の記憶にある限りを述べておこうと思う。

それは私が過去を手繰る際に避けては通れない事象でもある。

私と、アマンダのルインが並べられた部屋には窓が一つある。私が目覚めた時に日が差し込んでいた窓だ。

その外にあるのは緑の草原。そう、この建物は草原の中に立てられている。

地平線が見えるくらい広い草原だ。果てなど、どこにあるのかはわからない。

そして、私の記憶が確かならば、その草原の果ては海に続いていた。草原の終わりにある小さな丘を越えて、直ぐに海が見えたはずだ。私はその海が好きだった。

潮の香りの中で深呼吸する事は草原の中でするそれとまるで違って感じた。

瑞々しい青さとはかけ離れた剥き出しの生に触れるような。

それは生命が海から生まれたという事象に起因するのかもしれない。そして、生命は

大地で生活を始めた。その末に僕達の種が並ぶ。つまりはそういう事だ。

親密な大地の匂いよりも海の匂いは鮮烈に僕の肺に滑り込んで、満ちる。

浜辺から足の付く浅い砂場を通って、そしてその先にある水平線へ向かって泳いでいた。どこまでか、分からない。どこまで泳げるかさえ判らない。

ただ海があった。そして私は力の続く限りに手足を動かし、先を目指した。

やがて、力尽きて沈む。沈んでしまうのだろう。

そして生きたままでは辿り着けない位深い、海の底へ泳いでいたより長い時間を掛けて

沈んでゆく。私はもう意識を失い、その底に一体何があるのかを知ることなど出来ない。

いや、私だけではない。古い世界の海には誰一人知らないような深海が広がっていたはずだ。


不意に鳴った物音が私の思索を遮った。


名前の無い風景/名前も知らない女について


振り返ると、アマンダのルインが開いていた。

そこからゆっくりと影が現れる。私はルインでの生活を始めてから初めて会う他者の気配に全身の感覚を研ぎ澄ましていた。

そもそも、そんな感覚すら久しぶりだった。慣れないものと向き合う感覚。

女は20代前半にも見えたし、10代の終わりのようにも見えた。

不安定な感覚。それは儚い美しさを思わせた。

彼女は限られた時間の、その中にいるのだ。

限られた時間。それは誰もが迎えるとしても、過ぎ去ってしまえば二度とは戻りはしない。

私にとってそれは既に過ぎ去ってしまったものだった。


彼女は私の姿を認めると、微笑んで言った。

「おはよう」

私はその言葉に戸惑い、少しの間応えることが出来なかった。一体その時間がどの程度かはわからないけれど、それはとても不自然な事のように

思えた。戸惑いにしても、お互いを知る人間同士にとっては相応しくないほどの間を空けてしまったような感覚を覚えたのだ。

私はその思いに耐えられず、思わず口にした。

「君は、僕を知って知るのかい?」

彼女は少し驚いた顔をして、答えた。その口元には微笑みが戻っていた。

「名前は忘れてしまったけど、あなたのことは知っているわ」

私は彼女の言葉に安堵を覚えた。


「僕も、君の事は知っていると思う」つまり、アマンダという私の横のルインに眠っている女について、という事だけれどそれは嘘では無かった。

彼女は微笑んで言った。

「私の事を忘れているかと思ったわ」

僕は少しの戸惑いと罪悪感を覚え、言った。

「アマンダ、君の事を忘れるわけなんてないだろう」

彼女の名前を記憶しているなんて事に自身があった訳ではないけれど、そういうほかに無かった。

つまり、先に進むためには。

彼女は一層表情を綻ばせて言った。

「驚かせないでよ、キズキ」

僕は彼女の言葉を聞いて、初めて自分の名前を失っていたことに気づいた。キズキ。それが僕の名なのか。


過去と現在/未来の行方について


僕は自分の座っていた椅子を元あった部屋に戻し、アマンダを呼んだ。

テーブルを挟んで僕達は向き合う形になった。まだ、頭の中は混乱している。

彼女の名前はアマンダで、それは僕が記憶していた、少なくとも記憶の中にある名前だった。

彼女のことはその名前以外には思い出せない。つまり、彼女と言う存在はただ名前とその姿が記号のように僕の前に在るだけだった。

そして、僕は自分自身の名前すらも失っていた。幾つかの記憶は自分自身に繋がらないものだという事を改めて感じる。

つまり、この建物の外にある草原も、いつか深呼吸をした海の事も、ただ事象としてのみ捕え、僕自身の過去には直接に繋がらないのだ。

僕は過去を思い出す事が出来ない。そして、そんな事をこんな風に思い出そうなんてしたことは無かった。

必要が無かったのだ。ルインの中に居る限りには。

分断された過去と現在。そして僕が覚醒していられるのは現在で、ただその中で存在しているのだ。

肉を持った現実の生活が、ただルインの中に横たわるだけだったとしても、僕にとっては省みるような事象ではない。

何故なら、肉体が朽ちてしまえばそれと知らず失われるような脆弱な精神でしかなかったからだ。精神は肉体の束縛から遠くあった。

分断された時間の間に失われるような脆弱さは、つまり自分の手から自分自身をほうり出してしまっていたようなものだ。

そしてそれは幸せな事だったと、アマンダと向き合った時に感じた。

一体彼女にとって僕はどう映っているんだろう。

ルインには鏡のような素材は使われていない。建物にある窓に備え付けられたガラスのような物も素晴らしい透過性を持った素材で作られていて、

その前に立っても姿を映しこむようなことは無かった。

僕は一体どんな姿をしているのだろう。目の前にいる女に相応しい姿をしてるのだろうか?

彼女と僕が兄妹だったとして、姉弟だったとして、恋人だったとして、友人だったとして、従兄弟だったとして、隣人だったとして、一体それらの関係性において彼女に

相応しい姿をしているのだろうか?

そんな事を考えても意味が無いことは判っている。一体その中のどんな関係性なのかさえわからない現状で推し量っても仕方が無いことなのだ。

アマンダは美しい女だった。

大きな瞳、長い睫毛、肩まで伸びた艶やかな髪、柔らかそうな唇と白い肌。

一体これは現実なのだろうか?僕はルインの中でルインから目覚めた夢を観ているに過ぎないのではないか?

僕の思索を見透かしたように、アマンダは僕の手を取って言った。

「温かいでしょ?」

彼女はそう言って微笑んでいた。

僕は、これが現実なのだと改めて認識した。そう、これは現実なのだ。僕はルインから抜け出て、食事を取り、戻ろうとしたところで隣のルインに眠っていた女と出会った。

そして、女と僕は知り合いだった。僕は彼女の名前を知っていた。それだけだ。

「素晴らしい夢を観ていたわ」彼女は中空に視線を送って、言った。

「僕は夢をみなかった」と答えると、彼女は驚いた表情を浮かべた。

「あなたは夢を観る事が無かったの?」

僕は首を縦に振って肯定を表した。僕は夢など見なかった。夢という言葉の意味を知っていても実感が出来ない。

「君はどんな夢を見ていたの?」僕がそういうと、彼女は笑って言った。

「古い世界の夢」

「古い世界の夢?」

「そう。古い世界の夢。あなたと、こんな狭い世界でなく、夢の中でもなく過ごしていた時の夢よ」

僕はその言葉にまた、混乱した。僕と彼女は古い世界に生きていたのだ。古い世界。一体それはどんな世界だった?

僕は思い出せなかった。彼女の名前を知っていても、その時の記憶はごっそりと抜け落ちていたのだ。

「僕と、君は古い世界で一緒に居たんだっけ?」

彼女は怪訝そうな顔をして言った。

「そうよ、二人で愛しあっていたじゃない。素晴らしい日々だったわ」

彼女は遠い所を見ていた。僕がその先に視線をやっても、彼女と同じ景色は見えそうになかった。

「愛し合っていた。僕と、君が」

「忘れてしまっているの?」

アマンダは酷く悲しそうな声で言った。それは紛いも無く、悲嘆の感情から発された言葉だった。

「思い出せないんだ」

僕は正直に、そう言った。アマンダは一瞬落胆の色を浮かべ、そして諦めたように

「そう。仕方ないわ。とても長い時間が経ったんだもの」と言った。そして長い溜息を吐いた。絶望が匂うような溜息だった。

その溜息は僕をどうしようもなく苦しい気持ちにさせた。

「長い時間、か」僕がそう言うと、アマンダは「とても長い時間よ。だけど、私達はまた目覚め、出会ったの」と微笑んだ。

その微笑から絶望は感じられなかった。彼女は過去よりも未来を見つめているのだと感じる。

過去の積み重ねが現在だとして、僕は過去を失っていた。つまり、過去からあるべき現在を失ってしまっているのだ。

積み重ね、其処にあるはずの現在を失ってしまった。それは過去を無駄にしたようなものだった。

嘆くべき事だ。耐え難いほどの苦しみを伴うような事だ。

そしてそれは僕だけの問題ではない。アマンダが共有する、彼女が覚えている過去を失ってしまったのだ。

彼女と共に僕は過去を失ってしまった、彼女が期待するような現在には生きていないのだから。

「僕は君の名前しか、知らない」そう言うと、彼女はまた僕の腕に触れて言った。

「けれど、今この温もりを知った」そう言って笑った。


愛情/再びルインについて


僕は彼女の温かさとその全てを素晴らしいと感じた。ルインの中で時間を経るようになってから初めて自分以外の他人の存在を受け入れたのだ。

最大限の好意でもって。僕の宇宙には存在しえなかった感覚。ルインの中では感じられなかった感情だった。

僕は混乱した愛情の中に横たわっているのだろうか?それとも安らぎの中に漂っている?

そんな事はわからない。少なくとも、今この場で答えを出すべき問題ではない。

僕は名前しか知らない女に好意を抱いている。そんな状況が現在以外の何処に存在しえたのだろう。

特に過去を忘れてしまったような人間にとって。

アマンダの微笑みは僕がルインの中で過ごした時間には無かったものだった。

与えられる安らぎ、その象徴たる微笑み。

僕は今まで失った全ての過去と、そしてこれから歩むべき未来の全てをその微笑に捧げても良いとすら思っていた。


けれど、これから僕達はどのような未来へ進んでゆくのだろうか。

それについて考えていなかったわけではない。この邂逅も一時のもので、しばらくすればそれぞれのルインでまた夢を見るのだとすれば、

残酷な事だ。

未来は此処にはなく、ルインの中にだけあるというのなら。

アマンダは僕の考えを見透かしたように、言った。

「ルインはルインである以上の意味を持ちはしないわ」

「どういう意味だい?」

僕が聞くと、彼女は肩をすくめて言った。

「そのままの意味よ。私達は私達で、ルインの中にだけ存在するわけじゃないもの」

僕は彼女の意図する事がわかって、安心した。

「ルインの外でも生きていける」

彼女は満足したように微笑んで言った。

「その意思があるのなら、ね」

僕はルインの中で見た夢について考えた。それはどれだけの時間を経たものかわからないし、現在にはその内容の殆どが思い出せないけれど、

しかし安らかなものであったと思う。少なくとも平穏に流れる時間だった。

「ルインの外で生きるというのは大変な事のようにも思える」

僕は素直にそう言った。此処には僕だけの世界など存在しない。エゴが溢れているのだ。今はまだ僕とアマンダのそれだけだとしても。

「外の世界も知らないのに?」

彼女はそう言って笑った。「未知の世界に触れる事が怖い?」

僕は窓の外に視線を移した。緑の草原が広がっている。僕はその草原の景色を知っているはずだった。その匂いさえも。

「もう忘れてしまった世界の事だ、けれど僕はいつかその中で生きていたんだろう」

そう言って、視線をアマンダへと向けた。

「僕と君は、その中で生きていた。知らない訳じゃない」

アマンダは肩をすくめて言った。

「ただ忘れてしまっただけ、って事ね」

彼女の仕草に、僕は自分の言葉の愚かしさに、恥ずかしくなった。

忘れてしまった事は知らないことに等しいのだろう。少なくとも、忘れてしまったという状況が続く限り。

其処にある、一つ一つの意味を尋ね確認し、少しずつ思い出していくのだ。

知らない、という事であれば繋がりようの無い記憶が何処かに埋もれている。

幾ばくかの年月の流れた砂漠の街みたいなものだ。僕の過ごした街は今は砂に埋もれてしまっているけれど、確かに其処にあるのだ。

後は、それを掘り起こすだけ。もっとも僕が本当にその世界に生きていた、というのならという前提の元に成り立つ話なのだけど。

僕の過去は現在では失われてしまっている。それが本当にあったのかすら危うい位の話なのだ。

「君は外の世界を知っているの?」

僕は彼女にそう尋ねた。彼女と生きていた過去が、唯一僕がこの世界に過去生きてきた証だった。

「正確に言うと、覚えているっていう程度だけれど」

彼女はそう言って椅子から立った。

窓辺へと歩き、寄りかかって外の景色を指差した。

「此処は元々はこんな風に何もなかったわけじゃなかったのよ、こんな草原なんて私たちが生きていた世界ではなかった」

そう言うと僕を振り返って言った。

「不思議だと思わない?なんでこんな何もない草原の真ん中にルインだけが置かれているなんて」

彼女は僕の答えを待っていた。僕は自分の記憶を辿っていた。

記憶の中にある草原、その向こうの丘と海。僕は窓の外の世界を知っている、けれどそれは夢だったのかもしれない。

鮮烈な青の匂いと潮の香り。そんなものさえ僕がただ記憶の中に作り出していた幻だったのではないかとさえ思えた。

根底が揺らぐ。知りえるものと知らないもの。その違いが僕が抱えていた過去に関する記憶すらその立つべき根拠をぐらつかせていた。

「僕はルインの外に広がっている草原を知っていた、と思う」

搾り出すように、言った。彼女の知る世界と違う世界の事を何故僕が知っているのかなんて理由はわからないまま。

「その先には海があって、僕はその中で深呼吸をした。そして海を泳いだはずだ」

彼女は僕の言葉に微笑んで言った。

「私達はそんな風に草原や海で時間を共有した事があるわ」

「けれど、その記憶には君はいないんだ」

僕がそういうと、彼女は少しその言葉について考えた後、言った。

「私とあなたの間で記憶に差異があるようね」

そして、再び窓の外に視線をやった。太陽が−それは僕の夢にあったよりも眩しく輝いている−草原を照らし、草原はまるで緑色をした海のように輝いていた。

「私はこの草原を知らない、けれどあなたは知っている。私はルインの外にあった街を知っているけれど…あなたはそれについて憶えていることがある?」

僕は首を横に振った。そんな物のことは、知らない。僕の知るのは草原と、丘と、海のことだけだった。

「そう。私とあなたの記憶と、どっちかが間違えているのね」彼女は自分の言った言葉について少し考えていた。

「街って、何の事なんだい?」

僕は彼女に問うた。街、そんなものを僕は知らない。

「ルインは、街の中にあったのよ。そう、あった。今は無い街だものね」

彼女は僕に答えた。そして、さっき考えていた事についても言及した。

「街の事をあなたは知らない。私は知っている…ねえきっとお互いが全ての記憶を持っているわけじゃないのよ、きっと」

そういうと彼女は椅子に戻り、腰掛けた。

「私はあなたを覚えている。つまり、あなたと過ごした日々の事を。あなたはそれを持たない。あなたは私の名前以外を忘れてしまったけれど、今外に広がる草原の事を知っている」

其処まで言うと、彼女は僕の瞳を見つめた。何かを探るように。恐らくはその言葉を聞いた時に僕が一体何を考えているか、という事についてなのだろうけれど。

「真実と虚構が交じり合っている、という事なのかな」

僕はそう言った。彼女は、僕の言葉を聞いて言った。

「一人が持っている真実には限りがあるのかもしれない」

僕は彼女の言葉について、考えた。真実。つまり僕にとってそれは草原や丘や海で、彼女に取っては僕と彼女が過ごしたという日々の事だ。

「だけど、一体何故そんな事になるんだい?」僕は素直に疑問を口にした。限られるという事は、限られるべき何かしらの理由があるはずだ。或いはロジックや意思が。

記憶は単純に忘却の中に埋没していくとして、少なくとも二人の間に共通した記憶があるはずだろう。

「一体、何故真実に限りがあるなんて考えるんだい?」

「だって、そうとしか思えないじゃない」

アマンダはそう言って、僕の反応を確かめるように見つめてきた。

「私の知らない事をあなたが知っている。あなたが知らない事を私が知っている。それは今広がる窓の外の草原を見れば確かだと思わない?」

「或いは僕が君の名を知る理由さえ判らない事を併せて」そう、僕達の持つ記憶は符号が合わない。もし、彼女が彼女の記憶によって僕を知るとしても、

少なくとも現在記憶を失った僕の事は知らなかった。そして、僕は彼女の名前以外忘れていたけれど、今外に広がる景色のことは知っていた。

僕達はお互いの名前以外に共有するものなど無い。そもそもキズキという名さえアマンダが僕をそう呼んだだけであって、僕が自分自身の名として記憶していた訳ではないのだから。

お互いの記憶のうちの、限られた部分が真実だったとしてそれは一体どれだけのものになるのだろう。

少しの真実と、大部分の虚構の上に成り立つ記憶。

世界は僕達の記憶に関わり無く存在してきたし、そしてこれからも存在していく。

揺らいでいるのは僕達でしかない。

混乱した世界は僕達の中にしかなく、そこに存在する世界は揺らぐこと無く圧倒的な現実として横たわっている。

「ねえ」

僕は彼女の言葉について考えた後、言った。

「僕は自分の名前さえ忘れていた。ただ、君の名前だけを覚えていたんだ」

彼女は少し驚いて、言った。

「さっき、私があなたの名前を呼んだときにそんな事言わなかったじゃない」

「君が僕の知っている名前だったから、僕の名前もきっと君は知っていて、僕が忘れていただけだと思ったからなんだ」

彼女は肩をすくめて言った。

「という事は、私達に共通する真実って、私の名前だけって事なの?」

「後はルインに対する認識だけなんだろうね」

僕達は改めてルインを振り返り、それをゆっくりと眺めた。

僕達はあの中で眠る前の記憶について違える位の時間横たわっていたのだ。

どれだけの時間かなんてわからない。長いのか、短いのかさえ。

今わかっているのは、ルインから目覚めた時僕達は共有するべき世界の殆どについて確かな記憶を持っていなかったという事なのだ。

アマンダの名前を除いては。

或いはルインの中で失われてしまったのかもしれない。


漠然とした決別/漠然とした未来について

アマンダは僕の言葉について何かを考えるように、黙り込んでしまった。

何も話さない彼女とテーブルを挟みこんでいる事に耐えられず、僕はルインに近づいて改めてそれを見つめた。

結局、これは始まりなのか。

僕達は過去をルインに閉じ込め、そしてそこから歩き出そうとしているのだろうか。

それは僕の持つ記憶にある古い世界からの決別なのだろうか。

僕は、少なくとも自分の記憶にある限りにおいて、古い世界はもう現在には存在し得ないと感じている。

つまり、夢すら挟まずにたどり着いたこの世界の中にはもうそんなものは存在しないのだろう。

何度か目を冷まし、チューブ以外で食事を取り、またルインに眠る。

そんな風に過ごした時間の果てにはもう古い世界など存在しえないと考えてしまう。

それは短絡的なのだろうか?

それとも無意識にルインの持つ意味について理解しているからなのだろうか?

その答えは少なくとも僕に知る術は無い。

「ねえ」

アマンダが突然声を掛けてきた。彼女は僕の言葉について考えが纏まったのだろうか。

つまり、ルインの持つべき意味について、という事だ。

「外に出ましょう。この部屋を出て」

僕はそれについて、考えていたところだった。

ルインから離れた世界が一体どのように存在しているのかを知りたい、と考えていた。

僕が抱いたのは不安の中に期待や好奇心を内包する類の感覚だった。

「そうだね、きっとそれが一番いいんだろう」

僕は彼女に同意し、椅子から立ち上がった。

後は、ただ部屋に一つある扉を開けて進むだけだ。

その先に何が待つとしても、そうする以外に他は無い。


僕達は扉を開けた先にある長い廊下を一歩一歩確かめるように歩いた。外へ繋がるであろう扉と、上に上る階段そして下る階段がある部屋へとたどり着く。

僕は一体どうするべきか迷った。ルインのあったこの建物の中に何かを探すのか、それともルインと建物を後にして外の世界へと踏み出すのか。

アマンダは躊躇わずに扉を開けた。「もうこの建物に用は無いわ」彼女は振り返ると言った。

「だって、もう全てが過去に成り下がってしまったのよ。この建物にある全ては過去と私たちを繋げるためだけにあった。今更そこに何があったとしてももう歩き出してしまった私達には必要無いものだけなのだから」

僕は彼女の瞳を見つめて、頷いた。

この先に何があったとしても、何が無かったとしても結局僕達はそれ以上の何も求める術も無い。

ルインの中で放り出されたように分断されていた精神と肉体は一つになり、そして僕はそれを抱えていくしかないのだから。

たった一人でも。でも、少なくとも今はアマンダが側に居る。

名前しか知らない女性。古い世界で愛し合い、そして新しい世界の中で始めて出会った他人。

他人のエゴも悪くは無い、と思う。そして暖かさは愛しい位だ。

僕達は扉の先にある世界へ、お互いの第一歩を踏み出した。


アマンダ/過去恋人であった者達について


僕達は草原の中をどこまでも歩いていた。果てが見えるまで、歩こうと。

草原の中には幾つかの低い樹木が立っていて、其処には果実が実っていた。

パッキングされた食料以外の食物を食べるのは久しぶりで、不安を覚えたけれど僕達はそれを口にした。

食料を持たずに、ルインのあった建物を後にしてしまったという現実的な問題を別にしてもそれは僕達の好奇心を刺激する物だったのだ。

水瑞しい甘みが口の中に広がる。それは感動的ですらあった。

「古い世界でもこんな風に二人で同じものを食べて笑いあってたのかな」

僕がそう言うと、彼女は「忘れてしまった事についての感傷でも感じたの?」と言って笑った。

「そんな事どうでもいいのよ、今は」

僕達は幾つかの果実をもぎり取って、先へ進んだ。

空は青からオレンジへ、そして星と月を抱いた闇へと代わっていった。

僕達は疲れ果て、草原の中へ座り込んだ。土の匂いが濃い。

寒くも、暑くも無い夜。

静けさが訪れると、それはとても神聖なもののように感じられた。完全な静寂。

「動物も居なくなってしまっているのかな?」

僕が言うと、アマンダは「ただ、まだ出会えていないだけよ」と言った。

「そうだといいな」僕はアマンダの横に座りなおして言った。

「だって、僕達だけじゃ寂しすぎるもの」

月明かりの中でアマンダが微笑む。そして、僕を抱き締めて言った。

「私はそれでも十分よ」そう言って口付けをくれた。とても柔らかな唇だった。

僕はそれに似た感覚を、もう覚えてさえいない遠い過去に感じていたような気がした。

僕が自分からもう一度彼女に口付けをすると、僕達は暫くの間見つめあった。

親密な空気。それはルインの中では、或いは一人で覚醒している時には感じられなかった類のものだった。

彼女の身体を強く抱き締めて、その肌に触れた。柔らかくて滑らかな陶器のような感触だった。

彼女は僕の身体に唇を這わせた。下着は一体いつ変えたんだっけ。僕は自分自身の現在について覚えていない事が多すぎる。

けれど彼女と繋がっていられる限り、それはどうにでもなるようなささやかな問題に過ぎないのだろうと思えた。

その後で、僕達は抱き合って眠った。


夢の中で、僕は過去と未来が混ざり合っていく情景を眺めていた。

僕が立っているのは現在だ。

そして、それ以外に自分の行くべき場所など見つからない。

側にはアマンダが居る。それで充分だと思う。


目覚めた朝、僕はもう迷う事は無いだろう。

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