魔女とランプ
アクセスありがとうございます。「短編小説」の種別を選択しておりますが、それにしては長いお話です。
いろいろな童話の端くれを、ちょいちょい混ぜ込んであります。よかったら探してみてください。
~序章~
むかし、むかし、「魔女の森」と呼ばれる深く大きな森に、その名前のとおり、「魔女」と呼ばれる女たちが、この世界ではもうただひとつの“王国”と呼ぶことができる、“国”を築いておりました。
そして王国には女王がいました。
魔女の王国を築いた彼女、魔女王は、賢く、優しく、暖かく、偉大で、ほかの魔女たちに大変好かれ、信頼の念を込めて、「大魔女」と呼ばれました。
~第一章~
「あ、」
アリスは声を上げた。毎朝やっていることのはずなのに、なぜこうも毎度毎度、まるで初めて出くわしたことのように、あっけにとられることができるのであろうか。
まだ昇りきっていない朝日に照らされた、短く波打つ栗色の髪を持った少女、アリスが、座っていた飼育小屋を囲っている柵から、見上げる形をとった草色の視線の先にあるのは、切り分けられた一枚のトースト。
ただしそれは、先ほどまで彼女の手にあったものだ。
アリスは、視線はパンに向けたまま、彼女が声を上げた原因を作ったはずの名を、とがめるように、しかしこともなさ気につぶやいた。
「ジャン」
ジャン、と呼ばれた少しくせのある黒髪の少年は、己の名を呼んだことに対しての苛立ちからか、元から寄っていた眉間のしわをいっそう深くしてアリスをひとにらみすると、それにもかかわらず彼女の呼びかけを無視し、その目を手にある食べかけの薄っぺらいパンへ移すと、まるで自分のものであるかのように、がぶりとかじりついた。
さくさくと音を立てて少年の口の中へと消えていく、自分のものであったはずのパンを、アリスは口を半開きにして、先ほど声を上げたときよりも呆然とした表情で見ていた。
――いつもこうなのだ、この空色のカチューシャをつけたみすぼらしい少女は。
貧しくて一日に二度しか取れぬ食事の一回をこの少年に奪われてしまう事に対して、抵抗らしい抵抗を見せたことは一度もない。それに加え、表情の変化が乏しい彼女からは、嫌がっている様子も伺えない。それとも本当に嫌がってはいないのだろうか。自分の気持ちを口にすることもしない無口な少女からは、そんなことすらもわからない。
そんな彼女だからなのか、色白で冷たそうな肌に、冷たい眼をした、身につけるものはどれも仕立てのいいものばかりの、裕福なのであろう少年は、その嫌がらせをやめる兆しを見せたことがない。
ジャンがむしゃむしゃとパンを食べ続け、早くも半分ほどになってしまったころだろうか、アリスはやがて何事もなかったかのようにそれから視線をはずし、食べきられてしまうのを見届けることなく柵から降りると、すたすたとどこかへ行ってしまった。
ジャンは、この状況で何処へ、という顔をした。そう思っているあたり、やはり彼もまた、“いつも”を成り立たせるための“同じ”条件を提供してしまっている。
その“いつも”の主な構成要因であるアリスは、結果的に朝食にしては少なすぎる量となってしまった安いパンの安っぽい味を忘れたころ、彼女の目的地である飼育小屋の内部に到達していた。
すると、彼女を待ち、そして今その姿を捉えた家畜たちは、親しげなまなざしをアリスへと送った。アリスの目元が緩められた。気がした。
アリスは、種族の違うものたちに、それぞれにふさわしい食料をえさ箱へと与えていく。そして彼らが朝食を食べている間に水を入れ替える。再び小屋の外へと出て行き、日当たりの良い場所に昨日の水をまき捨て草木に与え、そのまま井戸で水を汲み、小屋へと戻る。それを家畜たちの水入れの数だけ繰り返した後、動物たちを柵に囲まれた庭に放し、今度は小屋の中の掃除。それが身寄りのない、農家に生まれた彼女の、朝の仕事だ。
まだ水汲みの途中、せわしなく、しかし毎日の習慣から無駄なく動き回るアリスを、黙って柵から後を追ってきたジャンが、おもむろに足を上げ、転ばした。
声を上げることも、ましてや表情を一切変えることなく、けれどもアリスは地に伏した。
掌とひざとスカートとあごが土で汚れた。
か細く震わせた小さなひざを曲げ、ゆっくりと起き上がったアリスは、そこでジャンを振り向いた。
ジャンはアリスが地面へと吸い込まれていく様子を、その一瞬を片時も目を離さず見ていた。
そのまま、瞬きひとつしないジャンと目が合う。
アリスも瞬きをしない。
なおも表情の変わらないアリスを見下ろしていたジャンが、それでも、初めて目を細め、嗤った。
彼の口角が吊り上げられ、整ったその白い歯が見えたのを視界に納めたアリスは、その小さな汚れた手を、ちょいと頭に伸ばし、カチューシャの位置を確認すると、再び前を向き、また、なんでもないように自分の仕事へと戻った。
少年の嫌がらせは悪質だった。
貧しい小さな少女から食料を奪い、けなげに働く邪魔をし、嗤う。
それだけではない。汲んできた水を、容器を蹴飛ばして散らす。えさ箱も同様。家畜を脅かし、落ち着きを失わせる。もしくは追い掛け回し、柵の外へと出してしまったことさえある。
その数々の被害は当然アリスがこうむる。少女は少年よりも幼かったが、それでもこの小さな牧場の、たった一人の主であったのだから。
近くに少女の家以外はないが、それでも少年の“いたずら”に巻き込まれることはある。アリスを通して。
だれもがあきらめている。
だれも逆らえやしない。このあたりいったいの土地を広く所有する大地主のひとり息子には。
そのご子息に集中的にひどい嫌がらせを受ける、たった一人の少女も救えないほどに。
土地の人間には足りなかったのだ。生活の豊かさが、そして、心の豊かさが。
少女はどうだろうか?
この、泣き言ひとつその小さな唇からこぼさない少女は。
少年はどうであろうか?
自分の悪行に眉一つ動かさない少女をことさらいじめて、にもかかわらず嫌がるそぶりを見せないことこそを、望んでいるとでもいうのか。
アリスは人の助けを求めていなかった。少年の行動は自分に損害しかもたらさないことをわかっていながらも、それは決して自分の“死”にはつながらないことを知っていた。
アリスの家族はアリスを遺してもう死んでいた。
アリスは両親を早くになくした。そして最近に、とうとう最後の家族であった祖母もなくした。
それからだった。ジャンが嫌がらせをしに毎朝ここへ来るようになったのは。
そんなひどい相手でも、今ではアリスにとってジャンは一番身近な人物であった。昔から頻繁に顔を合わせているという意味では、最後の一人でもある。だが昔の方がすごす時間が長かった。
人と接することが激減したアリスは、表情の乏しさこそ以前と変わらないが、感情の起伏は、前よりもずっと少なくなったように見える。
そういえばジャンも、アリスほどではないが、幼いころから愛想のいい子供ではなかった。
日も登りきらない早朝、アリスは毎朝の朝食を外で食べる。そうすると、ジャンの恰好の餌食なってしまうわけだが、彼女がそれを認識しているかどうかは定かではない。
アリスが小屋の掃除をし終わるころ、ジャンはもうそこにはいない。
自宅に帰った彼は、家族と“朝食”をとり、その後さまざまな家庭教師の下、さまざまな習い事を行う。
大地主がジャンに習い事をさせ始めたのは、ちょうどアリスの祖母がなくなったあたりである。彼がアリスの元にいるのは、彼の家の“朝食”が始まるまでの時間だけなのだ。
この二人はどこか似ていた。
一日の一番初めに会う人がお互いであるのに、どこか他人事なのだ。
心の豊かさが足りない人間は、ここにもいるようだ。
それにすら気づかない無情の少女と、嗤う少年の、変わらない一日が今日もまた始まったかに見えた、それはまだ日が昇ったばかりの明朝のこと。
その日がいつもと違うことにアリスが気づいたのは、日がいくらか昇ったころ、彼女の家に見知らぬ来訪者が尋ねてきたときのこと。
その時アリスは、飼育小屋の掃除の後に動物たちを小屋へと戻し、ジャンが来る前まで考えていたことを、家の扉を開けながら思い出していた。
夢。
そうだ、夢だ。
アリスは夜、夢を見ていたのだった。そのことを、パンを食べながら思い出していたのだった。
懐かしい夢だった。
祖母の夢だ。
そのとき両親はもういなかった。
そのすぐのことだったかもしれない。
「アリスや、アリス、」
「こっちへおいで。お前に見せたいものがある。」
「ごらん、」
――これはなあに
「これはね、アリス、
ランプ
だよ。」
扉がたたかれた。
この家にアリスひとりになり、そのアリスが外で食事をするようになった今では、めったに使われなくなった、食卓のいすに座っていた少女は、そこではっとした。
珍しく表情を変えたアリスは、そのまま立ち上がった。
一度振り向き、目に映したいす。それは。
以前“ジャンが使っていたものだった”。
扉を開けた。立っていたのは老婆だった。知らない人だ。
その人は、黒い、しかしほこりか何かで薄汚れて、白みがかった、ローブを着ていた。腰が曲がって、アリスより低くなっている、その容貌はよく見えない。よく見えない。
老婆は持っていた木でできた杖をひとつ前へ出し、音を立てると、少しだけ顔を上げてアリスを見上げた。
眼が、見えた。
「お嬢ちゃん、ここにランプは、あるかい?」
そのしわがれた声の眼はぎらぎらしていて、黒目が白目よりも異様に小さい。しかも顔から飛び出そうでまん丸だ。瞼が動く様子がない。
「わたしゃね、古くて使われなくなったランプを買い集めている骨董屋でね、
お嬢ちゃんのおうちには、ランプ、あるかな?」
次に目に付いたのは鼻だった。その鼻は高く、しかし曲がってしまっている。ちょうど老婆の背のように。
聞いてもいないのにべらべらと告げられた、老婆の訪問内容を聞いて、アリスは我に返った。
そうだ、ランプ、だ。
内容を理解した頭が思い浮かべたのは、生前、祖母が教えてくれたランプの存在だ。ちょうど、使っていない。
「……少し、待っていて。」
アリスは言った。何かがおかしいはずなのに、アリスにはわからない。この老婆の眼で見つめられると頭がくらくらする。
アリスはいまだうまく働かない頭のまま、一度扉を閉めて、再び家の中へと戻った。
今はもういない家族の遺留品は、すべて残してあった。というより、触れてすらいない。
ぼんやりとしたまま、祖母がランプを置いていた物置部屋へと向かう。
おぼつかない足取りでも、ランプが置いてある部屋はわかっていた。むしろ吸い寄せられるように。
扉を開ける。この動作を最後にしたのはいつだったろうか、そこはほこりっぽかった。
小さく咳き込み、口元に手をやりながら眼を細めたアリスは、その薄く開いたまぶたの隙間から部屋の中を見回す。
どこだろうか?
そう思ったアリスの脳裏に、再び夢の景色がよみがえる。
「アリス、
アリス、ほうら、みいつけた。」
――……見つかっちゃった。
「ふふふ。
アリスは、かくれんぼの一回目は、いつも必ず物置部屋に隠れるからねえ。」
アリスは一歩、廊下から物置部屋の中へ足を置いた。
「アリスはこの場所がお気に入りなのかな。」
――うん。この部屋においてあるものみんな、懐かしいにおいがする。
今現在でも少女と言える年頃のアリスだ、この記憶の当時に、懐かしい記憶もなにもあったもんじゃない。
当時の自分に自分でそう思ったアリスは、なんだかおかしくなってしまい、そのころ祖母に見せていたような表情を浮かべた。けれど、あれからしばらくたってしまった今では、その顔は引きつっていたかもしれない。
それから、中途半端に開いた扉をそれ以上開くことはせず、そのまま、その小さな体を部屋の中へと滑り込ませた。
「……そう。
じゃあ、前にお前に見せただろう。あのランプの“居場所”を、お前に教えておくとしよう。」
それでも祖母は、懐かしさを知らないはずの幼いアリスを、からかうことをしなかった。だからこそ今、アリスは懐かしいと思った自分の感情を、なんの疑問もなく受け入れられる。
祖母は不思議な人だった。
そして、一歩、また一歩と、ゆっくりと足取り確かに目的の場所へと歩を進めていく。
――ほんとう?
あのランプは、一番いいにおいがするの。
ほこりのかぶった床に、ひとつずつ小さな足跡がついていく。
「そうかい、そうかい、
おいで。この戸棚をごらん。」
アリスがふと足を止めた。
古い家具や道具の中、一段と古めかしさをかもし出している、使われていない食器棚が、重々しくそこにあった。
「この棚の、ガラス張りの扉の下、」
アリスはその食器棚の前にしゃがみこんだ。
「いろいろな動物が彫られた小さな引き出しがたくさんあるだろう?」
繊細な彫り物の施された引き出したちを、アリスは懐かしむようにその小さな手で一つ一つなで上げた。
「その中の、」
やがて彼女の指はある一転にとどまった。
――猫?
アリスは猫が彫りこまれた引き出しに手をかけた。
「あった。」
引いた箱の中、そこに、アリスの求めていたものはあった。
それは少女の記憶にあるまま、少しくすんだ色の黄金を放っていた。
アリスは引き出しの取っ手から手を離し、赤子を抱くように、その幼い両手でそっとランプを取り出し、立ち上がった。
いや、取り出そうと、した。
アリスはとっさにその手を離した。ランプに手が触れた途端、一瞬からだの中で、すべての機能が一つの輪のようにつながった感じがしたのだ。いまだかつて味わったことのない感覚だった。からんという音が部屋に響いた。アリスは立ち上がった。ランプのふたが外れた。そこから何かが出てくるのではないかという恐怖に襲われた。アリスは数歩体を遠ざけた。アリスとランプとの間が開いた。
部屋にはアリスの荒い声が聞こえていた。心臓の音も聞こえるようだ。
アリスの視線はランプから離れない。瞬き一つできない。
足ががくがくする。でもここに立っている。
手が震える。冷たい。
ああ。あああ。
「わたしとアリスの秘密だよ。」
「うん。おばあちゃん。」
自らの口からこぼれたそれはまったくの無意識だった。
だって今まで自分は……。
アリスはひとつ瞬きをすると、再びそのランプへと視線をやった。
そこで、アリスはようやく思い出した。体から出て行った力が再び体の中に戻ってきたような感覚だった。
「ひみつ」
そうだ、このランプは自分と祖母の秘密の品だった。それに今思えば、祖母はこのランプをとても大事にしていた記憶がある。彼女はこの古いランプを、旧友にでも向けるようなまなざしで“接して”いたではないか。
アリスは再びしゃがみこみ、その手でもう一度、やはり両手を伸ばしてランプをその手の内へと戻し立ち上がった。
恐怖は感じなかった。けれど何かが出てくるような印象は消えなかったので、とりあえずふたを拾って本来あるべき場所に戻した。そうしたら、その姿はどこか親しみが持てるものに見えた。
アリスはこれを売ろうとは、もう思ってはいなかった。
あの老婆には待たせておいて悪いが、ほかをあたってもらおうと思った。
アリスがランプをしまおうと、再びかがみかけたとき、とっさに上体を上げて辺りを見回した。
叫び声を聞いたのだ。
「ジャン?」
ここにはいないはずだ。
ここには今、自分と老婆しかいない。
声は外からだ。
アリスは玄関まで走った。
手にあったランプを、ほこりっぽいそこへ残して。
アリスは扉を開けた。
玄関の扉はたいそう乱暴な音を立てて、アリスを外へと誘った。
「 」
アリスは、自分が息を飲んだ、ひう、だか、ひゅ、だかという音を聞いた。
老婆がこちらを見た。眼が合った。
「 」
今度は息もできなかった。
「……ウ、グ、ア、」
苦しそうに。これはもはや、果たして悲鳴なのだろうか?
「っ、ジャン!」
ようやくのどが震え、その役目を果たした。しかしのどは引きつり、うまく声にできない。それどころか、変に声を出したせいでのどの奥がひりりとした。それでも無意味にその名前を叫んだ。
アリスが叫ぶなど普段では考えられないことではあるが、そんなこと今はどうでもいい。
叫んだところでジャンの現状は変わらない。
アリスの表情はいまひとつ変わらない。それでも彼女は少年を救うことを望んでいた。
アリスは必死に頭を働かせた。それが“考える”という作業を正常にこなしているかはともかく。
少女は必死に目の前を見つめた。それしかできなかった。
目の前に広がるのは異様な光景。
痛々しくジャンの体を包むもの。それは白くて光沢を放つ、ふわふわとした、一見すると絹糸か綿糸かと思うような糸の集積、もしくは帯だった。しかしそれは妙に生々しくも見えた。
ジャンは体を拘束されていた。その拘束は彼の体をめいっぱいに締め付けていた。ぎりぎり、か、みしみし、か、絞め殺さんばかりだ。何よりジャンの表情がそれを物語っている。いつもは陶器のように白い肌が、今はそれを忘れ、浅黒く変わっている。
アリスには、ジャンを握りつぶすようにして巻きついているものが何なのかわからなかった。が、彼を苦しめている根本的な原因はわかっている。
おそらく、なおもこちらをぎらぎらと見つめている老婆だろう。相変わらず瞬きひとつしない。恐ろしい。
「ランプは?」
「っ!」
しわがれた低い声があたりに響いた。その声はとても小さなものだったがアリスにはそう聞こえた。
「ランプは持ってきてくれたかい?お嬢ちゃん……」
アリスの全身に鳥肌が立つ。まるで、世界の音がすべて消えた中、唯一老婆の声だけがはっきりと聞こえるようだった。
老婆は笑っているようにも見えた。
アリスが、言いようのない恐怖と焦りがない交ぜになった、わけがわからない――しかし人の“死”を目前としたときのあの感情だけは彼女にとって知ったものだった――心情に体も頭も蝕まれているというのに……!
この異様な光景の中、老婆だけが変わらずランプを求めていた。
ここで、ランプを渡さなかったらどうなってしまうのか…?
「っ……」
ジャンが……!
しかし、この老婆はなぜそんなにランプを欲するのだろう?
――だってこのままではジャンが。
「やめて!」
アリスは再び叫んだ。
怖かった。目の前の老婆が。
しかしそれ以上に苦しむジャンが。
――死んでしまうのではないか?
だからアリスは叫んだ。
「お譲ちゃん、ランプはどうした?」
なおも老婆はランプを求めてきた。お互いの欲求は一方通行で話にならない。
「いいからジャンを離して!」
「ランプを渡さないか!」
「離しなさいと言っているでしょう!」
アリスがいっそう声を荒げた。
――そのときだった。
少女のカチューシャが白い光を放った。
「な、なんだとっ?」
老婆があせったように高い声を上げ、まぶしさにローブで目元を隠した。しかしその隙間から、ひどく驚いたように、真ん丸な目をさらに瞼が見えなくなるくらい見開いて、アリスと輝くカチューシャを見ていた。
光は収まるどころかその輝きを徐々に増していった。
まるで少女の感情の起伏に比例しているようだった。
「ちぃ!」
忌々しげに大きく舌打ちをした老婆は、ローブを翻しながら杖をジャンに向かって振りかざした。
「っ!」
するとどうだろう、ジャンを締め付けていた糸がはじけるように膨らみ、透明な球体となって彼を覆った。
シャボン玉のようなものの中に閉じ込められたジャンはその場でひざを着き、激しく咳き込んだ。
「ジャン!」
球体がふわりと浮いた。本当にシャボン玉のように。しかしジャンをその中に取り込んだまま。
「ジャン、ジャン!」
アリスは必死に彼の名を呼んだ。
しかしジャンはその呼びかけに反応を返すことなく、しばらく咳き込んだ後そのまま倒れこんだ。それどころか球体ごとふわふわと浮かび上がっている。
「くくく。」
老婆が嗤った。
その声にアリスは老婆を振り向いた。
光がいっそう強さを増した。
それにまぶしそうにしながらも、老婆は目を細めるだけにとどめ、嗤いながらアリスをにらみ返した。
「小娘が。小ざかしいまねを。」
その声は先ほどのしわがれた声とは違い、やけに透明感が感じられたように思われた。
背も心なししゃんとしている。
「この小僧を助けたければ、ランプをもってこい。
魔女の森までな。」
「っ?」
――魔女の森――。
確かにこの人はそういった。
「あはははははは!あーっはっはっはっは!」
老婆は消えた。球体とともに。
老婆が翻したローブの残像だけが、ただただアリスの目に焼きついているのみであった。
それともうひとつ。
耳に残るあの笑い声。
アリスは思ったのだった。
あれはさながら、
――魔女――のようであった、
と。
~第二章~
アリスは家の中へと戻ってきた。
もう日が頭のてっぺんまで昇りきったほどのことだった。
アリスはひどく疲労していた。
それはそうであろう。普段ではありえないような体験をしたのだから。
しかしそれだけではないような気がした。
アリスは自分の頭部に手を伸ばし、そこにあるカチューシャをはずした。
先ほどまでの光はすっかりなりを潜め、見慣れた空色がそこにはあった。
思えばこのカチューシャは祖母がくれたものだ。
アリスはその手のカチューシャを一度握り締めると、元の場所に戻した。
その後顔を上げたアリスの顔は、いつもの――本当にいつもの、文字通り無表情そのものの――アリスのものであった。
アリスは疲弊していたが、それどころではない。
アリスは考える。
アリスが暮らしている、ジャンの父親が所有している土地の一角、いや、はずれといったほうが正しいか、そこには深い深い森が広がっている。
そこが、“魔女の森”と呼ばれる場所だ。
その森は、どれくらいの広さがあるのか、森を出たところには何があるのか、誰も知らない。
ただ、その土地の人々の間では、「あの森には魔女が住んでいるから近寄ってはならない」という言い伝えが存在している。そのため、森に近寄る人はいない。
時に、採集や、狩に行こうと入っていく人、好奇心を持った人が、森に入ることを試みるが、みな、気が付くと森の入り口まで戻ってきてしまうという。
そんな、不思議な森である。
その中に、ジャンは連れて行かれたのだ。
再び扉をたたく音がした。
それを聞いたアリスはいつもどおり、ぼろぼろのワンピースを翻し、扉へと向かった。
ノックの音は、先ほどの、老婆の弱々しい、しかしなぜか良く聞こえたものとは違い、荒々しく、ひどく乱暴だった。
このノックの仕方を、アリスは、いや、このあたりに暮らすものは、良く知っていた。
アリスは扉を開けた。
「おはようございます。」
目の前の、予想したとおりの人物が淡々と言った。
「今日は土地代を払う日じゃあないよ。」
アリスはその人物に、もっと淡々と答えた。
この男は、ここ一帯の土地の所有者、――つまりはジャンの父親――その使用人である。
決められた日――さらにはそれ以外も――に、利用者から金を受け取りに来る。丁寧な口調にもかかわらず、手荒い仕事をする、冷たい眼をした表情の読めない人物である。
“国”を持たないこの世界の人々は、土地を所有する大地主に土地代を支払い、その土地に家を建て、田畑を耕したり、家畜を飼ったり、店を開いたりするのだ。
「承知しております。
本日は別件にて……、
……坊ちゃまはこちらにおいででございますね。」
問いかけのようなそれはしかし問いかけではなかった。使用人がアリスを訪ねてきたということは、ジャンがアリスの家に通っていることを知っているということだ。当然だろう。地主の息子が、アリスの家を起点にしでかした“いたずら”の数々は、皆が知りえることである。
とにかく、迎えが来たということは、遅くともこの時間、ジャンは屋敷に戻っていなければならなかった、ということらしい。
「……ジャンはここにはいない。」
「……では、ご一緒していただきましょう。」
アリスの言葉が予想外だったのか、間をあけてそう告げた男は、後ろで待たせていた馬車へと彼女を促した。
もしあの高慢な大地主が、自分の息子が“魔女”にさらわれ、“魔女の森”に連れ去られたなどと、その原因が貧乏な薄汚い娘だなどと、その耳に入れよう物ならば……
――どうなるかわかったものではない。
初めて乗った馬車に揺られてしばらくすると、手綱を握っていた使用人が馬を止めた。
監獄の扉を開けるような乱暴な手つきでドアを開けた使用人を横目に、アリスは馬車を降りた。スカートのすそがひらりと舞う。
アリスの目の前には見知った大きな屋敷。大地主の御住まいだ。
「こちらです。」
訪れるのは初めてだったアリスがじっとその建物を見上げていると、使用人からあきれたように声がかかった。素養のない礼儀知らずの不躾な餓鬼だとでも思われていそうだ。
音を立てて馬車の扉を閉めた男はアリスを屋敷の中、目的の場所へと案内した。
使用人が開けた、入り口となる大きな扉をくぐると、左右には、これまた大きな調度品、眼前には広く長い廊下が、赤いじゅうたんを敷かれ、まっすぐに伸びていた。
扉を閉めた使用人がアリスの前を歩いていく。
アリスはそれに黙って着いていった。
廊下の左右に並んだいくつもの扉と、その間に飾られたよく似た絵画、アリスにとって、どれも同じに見えて、さして興味も惹かれなかったそれらを通り過ぎる。一つ目の曲がり角を曲がったその突き当りの、比較的玄関に近いであろう扉を男は開き、アリスはそこに入れられた。
入ったとたんのことだ。
「っ……ジャンっ!」
仕立てのいい洋服をその肥えた体にみにまとい、きらびやかな宝石を指やら手首やらに飾りつけた腕を伸ばしかけた男の手が、止まった。
「なっ、なぜこの餓鬼がここに……っ?」
大地主――ジャンの父親だ。
「ジャンは?わたしの息子はどこなのっ?」
その横で甲高い声を取り乱したように撒き散らしているのは大地主婦人――母親だろう。
「この娘は知らないと申し上げたものですので」
「キサマっ……!」
「お連れいたしました。」
使用人の男が言い終わらぬうちに大地主はアリスに迫り、飛び掛らん勢いでその襟をつかんで持ち上げた。
小さな体が宙に浮く。
「どういうことだっ!」
その部屋には低い机と、それを囲むやわらかそうないすがあり、その奥には大きな窓があった。そこはいわゆる応接室と呼ばれる場所であったが、そんなことはこの質素な生活を送ってきた小さな少女にはわからないし、興味もないだろう。
使用人がしかたないといったふうに地主を制したことで、アリスは地へとおろされた。もちろん乱暴に、だ。しかし地主の怒りがそれで収まったわけもなく、すごい剣幕で問いただされた。その婦人はうるさくむせび泣くばかりだ。
アリスはいすを勧められることもなく、そのまま事情を説明させられた。
ただし、ランプのことは言わなかった。
下手に話せば、“魔女がほしがっている”というランプを取り上げられかねない。大地主御夫妻はいつどんな状況でも強欲なのだ。
「なんということだ……、
ジャンが、魔女に……?」
「なんて恐ろしいことなんでしょう……!」
「朝食のあとの習い事が、教師が急な休みでやめになったからと、遊びに行って、昼食には戻ると、そう言ったのに……、
使用人を迎えにやって、戻ってくると思えば、
こんなことになるなんて……っ!」
どうやら、朝アリスと別れて自宅で朝食を食べた後、またアリスの家へと訪れた。そして、戻ると言った昼になっても戻らないジャンを迎えに行った、ということらしい。
聞いてもいないのに、大地主はべらべらとしゃべっている。情けを求めているのか、それとも普段自慢話をするときの癖なのか。ただし、動揺しているせいか、実に聞き取りづらい説明であった。
「小娘、オマエのせいだぞ!
どうしてその魔女をみすみす逃がしたっ?」
無茶を言いなさる。
「お前のせいでジャンは連れ去られたんだっ!」
それについて強く否定することはできなかったが、いずれにせよアリスは黙っていた。
黙り続けるどころか、迫っても、襟首つかみあげても、すごんでも、怒鳴っても、表情をまったく変えないアリスにじれたのか、大地主はよりいっそう、その下品な声を張り上げた。
「息子を連れ戻せぇっ!」
「“魔女の森”の前までお送りいたします。」
応接室から追い出すように、ジャンを連れ戻すように叫ばれたアリスは、屋敷の扉の前で、後ろをついてきた使用人に言われた。
それに対して、アリスは静かに言った。
「自分で、行く。
逃げないから。いいよ。」
振り返ってそう告げたアリスの、変わらない表情の一部を担う両の瞳のまっすぐさを見つめ返した使用人は、ひとつ息をはくと、一礼をして、アリスを見送った。
アリスは一度、自分の家へ戻ってきていた。
そして物置部屋へと急ぐ。
渡す渡さないの、どちらにせよ、あのランプを持って魔女の森へと行かなければ。アリスはそう思った。
アリスは開けっ放しであった物置部屋の入り口をくぐり、中へと入った。
例の食器棚のすぐそば、そこに、それは転がっていた。
アリスは、きっと自分が放り出してしまったのであろうそれを見て、申し訳ないような気持ちになった。
気持ち駆け足でランプに駆け寄るとそれを拾い、床のほこりがついてしまった表面を軽く払い、汚れを落とした。自分の手に汚れが移ることなどかまいもしない。
アリスは、ランプを出してそのままにしてあった引き出しを元に戻し、再び目に入ることとなった猫の彫り模様をなでた。
すっくと立ち上がったアリスは、気は済んだと言う様に物置部屋から、振り返ることなく立ち去った。
物置部屋の扉を静かに閉め、そのまま家の玄関へと向かう。
その足取りに迷いはない。
家の扉もきちんと閉めたアリスは、飼育小屋へと歩を進めた。
飼育小屋をのぞくと、いつものように動物たちは彼女を温かく迎える。
まったく時間ではないが、アリスは動物たちの餌箱と水入れに、それぞれのものを、大分多めに入れた。
「……ちょっと、行ってくるね。」
アリスはそっと微笑むと、その場を後にした。
この、“いつもと違う日”を終わらせなければ。
――早く。
アリスは無意識下で進む足を速めた。
それからはもう、森に向かって歩くことしか頭にはなかった。
人気のない場所をどんどん進んでいく。そうしてしばらくすると、アリスの目に森が見えてきた。
アリスは森の入り口の前で一度立ち止まると、森、正確にはそのもっと奥、自分が行くべき場所をひたりと見つめた。
そして、まだ小さくか細い小枝のような足を、前へと進めるのであった。
森の中は暗かった。
今の時間、まだ昼食のころ――もっとも、アリスに昼食をとるほどの金銭的余裕はない――にもなっていないというのに。
日の光がなかなか差し込んでこない木々の隙間を見上げながら、不安からなんとなく手の内のランプを、そっとなでた。
しかし、感触が明らかに違った。これは金属ではない、もっと……、
「この森が怖いかニャ?」
……。
アリスはばっと音が立ちそうな勢いで手元を見た。
ぬくぬくとしたやわらかさ、ふさふさと揺れる尻尾、ぴんととがった耳、きょろりとした吊り上がった目玉、ぴくぴくと伸びる多数のひげ、
――そして……
にたり。
きゅうとつりあがった両の口角。それさえ除けばその姿は、
「ねこ……」
アリスは、あいも変わらず抑揚のない声で、静かにつぶやいた。
ねこの口角が、よりいっそう上がった気がした。
「俺の名前はチェシャー。
智恵者 猫 虎模様 だ。」
ねこはそう名乗った。
「……わたしは」
「知ってるよ。
アリス、だろ?」
「どうして」
「知ってるさ、幼いころのお前も。」
そういって、チェシャーはさらににやにやした。しかしその表情は、にやにやというよりは優しげな気がした。
アリスは、そのにやけた黄金色の目を見つめながら、“それ”の正体を考えた。チェシャーの言っている言葉は、まるでなぞなぞのように聞こえた。
「……。」
そして、あまり時間をかけずに考えた後、アリスは瞬きをひとつして、静かにそのなぞなぞの答えを言った。
「お前、
ランプ
だね?」
にたあ。
「そう、俺はランプさ。
けれどランプは俺が静物化した姿だ。」
「……なにそれ」
このおかしなねこは、おかしなことを言う、おかしなランプのようだ。
「俺は魔道具なのさ。
だからランプとこの姿、
二つの姿になれるのさ。」
「……まどうぐ。」
「そうだよ。
だってここは“魔女の森”。魔法の力で満ちている。
俺たち魔道具は、魔力がないと変形できないからな。」
「まほう」
「そう。
……懐かしいにおいがしないかい、アリス?
俺とおんなじ。」
「うん……。する……。」
「だから、大丈夫。怖くないだろう?」
「うん。
ありがとう、チェシャー。」
にやあ。
ねこは少女に笑いかけた。
そのにやけ顔は、やはり優しかった。
~第三章~
アリスはチェシャーをその腕に抱え、道ともいえない、通れるところを通り、ざくざくと足を進めていた。
しかし、周りの景色に違いは見られない。
頭上では木々の葉が生い茂り、また、足元でも草が枝を伸ばしている。上も下も似たようなものだ。
「チェシャー、わたしたち、進んでる?」
「心配無用だよ、アリス。
もう少しで結界を抜けるからね。」
猫は少女の腕の中で、彼女に擦り寄りながら、機嫌よさ気に答えた。もちろん、にやにや笑いも忘れない。
「結界?」
「そう、この森は結界。
森の中心には“王国”がある。森は“魔女の国”を守り、隠すための結界で、
魔道具がないと王国には入れない。」
「だから、この森に入った人たちはみんな、いつの間にか入り口まで戻っていて、奥までいけなかったんだね。
チェシャーは物知りなんだね。」
「にひひ。
アリスよりも昔に創られたからね。」
チェシャーの笑い声は不気味なものであったが、アリスにはそれが気にならない。どころか、アリスにはうれしいものに感じられた。
アリスはなんだか楽しくなってきた。
だれかが一緒というのは、こんなにも楽しくて、こんなにも頼もしい。
ずっと忘れていた。
だいぶおかしいが、少女は少女らしく、好奇心を弾ませ、ねこに話しかけていく。ただし彼女の話し方は、いたって淡々とした、抑揚のない声が常である。
「ねえ、チェシャーは、ジャンのこと、知っている?」
「ああ。
見たことはないけどな、俺は耳がいいんだよ。
声ならわかる。」
そうだ、このねこは、ランプは、ずっとあそこにいたのだ。
「そっか。」
少女はさらに、ねこに話しかける。
「“国”ってどんなところ?」
「“国”には“国王”がいる。
民は“国王”の下で暮らす。」
「“国王”はどんなもの?地主とは違うの?」
「地主は土地を所有するもの。
国王は所有しない。
王が所有するのは、民の“信頼”だけ。」
「王って立派なんだね。」
「にひひ。」
アリスは歩き続ける。抱いたねこと話し続ける。
「じゃあ、どうして“わたしたち”は、国を持たないの?」
「にやあ。
昔は持っていた。
だけど、持つことをやめた。」
「どうして?」
「王が民の“信頼”を所有できなくなった。」
「……ふうん。」
少女とねこの会話は実に淡々としていた。主にアリスの、あまり抑揚のない口調のせいではあるが、そんな彼女とねこの間には、慣れ親しんだような調子があった。そして足元からも、依然調として調子よく、ざくざくと音がする。
依然として森は暗い。
しかし、少しすると、アリスの進む先に白く明るい光が見えるようになった。おそらく、先程チェシャーが言ったように、森の出口なのだろう。
アリスがいるのは、まだ暗い森の中ではあったが、光が目視できるようになったことで、明るく感じた。
足元をうねる根をまたぎ、唐突に突き出した枝をくぐる。
森を、抜けた。
「お疲れ様、アリス。」
腕に抱いたねこがねぎらいの言葉をかける。(確かにこの猫は自らの足を一歩も動かしてはいない。)
その返事としてアリスはチェシャーを見下ろした。相変わらずのにやにや笑いだ。どこか安心した。
森の中とは反対に、外は明るく、少し目がくらんだ。
アリスは目を細めながら周りを見回す。
心なしか森に入る前よりも明るい。
底には木々はなく、平らな地面が大きく広がっている。森の中にぽっかりと空いた、大きな穴のようなところだった。昔祖母や両親に聞かせてもらった、いろいろな物語のいくつかに出てきたようなところだと、アリスは思った。
そして、そのぽっかりと空いた大きな穴には、これまた大きな建物が建っていた。
その外壁は、森の緑に引けを取らない、透き通るような大変美しい翠色だ。
城、だろうか?
アリスは建物を見上げた。
幅や奥行きが大きいだけでなく、とても高い建造物であった。建物の周りは、頑丈そうな壁が取り囲んでおり、城壁のようであった。壁の中の建物は一つのように見える。建物のちょうど中心あたりには、塔のようなものが天高く伸びている。その塔に見える部分が、建物の一番高いところであった。
最上部は、高すぎて見えない。天気は気持ちのよい快晴であったが、建物の先端は、これまた気持のよいくらい真っ白な雲が、さらに気持ちがよいくらいわざとらしくかかっており、見えない。
こんなに高いのに、森の外からはこんなもの見たことがない。
なぜだろう?
そのうち、小さな少女の首は痛みを訴えた。
「アリス、あんまり見上げると、ひっくり返るよ。」
チェシャーからかうように、笑いながら言った。もっとも、その猫は始終にやにやしているのだが。
アリスは首をいたわるようにゆっくりと正面に戻した。
それを見計らったかのように、チェシャーが再び口を開いた。
「お城だよ、アリス。」
ねこは続けた。
「魔女の城さ。」
少女は、鳴かない、しかしよく笑いよくしゃべるねこの顔を見た。
ねこは気分が高揚しているかのように、黄金の目を少し見開いた。
そして、やはりからかうように、声高々に言うのだ。
「ようこそアリス、魔女の王国へ!」
ねこが醸し出す昂揚感に充てられたように、アリスも、なんだかそわそわした。
「では、これは王城?」
少女がねこに尋ねる。
「にやあ、すこし、違うにゃあ。」
ねこはもったいぶるように一度区切った。
「“王城”は、王と王の血が流れるものの暮らすところのことを言うが、ここで暮らすのは王だけじゃにゃあからなあ。」
「そうなの」
少女は、自分の暮らす地で一人で過ごすことには長けていたが、自分の暮らす地より外のことに関しては、無知であった。必要ないからである。小さい(今も小さいが、)ころに、時々彼女の家族が話すことが、すべてである。
反対に、ねこは博識であった。幼い少女は感心した。
「そうさ、アリス。
そして、この城に暮らすのは、王国の民すべてだあ。」
ねこは、幼い少女に優しく教えた。
「では、このお城には、魔女がいるということね。」
少女は再び城を見上げた。今度は首の痛みは気にならなかった。
「ジャン」
魔女でもないのにここにいるはずの、少年の名を呟く。
するとそれに応えるように、しかし唐突に、ねこも呟く。
「懐かしいにゃあ。」
アリスはチェシャーに視線を戻した。
「なにが?」
「動物化することが、もうずうっと久々のことだからなあ。」
ねこは感慨深げに答えた。
「……なに?」
またおかしな言葉が出てきた。
「俺の場合、ねこからランプに変形することを静物化、ランプからねこに変形することを動物化というんだにゃあ。」
「ふうん。
他の魔道具たちも、姿を二つ持つの?」
「そいつあ魔道具によるなあ。」
「へえ。」
少しだけ、アリスはチェシャー以外の魔道具に興味がわいた。
すると腕の魔道具はこう言うのだ。
「けどアリス、
アリスにゃあ俺やそいつがいるだろう?
それでいいじゃねえか、妬いちまうぜえ?」
“そいつ”?
ジャンのことだろうか?
アリスは、少々引っ掛かりを覚えたが、それも少々の間で、自分で結論付けるとすぐに気にならなくなった。
「うん。じゃあ、
チェシャー、一緒に来て。」
「ああ。もちろんだ、アリス。」
アリスは、今度は城を見上げるのではなく、まっすぐと見つめた。
透き通るような壁は、しかし不思議と中が見えるというわけではなかった。その翠色の城壁には、同じく翠色の扉が設けられていたが、それは開け放たれていた。大きな城壁の大きな扉は、下の方が少し土に埋もれており、長いこと開けっ放しにされているようであった。
特に人気は感じられず、鳥や動物、虫一匹見当たらなかった。風もない。
思えば森に入ったときからずうっとそうだったかもしれない。
アリスは、自分がずうっと緊張を感じていたことを、城の扉の前まで来て、ようやく自覚した。
先程、腕の魔道具が自分への協力を示してくれたことで、周りに気を配る余裕ができた。
ここは異様なところだ。早くジャンと、ここから出なければ。
アリスは一つ、大きく深呼吸した。ここは森の中よりも、いっそう懐かしい匂いがした。そして、チェシャーの顔を一目見ると、その小さな足を、一歩踏み出した。
と、それを見計らったのかは知らないが、そこで一つ、ねこが釘を刺した。
「アリス、ここからはもう魔女の国だ。
魔女は生きている時間が違う。
だからアリス、
森の外へ帰るつもりならば、魔女の国にいられるのは日が落ちるまでだ。
夜の魔法にかかったら、森の外は、アリスの知っていた場所ではなくなっちまう。」
ねこはにやにやしながらも、硬い声で言った。
「時間の流れが、違う……。」
アリスは、再び緊張感が頭をもたげてくるのを感じた。
それでも、森に入るときよりはましだった。今は自分の緊張を自覚することができている。無自覚は恐ろしい。
そして何より、自分にはこの物知りな魔道具がついてくれている。一人ではない。
独りではない。
「わかった。
ジャンを連れて、日暮れまでにここを出る。」
少女はねこの忠告を受け入れた。
アリスはチェシャーに大きくうなづいて見せると、空を見上げ、一度太陽の位置を確認した。光は少女の頭のてっぺんを照らしている。見上げた瞳に刺し込んだ日差しがまぶしい。さっと目を下ろす。そして踏み出しかけていた足を、構えていたよりも大きく、踏み出した。
扉をくぐり終えた。壁は丈夫そうな見た目通り、分厚い造りだった。
アリスは一度立ち止まった。
壁の中に入っても、やはり誰もいない。
「だれもいないね?」
アリスは言った。
「森はただの結界だから、元から生きているものはいないし、
王国の魔女は城から出ない。」
「どうして?」
「……うひひ。」
「……」
ねこは笑っただけで答えてはくれなかった。初めてのことである。
「教えてくれないの?」
「そうだな……、魔女事情、といったところだな。」
「……」
あまり取り付く島がないようだった。なにか込み入った話がありそうである。
「じゃあお城の中に入らなくっちゃね。」
アリスは気を取り直した。
先程のアリスの問に答えなかったことを悪いと思っているのか、チェシャーは、柔らかな尾でアリスの腕をひと撫でした。
城の入り口は、壁の入り口の正面にあった。
扉はやはり開け放たれている。
アリスは不用心ではないかと思ったものの、森を抜けることができないのならば、問題ないのかもしれないと思った。
「森をつくったのは魔女?」
「そうだよ、アリス。
結界を創ったのは魔女だよ。」
今度の質問には、チェシャーはいつも通り答えてくれた。
「それはなぜ?」
「……うひひ。」
と思ったが、その次の質問はまた笑われるだけに終わった。
前の笑い方と、間の取り方も音程も、そのまま同じであった。
笑うばかりの道化のようなねこだと思っていたが、ねこにはねこなりの、いろいろな考えがあるらしい。
アリスは仕方なしに、歩みを再開させた。
アリスは、自分の問に答えが得られないことがあまりなかった。アリスの人間関係の幅は非常に狭いが、祖母や両親はなにかしら答えをくれていた。それにそもそも、一度にこんなに多くの疑問を抱いたのは、彼女が今まで生きてきた中で初めての体験だった。そもそも少女は、物事に疑問を感じるということ自体、少なかった。特に、人の言動や感情には。そのため、ねこがはぐらかす理由については、頓着しなかった。
城の扉が開いているのはわかるが、その中までは見えなかった。壁から城まではそう遠くない、にもかかわらず、うっすらと翠色の光が漏れているのが見えるだけだ。
建物の中に光があるということは、今度こそ誰かいるのかもしれない。
どんどん歩みを進める。
それでもやはり、城の中が見えないのは変わらなかった。どうやら、入り口に布がかかっているようだ。
入り口にたどり着いた。壁よりは小さいが、城の扉も、とても大きい。
やはり布のような膜が入口に張っている。
アリスは切れ目を探して、うろうろきょろきょろしてみるが、見当たらない。
チェシャーを片腕に抱え直し、手探りで探してみようと、腕を伸ばした。
すると――、
「!」
アリスが指先で触れた膜が、波紋を生んで揺らめいた。
感触も布ではなく、あたたかい水のようであった。
ひょっとしたらと思い、アリスは、伸ばした腕を再びチェシャーに触れさせると、そのまま足を進めた。
ねこを抱いた少女の体は、水面に沈むように、翠の入り口へと吸い込まれていった。
一方吸い込んだ翠の膜の方はと言えば、少女を飲み込んだ後は、何事もなかったかのように、開け放たれた扉の門番を、また沈黙して務めるだけであった。
~第四章~
城内は、アリスが思っていたものとは大きく違った。
「空がある……」
アリスは、確かに建物の中に入ったはずなのに、彼女の目の前に広がる光景は、見慣れた外と何ら変わりなかった。しいて違うことを上げるとすれば、やはり、だれもいないところである。
「このお城には屋根がないの?」
アリスは、腕のチェシャーに尋ねた。
「いんにゃ、アリス。
魔女の城には屋根もあるし壁もあるよ。
お前が先程くぐったところ意外に、外に通じることはできない。」
この城の出入口は一つっきりらしい。
しかし、
「ここは外だろう?」
アリスの困惑が表れていない顔を見ながら、チェシャーはにやにやを少し深めた。
「いんにゃ、アリス。
ここは城の中さ。」
「じゃあ、これも、
魔法
?」
チェシャーは、今度は目をぱちくりさせながらにやにやした。
「そうさ、アリス。」
どこか得意げに肯定するチェシャーを見とめた後、アリスは壁に足を踏み入れる前と同じように、深呼吸をした。
懐かしい。
とても、懐かしい。
チェシャーは、ぱちくりさせた目をぐるぐる回しながらにやにやした。
「懐かしいかい、アリス?
懐かしいねえ?」
チェシャーが言ったそれは、確かめるというよりも、同意を求める声だった。
アリスは目を閉じて、確認するように、少しだけ匂いに浸った。
「うん。」
今まで嗅いだことのないくらい、ここは濃い匂いで充満していた。
それにしても、本当に誰にも会わない。
「お城の中だけど、だれもいないね?」
「ここは城内の外れだからにゃあ。」
誰かに会えるのはここではまだ無理らしい。
しかし、城に入る前と変わらぬ快晴を広げる青空の下では、森の中とは違ってやや少ない数で規則的に木々が立ち並び、その足元にはかわいらしい花が顔をのぞかせている。地面は芝生で覆われており、青々と茂って質のいいじゅうたんのように柔らかい。そよ風が吹き、枝葉や草花を優しくゆする。さらには、ひらひらりと蝶が舞い、鳥のさえずりが聞こえる。
外のようではあるとは思ったが、城の外とは違い、森の外に近い。
あたりの観察をしていたアリスは、前へと目を向けた。
そこには、城の塔のようなものが、城に入る前と同じ位置にあった。
ただし、城の外から見たときは城の一部であったが、中から見ると、塔としてそこにあるようだった。
大空を突き刺す、いや、むしろ突き抜けるようにそびえたっている塔は、城内に入ってもやはり、その先端は不思議な雲でわざとらしく覆われたままだった。
城外にいたときよりも、ここにいる今のほうが、その存在に目を奪われた。
どうしてだが、あそこが最も懐かしい匂いが濃いのではないかと思った。
塔に惹かれるものはあったが、アリスにはここに来た、大事な大事な目的がある。
「ジャンはどこだろう……?」
この広い城内の、しかも外のような創りになっている、不思議なこの建物の、どこを探せばいいのだろう。
誰かにて尋ねたいところだが、なんせ誰もいないのだ。
「アリスの探し物ならあそこだよ。」
腕の中の、この不思議なねこを除いては。
チェシャーは、尾を持ち上げて、天高く頭をもたげている塔を、指し示した。
「あそこ……、あの塔?」
「あそこさ、あの塔さ。
魔女王の塔さ。」
「魔女王の塔……。」
アリスは、好奇心だけで見つめていたまなざしを少し細めて、塔をねめつけた。それでも、彼女の表情が大きく変わったように判断するのは、難しかったが。
「チェシャーはほんとに物知りだね、ジャンの居場所もわかるんだね。」
言いながら、アリスは腕のねこを撫でた。
ねこはのどをぐるぐる鳴らす代わりに、黄金の目玉をぐるぐる回した。
「魔女王の塔には魔女王がいる、その名のとおりだね。
あの小僧は大事なお客さん、
いや、魔女王にとっては餌だから、手元に置いておくはずだぜ。」
チェシャーはどこか、少年のことをよく知っているふうな口ぶりで、そう言った。しかしアリスが気に留める様子はない。こういう子なのだ。
ともあれジャンの居場所が分かり、目的地は決まった。
魔女王の塔を目指すべく、アリスは歩き出した。
その足は、森の中を進んでいた時よりずっと軽快であった。なんせ、木々の間をすり抜けるのは森よりもずっと容易かったし、踊るようにアリスの周りをくるくる回る蝶は可憐で目を楽しませた。
しばらく歩くときの本数は徐々に減っていき、逆に花々が増えていった。
すると木々の間から、明るい景色が見えてくる。建物があるように見える。
「森かと思ったけど、林だったのかな。」
「そうだね、アリス。
城のすぐ内側は、内壁に沿うように林があるんだ。」
「へえ。」
アリスの返事は、質問はしても相変わらず淡白なものであったが、にたにた笑うチェシャーが気にする様子はない。最初に言っていたように、このねこが、この少女のことをよく知っているからであろうか。
そして、そうそう足元の草花を残しては、開けた場所に出た。
林を抜けたのだ。
そしてやはり、目の前には建物が立ち並んでいる。
「お城の、
建物の中に、また建物がある」
建物は、色とりどりの屋根、色とりどりの壁、色とりどりの扉で造られており、かといって目が痛いほどではなく、うまく調和のとれた形で、そこここにあった。
「そうだよ、アリス。
魔女たちの家だよ。」
建物のそばには、畑や牧場、飼育小屋のようなものがみられる。
「言ったろ?ここが魔女の国、
魔女の王国は、魔女の城にあるんだ。」
ねこの言葉に納得した少女は、抜けた林から進み出て、家々に近づいてみる。
「魔女のお家なら、魔女が、だれかいるということだね?」
だれも外に出ていないことに疑問はあったが、だれもいないというわけではないことに、アリスは少し安堵した。
しかし、アリスのその言葉に対して、チェシャーはこういった。
「ここには魔女がいる。
けど、“会えない”。」
アリスはぴたりと足を止めた。
「え?」
チェシャーを見下ろす。
「“アリスは”ここの魔女たちには会えないよ。」
チェシャーは淡々と、もう一度言ったが、言った後ににたあと、深めた笑みをたたえた。
アリスは困った。だれにも会うことはできないのか。
しかしすぐに、ならば、あの恐ろしい魔女にも会うことなく、ジャンを連れ帰れるのではないかと思い至った。
「じゃあ、すぐにジャンに会える?見つけられる?チェシャーはジャンがどこにいるかわかる?」
安堵の気持ちから、アリスはチェシャーに、珍しく矢継ぎ早に問いかける。
しかし、問われたチェシャーは首を振る。
「魔女王の塔にいる魔女なら、アリスは会えるよ。」
「……」
そううまくはいかないようである。
今はだれとも会うことはないようだが、塔に着いた途端、魔女と対面することになりそうだ。
アリスは顔をうつむけた。
アリスは腕の中のチェシャーを、きゅっと抱きしめた。
チェシャーはそれにピクリともしない。
その代わり、今まで何度かそうしたように、尾を使ってアリスをなだめるようにさすった。
「ああ、アリス、
怖がらないで。
怖くないよ、
言ったろ?怖くないだろう?」
笑うねこは笑うねこで、必死なようであった。もちろん笑っていたけれど。
それにアリスはうなずいていた。
少女は、表情こそ大きく変わらなかったが、足を止めてしまっていた。
「うん。うん。
でもあの魔女は怖かった。」
「それはな、アリス、
アリスは魔女が怖かったんじゃないんだよ。
あの小僧が苦しんでいるのが怖かったんだよ。
あの小僧を苦しめているのが怖かったんだよ。
あの小僧と離れ離れになるのが怖かったんだよ。」
ねこは言いつのった。
「大丈夫さ、アリス。
魔女王の塔に行けば、小僧に会える。
大丈夫さ、アリス。
俺がついてる。
な?
さ、行こう。」
チェシャーは、抱きしめられている身をよじって、執拗にアリスにすり寄った。声もなんだか、通常の少しからかうような声色よりも、優しく感じられた。
「魔女……
うん。
チェシャー、大丈夫。
チェシャーがいる、行こう。」
アリスは下を向いていた顔を上げ、まっすぐ前を向いた。
やはり彼女は表情に乏しいのだが、瞳ははっきりと、魔女王の塔を見据えているのであった。
「さ、アリス。
魔女は怖くないよ。」
再び足を踏み出したアリスに、笑うねこは笑みを深めて、最後にそう言った。
家々がアリスに近づいてくる。
窓がある。窓は開け放たれていた。だれもいないのに。
中から、しゅんしゅんと音がする。
アリスは窓にそっと近づき、そっと中をのぞいてみた。
そこからは台所が見えた。火がついており、ポットが乗っている。アリスが聞いたしゅんしゅんの正体は、どうやらこれのようである。ポットの中の水が沸騰しているようだ。
それを見たアリスは、不用心さをことさら感じた。少しの間別の部屋にいるだけかもしれないが、アリスは焦りを覚えた。
火事になってしまうかもしれない。
慌てたアリスは――しかし少し声色を固くさせただけで――チェシャーに訴えた。
「どうしよう?火事になる?誰かいないのかな?」
困り顔――には見えないが――のアリスを見て、それでもチェシャーは、あいも変わらずににたにたしているだけだった。
さらには加えて、焦るアリスとは対照的に、ことさらゆったりとのたまうのだ。
「ひひ、アリス。うひひ。
だあいじょうぶさあ。」
「どうして?」
「この家の魔女はこの部屋にいるもの。」
「え?本当?」
アリスはかかとを上げて、小さな体を背伸びさせた。よく見ようと試みるが、どうしても誰の姿も見受けられない。
「ひひひひひ。
アリスは会えないよぉう。」
するとチェシャーは、先程アリスに述べたことと、同じことを言った。
その言葉にアリスははっとした。
「……わたしの見えるところに魔女がいても、見ることはできないということ?」
アリスはチェシャーに、言葉の意味を確かめた。
「うひひひひ。
見えないだけじゃないさ。
聞こえない、
嗅げない、
味わえない、
触れない、
アリスと魔女はお互いにかかわることができない。」
アリスは納得した。
「そうなの」
どおりで“会えない”訳である。
「魔法なんだね?」
アリスはチェシャーに尋ねる。
森に入ってから、もう常套句のようになっている。
対してチェシャーも、それにうなずく。
「そうさ、アリス。」
火事にならないならと、安心したアリスは窓から離れて、再び塔へと向き直った。
歩き出すと家々の中から、よく聞くと声は聞こえないが物音が聞こえる。
まるで家の中に誰かいるように。しかし、その姿は影すら見えない。
“いる”けど、でも“会えない”。ねこの言う通りであった。
塔につくまでのお楽しみ、といったところか。まあそんなことをこの場でアリスに伝えるものがいたら、少女をこわがらせてしまいかねないが。
アリスは魔女王の塔まで、まっすぐに道を歩いていく。
アリスの進む途中には、生垣のようなもの、花園のような所、何かの店、鳴き声が聞こえる動物小屋、荷物の乗った荷車、オブジェやモニュメントといった装飾的なもの、まだ明かりのともっていない街灯、数人で腰かけられるベンチ、盆のようになった噴水、アリスの前を後ろを飛び回る虫たち、彼女の視線を移ろわせるには充分なものがたくさんあった。アリスの見たことあるものないもの、聞いたことのあるものないもの、嗅いだことのあるものないもの、たくさん。
触れこそしないものの、何か見つけては近寄ったり遠ざかったり、あっちへうろうろこっちへうろうろしながら、道を進んでいくアリスに、腕のチェシャーはそれを咎めることはせずに、にやにやにたにた、ひげをぴくぴくさせていた。
そうこうしている間にも、足は進ませていたので、だんだんと塔は近づいてきていた。道行く先々のいろいろなものに、アリスが気をとられているうちに、塔はあんなにも大きく目の前に迫っている。最初に見たときは、全体を見ることができるほどあんなに遠かったというのに。
塔が大きさを増すにつれて、自然とアリスの緊張感も膨れていってしまう。周りのものに目移りしているうちが、よかったのかもしれない。それでも少女は、足を止めることなく進んでいった。
塔がもう、天辺を見受けられないほどの位置まで進んだころには、周りには家はなく,ほかの店などもなくなっていった。そんな辺りに今あるのは、植え込みや花壇、他にはオブジェやモニュメントだ。植木は切りそろえられ、動物や立体的な図形、なんなのかはよくわからないけれど美しい形のものに、きれいに整えられている部分もあった。さらにわきには、人工的に作られたせせらぎが流れ、池のようになっている水たまりもあった。水底には美しい紋様が描かれ、波の合間から顔をのぞかせていた。また、足元は舗装されるようになり、色とりどりの煉瓦が、靴音を響かせてくれる。
アリスは再びきょろきょろとしだすのに、そう時間はかからなかった。
美しい国だと思った。
「見て、って言ってるみたい……。」
それほど美しかった。
大地主の屋敷では何も感じなかったアリスは、魔女の城の場内に入ってからは、心動かされるばかりであった。ここにあるオブジェたちは、ただ置かれている置物ではなく、ねえ美しいでしょう?見ていって、そんな声が聞こえてきそうである。屋敷の“飾り”からは、何も聞こえてはこなかった。
「これを創った者、これを見る者、
これへの思いが、これをそうさせる。」
チェシャーが静かに、しかし誇らしげに、はっきりと答えた。
そういえばこのねこも、創られた“道具”であった。
思いを受け、思いで応える。
ここにあるものは、そういう在り方でもって、ここにいるのだ。
素敵であると、アリスは思った。家に残してきた動物たちのことを思った。アリスは、腕の中のチェシャーを、そっと撫でた。すると、それに応えるように、チェシャーも、アリスの腕を、そっと撫で返すのだった。優しい魔道具である。アリスに優しくしてくれる前にも、だれかに優しくして、その優しさを返してもらっていたのだろうか。
こんにちの魔女に対する、恐ろしいという印象は、こんにち中に、ものを大切にしているようだ、との印象も加えられることとなった。
この美しい場所に、あの恐ろしい魔女がいるのだろうかと、相反する印象に戸惑っていたアリスだったが、それらの二つは、アリスの中でゆうるりとあいまっていった。
本来なら、なにかに臆することの少ない少女なのだが、“死”を彷彿させるのは、恐ろしかった。それが幾度目であっても。
だからこそ、アリスはここへやってきた。
恐ろしいが、恐ろしいからこそやってきた。
死は恐ろしいが、死が恐ろしいからこそ、その危険からジャンを救い出さなければならない。
アリスは、腕の中のねこに大変感謝した。きっと自分一人では、恐ろしさを持て余して、こんなに美しいものがたくさんあるのに、目もくれず走りすぎていってしまったであろう。
帰り、もし余裕があるのなら、ジャンにも見せてあげたいと、アリスは思った。
アリスにねこがもたらした、緊張の弛緩と恐怖の緩和は、――勇気――と呼ばれるものに違いなかった。
少女はさっと、天空を確認する。天辺にあった太陽は、ほんの少し傾き始めている。
勇気を湛えた少女は今、魔女王の塔の目の前に立った。
塔の扉は閉まっていた。
これまで、アリスがくぐらなければならなかった扉は、すべて開いていたというのに。この、魔女王の塔だけが、扉が閉められている。
この扉を開けたら、もう後には引けないと、知識も経験も浅い幼い少女でも、それを感じ取ることができた。
アリスはごくりと生唾を飲み込んだ。
勇気にすり替わったはずの緊張と恐怖が、再び頭をもたげてこようとしている。
塔の扉は、城壁の扉に比べれば、さらには城の扉よりも、小さいものだった。それなのに、言い知れない圧迫感がある。少女の恐怖がそう見せているのだろうか?
しかしそんな気持ちを振り切って、思うように動かない自分の体を半ば力任せに動かし、勢いよく扉に手を掛けた。
――懐かしい。
アリスの思考は、勇気も恐怖も塗りつぶされ、ただその一つに絞られた。
なんということだろう。
気がついたらアリスは、魔女王の塔の、扉を開いていた。
はっとしたあとも、いまだにその余韻はアリスの中に巣くっていた。
一仕事終えた夕刻、家族の待つ家の扉を開けるような、ちょっとそわそわする忙しない気持ち。
先程まで感じていた恐怖の存在も、勇気の存在も、どこか遥か彼方にあるようだった。たった一瞬だった。たった一瞬、扉に手が触れた瞬間、懐古の念に支配された。わけがわからない。
アリスは、今度こそ何度目かの恐怖を、はっきりと感じた。
慌てて扉から手を放す。
それでも、扉は開かれてしまった。
ほかでもない、アリス自身の手によって。
アリスは、恐る恐る、今まで自分が触れていた扉の取っ手へと目をやって、異変がないことを確認したが、どこかで確信していた。
問題は扉ではない。それどころか、この塔自体、だ。
この塔を目に収めてから、強い懐かしさを感じてはいたが、まさか懐かしさに呑まれてしまうとは。そんなことがあるのだろうか?まだ幼い少女が、なにかを懐かしいと感じることが、そもそも少ないだろうに。
けれどアリスは、自分が感じたそれが、確かに懐かしさであるとはっきり認識していた。自分にとって馴染みのある感情でもなかろうに、だれに教えられたわけでもないのに、だれかがそうだと教えているように感じた。
だがこんなことになってしまえば、懐旧の念も、ただただ恐ろしいばかりである。
アリスは、ドアノブから手は離せても、目を離すことができずにいた。
それでもいつまでもそうしているのも、恐ろしくてできるはずがない。
塔の扉が、再び閉ざされた。
ドアノブから離れた手も使ってアリスは腕の中のねこをきつく抱きしめると、視線を塔の中へ、恐怖を振り切るように思い切ってさっと巡らせた。
その時アリスは思わず口にした。――とうとう声になってしまった、といったところか。
「こわい。」
祖母やランプに対して懐かしく感じるときは、こんな恐怖、みじんも感じないというのに……。
~第五章~
アリスがさまよわせた視線は、すぐにある一点で留まることとなった。
「……」
アリスはもう呆然としてしまった。
驚愕で声が出ないどころではない。
恐怖で気絶してしまうなんてのも、もはや通り越してしまった。
「あ……」
見間違えるはずもない。
今日のことである。あの恐怖を忘れられやしない。
アリスの視線の先には、魔女がいた。
そう、別れてさほど時のたっていない、あの――ジャンを苦しめ、あまつさえさらった――魔女である。
アリスは瞬時に、「いやだ」と思ってしまった。声にこそ出はしなかったが、出せなかった、とも、言える。アリスのその口は開いたまま、わなわなと震えている。
アリスの足が一歩引かれる。
――でも、だめだ、そんなことは。
直接手を下されていないアリスがこうなのだ、ジャンはもっと怖いはずなのだ。
今魔女は、なにも言わず、なにもせず、ただそこに佇み、アリスをじっと見つめているだけだった。
扉から老婆の立っている、反対側の壁際まではだいぶ距離があるものの、そのことは確かにわかった。
表情は皆無。何も読み取れない。
かりに表情があってとしても、アリスは魔女の思考などわかるはずもないと思っていただろう。そうでなくても、現実アリスが、この状態では。
「っジャンはどこっ!?」
アリスは半ば、いいや、完全に、やけになって叫んだ。
恐怖で引きつったままの叫び声は、やはり引きつったままで、アリスののどを痛めた。
アリスはのどの痛みも、己の恐怖も自覚してはいたが、それに構っている暇は、もちろんない。
初めにこの老婆にあった時も、アリスは声を荒げたが、その時のアリスは正気であったとは言い難い。無意識のうちに叫び、無意識のうちに怒りを覚えた。そこにあったのは勇気ではない、あくまでも無意識だ。意識のないあの時の方がよかったのかどうかは、今のアリスには考える余裕もなければ、思いつくことすらできないわけだが。
なんにせよ今のアリスにははっきりとした意志と意識があるわけで。無意識下の怖いもの知らずと、意識下の勇気とでは、どちらが勝るのだろうか?という疑問に共感を抱いてくれる同士が、どこかにいないものか。
閑話休題。取り乱す小娘を気に留める様子もなく、魔女は一度、真ん丸な目玉をぐうるりと回すと、改めてじいっと見つめてきた。
アリスを、ではない。チェシャーを、――ランプを、だ。
それに気づいたアリスは、この期に及んでまだランプを求めているのか、この老婆は、と、恐怖をすぐさま怒りに転換させた。
アリスの怒気に反応してか、かすかに、ランプが髭をピクリと揺らせた。
ねこの動きを見て、老婆は無表情から一転、その口の端を、想定よりも明らかに上の位置まで、ごく自然な動作で持ち上げた。ぎょおろりとした目が、ぎらつきをあらわにする。
アリスはたまらなくなった。まるで全身の毛を、一本一本丁寧に逆立たせられたようだった。
気持ち悪い。
――にたあり。
魔女が、笑う。
「ひ、ひひっ、ひ。」
「……」
アリスはもう何も言えない。もう、目の前で笑っているこの老婆の、存在自体が信じられない気持ちになった。―なにを笑っているというのか。
「ひひ、ひ、……ひひっ。」
アリスとは打って変わって、こちらはずいぶん気分がいいようだ。なおも笑い続ける。こらえきれないというように。
異様な光景である。笑う老婆と、絶句する少女である。
アリスは自分が、怒りがぐつぐつと蒸気を上げ続けているとわかっていたが、それでも黙っていた。こうなったら、先に魔女の方からしゃべらせてやる。恐怖を怒気にすり替えたアリスは、どこか冷静な気持ちになっていた。
しかし魔女の方が、先手を打った。
笑いが収まったように、魔女は、一つ息をついた。
すると、
「やあお嬢ちゃん、よく来たねえ。」
――聞き分けのない小娘を、まんまとおびき寄せてやった。
魔女が放った歓迎の言葉を表すそれが、アリスにはそう聞こえたような気がした。それはもはや確信であった。魔女の先程の笑いは、自分の策が思うようにいったことへの喜びに他ならない。
魔女の口角は、依然として上がったままだ。
わざわざランプを届けにご苦労、とでも言いたいのだろう。
「ちゃあんと持ってきてくれたようだね、ランプを。」
魔女はそう言った。
次に言われる言葉は、決まっている。
――それでは、ランプを渡してもらおうか。
「それでも、ランプは渡さない!」
魔女は、目の前の少女に、己が言おうとしたことを言おうとする直前に、言いたかったことと真逆のことを言われ、少女を見返した。
魔女は意外そうに、上がった口の端を、少し下げた。黙りこくっていた少女が口を開いて、声を大にして言った言葉が、これか。
「お嬢ちゃん、お友達、返してほしいだろう。」
魔女は、少女とは逆に、落ち着いたしわがれ声で、そう言った。
「ジャンは返してもらう!ランプも渡さない!」
アリスは、言っていることこそまるで駄々っ子のようであったが、魔女の目をしっかり見つめ、相変わらず声を張り上げて、言った。
それを聞いて魔女は、弧を描いていた口を、元の無表情に戻した。
そして、目玉を一層ぎらつかせた。
「なに言ってるんだい!ランプは渡してもらうよ!
あの子どもがどうなってもいいのか!!」
「それは!
そんなことは、どちらだってさせない!!」
アリスの要求は変わらない。
先程とは打って変わって、アリスの家でのように声を張り上げた老婆に対して、アリスも負けじと声を荒げる。
魔女の要求も変わらない。
「そのランプは魔道具である!
それを知らないものには、必要のないもの!
そして、今こそ、われらにはそのランプが必要なのだ!!」
先程まで冷静さを見せていた魔女は、更に声を張り上げた。しかしアリスにとって、魔女がランプを必要とする理由は、関心に値するものではなかった。
らちが明かない。
アリスにとっては、必要なものが提示されないだけでなく、不必要なものだけがべらべらとまくし立てられる。それがアリスを焦燥に導き、ついにあふれた。
「そんなことはいいんだ!!
ジャンを返してっ!!!」
アリスの、あらんかぎりの声であった。
こんなに大きな声を出したのは、言語とをもなってでは、彼女にとっては人生で初めてのことであった。
その声に、応えるように。
「!!!!!」
魔女が、声も上げられないといったふうに、顔を、目元を袖で覆った。その顔も、うつむけるどころか背けてしまっている。
アリスが、カチューシャが、またも光を放っているようであった。
「言ったろう、アリスには俺たちがついていると。」
塔に足を踏み入れてから、珍しく黙りこくったままだったねこが、その時口を開いた。
「アリス、お前が望むなら」
チェシャーは、アリスに語り掛けるように区切りながら、ゆっくりと言った。
「そいつぁ、その声に、応えるぜ。」
「だれの、こと」
アリスが、疑問を表す言葉ではあるが、普段の冷静な声を取り戻し、落ち着いた声色で発した。
けれどアリスにはわかっていた。チェシャーに尋ねておきながら、その手を頭へと運んだのだから。
チェシャーは、アリスが頭上に手を伸ばしたのを見計らって、その腕からするりと抜けだし、足音ひとつ立てず、塔の床に降り立った。
アリスの指先が、カチューシャに、触れた。
その時、光が一層増した。
今までだって、目も開けられないほどの輝きを放っていたにもかかわらず、今となっては、もう、その目を焼きつぶす勢いにまでなった。
それでもアリスは、普段通りの彼女を保ち、カチューシャをその手に携え、構えた。
すると、光の暴走が、ようやく安定を得たというように、輝きが徐々におさまっていった。
しかしその光は、アリスの家でのように、完全に失われたわけではなかった。
減退しているのではなく、収束し、凝縮されているようであった。
変わる。
アリスは“柄”を強く握った。
そしてその望みを、強く口にした。
「道行くための道を、斬り開く。」
アリスの言葉を受けたそれは、放出し、漂わせていた光を一気にかき集め、自身の姿を形作った。
姿を現したそれは――
「――剣。」
アリスは、己の手に握っていたカチューシャを見下ろし、思わずつぶやいた。
「にひひひひ!」
一点に、剣という形に凝縮された、ぞの光の代わりに今度はねこの、やけに嬉しそうな笑い声だけが、塔の中にこだました。
そして、まき散らされていた光がなくなったのを見計らって、魔女が勢いよく顔を上げた。
魔女の視線がアリスを再びとらえ、その目玉に剣の刃が目に映った。
「おんのれええええ。
小娘がああああああああああああ。」
魔女は喚き散らしながら、眉の抜け落ちた眉間に深くしわを刻み、怒りをあらわにした。広い空間に、魔女の声が響き渡る。
対するアリスは、落ち着き払ったかんばせのままであった。
あいたいしている。
「人ごときがあああああああ。
われらの魔道具をおおおおおお、
生意気なあああああああああああああああああ。」
魔女はなおも喚き散らす。
と、思ったところで、老婆とは思えぬ素早さで杖を振りかざし、鮮やかな身のこなしで体を翻しその柄にまたがったかと思うと、宙に浮かび上がり、そのままアリスに向かって飛んでくる。
それでもアリスは先程とは打って変わって、顔色一つ変えずに、こちらへ勢いよく向かってくる魔女を、まっすぐ見据えていた。
だいぶあったアリスと魔女の距離が、一気に詰められていく。
しかしアリスは眉一つ動かさない。
ただ力強く、先程己の望みを吐露した声のままの、強い翠の瞳を持ってして、そこに立っていた。
魔女が風邪を切って飛んでくる。
魔女が片手をアリスに向かって伸ばす。老婆のまだ間は、今までにないほどぎらついている。
数刻前の少女ならば確実に気味悪がり、恐怖におののいていたはずだ。
それでも、
それでも――
魔女の腕が目前に迫る前、ようやくアリスが動いた。
少女は駆け出した。小さな両の手が柄を振り上げ、輝く剣の刃が振り下ろされる。
ねこは耐え切れないというように、これまでにないくらい口角を釣り上げた。
――斬った。
カチューシャを外した少女のざんばら髪がなびく。それは剣の光を反射して、本来の栗色を黄金色に染め変えていた。
「わたしは、進む。」
まさに一瞬だった。
刃の軌道の残像がその場にとどまり、そこからは光の粒が発生していた。
少女の背後には、床に突っ伏す老婆の姿があった。老婆はぴくりとも動かない。
不思議なことに、老婆には傷一つないが、その杖だけが、真っ二つに切断されていた。杖だったものの傷口からは、尚も光の粒が漏れ出している。
「チェシャーは口数が少ないわけではないけれど、言葉が足りてるわけでもないね。」
剣を構えたままの少女は、体から力を抜くように、そう吐き出した。
凝縮された光は、剣の刃を透明にしていた。
その透明は、そうの外の空を、静かに映し出していた。
「そういうアリスの“疑問の泉”は、ずいぶんと流量が少ないな、
いや、“好奇心の泉”かな?どっちかな?」
少女は腕を下ろして構えを解き、切っ先を下へ向けた。
「……どっちでもいいよ。」
少女は、彼女にしては珍しくため息を零すと、言葉の内容とは裏腹に、幾分か明るく言った。
黄金色は栗色に戻っていた。
~第六章~
「さすが俺たちのアリスだ。」
アリスは離れたところで傍観していた様子のねこを振り向いた。
アリスは、チェシャーの指す「俺たち」が、チェシャーとジャンではなく、チェシャーと、この剣――カチューシャであるということに、ようやく気がついていた。
「このカチューシャも、魔道具だったんだ。」
アリスの、確信をはらんで質問ではなくなってしまった言葉に、チェシャーはにんまりとして答えた。
「そうさ、アリス。」
そこでアリスは思い出した。そういえばこのカチューシャをくれたのは、祖母であったと。
しかし、魔女が魔道具を狙ってアリスを訪ねてきたというのなら、なぜこのカチューシャではなくランプなのか。
だが、先程チェシャーが言ったように、アリスは疑問も好奇心も、抱くことがあまりない。
そんなんだからアリスは、剣が魔女の杖だけを斬ったことにも、老婆が宙に浮かんだことにも、剣に変わるカチューシャのことにも、おかしな城の存在にも、ねこに変わるランプにも、しゃべるねこにも、そんなものを所有していた我が家にも、理不尽に殴られることにも、住まう地の制度にも、地主の一人息子がなぜ自分のような者のところに来るのかも、そしてなぜ乱暴するのかも、そんな少年をなぜ助けに来たのかも、それらが気にならない自分にも、これといって特に何の興味もわいてはいない。
ただ、一言。
「わたしが持ち主だったら嫌なのかな?」
アリスの言った言葉に、チェシャ猫はおかしそうに笑った。とてもうれしそうだ。
「アリスは俺たちのアリスだ。
それはなぜか?
俺たちがアリスの物だからだあ。」
笑うねこに目をやったアリスは、それを、自分が主として魔道具たちに認められていると解釈した。
そしてそれを魔道具たち、そして自分にも伝えるために、さらに言葉を重ねた。
「わたしの魔道具たちは、本当にわたしに勇気をくれる。」
アリスはそう言って剣をひと振りすると、そのまま歩き出した。後ろで倒れ伏す魔女と、折れた杖を振り返ることはせず。それをねこが追う。今度は自分の足で歩いて。
ふさふさと揺れる尾をちらりと見たアリスは尋ねた。
「上だね?」
するとねこが肯定する。
「ああ、上だね。」
アリスの目の前には階段があった。塔の扉の真正面、入ったとき魔女が立っていたところだ。魔女の姿を見とめてからは恐怖で他のものが何も見えなかったアリスは、今は階段に足を踏み出している。階段は翠だった。そういえば床も、壁もだ。
扉のあった一階はホール状になっていて、部屋も何もない、ように見える。魔法で隠されていなければ。けれどねこが何も言わないので、やはりここではないのだろう。
結局ジャンをさらった張本人からは、その居所を聞き出せなかった。ならば進むしかない。
少年にさらう価値があるのなら、いるのはこの先だろう。
――大事なものは、奥に入れときたくなるでしょう?
物置がなぜ扉から一番離れた部屋なのか、祖母に尋ねると、そう言われた。いたずらっぽく、片目までつぶって。
奥――なら、上。
振り返らず進む少女の真反対、扉の前に転がっていた折れた杖は、最後の光の粒を吐き出し、かけらも残さずに消えた。それすらも、少女の目に留まることはなかったが。
階段は塔の壁に沿ってあった。塔は円柱であったため、壁がなければ大きな螺旋階段であっただろう。
ジャンはここにいる。そう思うことで、恐怖が大半を占めていたアリスは、今は期待を感じていた。追いついて隣に並んだねこが、この手の剣が、アリスに絶え間なく勇気を与えていた。
わたしは、ジャンを連れて帰る。
アリスは今一度自分の中で言葉にした。
螺旋階段は、塔の壁に備え付けられたガラス窓から光を受けている。そこから外を伺ったが、太陽はまだ上空に位置している。アリスは再び顔を正面に向け、階段を上り進めた。一階の次には二階がある。足首をねこが掠めた。
二階へ続く階段に終わりが見えた。剣の柄を握る指先に、力を込める。
にもかかわらず、そんなアリスに対してチェシャーは足を止めることなくすたすた、いや、とてとてと先に進んでいってしまう。足音が聞こえたわけではないが。
それを見たアリスは拍子抜けしてしまいそうになった。それでも一応手の力と緊張は緩めずに、自らもねこに続く。
二階に辿り着いた。今度こそ拍子抜けした。
だれもいない。
全体的な造りは一階とそう変わらなかった。ただ、一階はなにもなかったのに対し、二階には出店のようなものが所狭しと並んでいた。
アリスは、必要なものを買いに行くときや、自分の家で採れたものがたくさん余りそうな時に売るために、市へ行くことがあった。そこと似ている。
しかし、実際に見たわけではないが、以前読んでもらった本にあった、見世物小屋の挿絵の方が、似ている気がした。小屋は布で覆われたものや木でできたものなどがあったが、どれも色鮮やかだった。
どちらも人がたくさんいて、売り物もたくさんあり、動物もたくさんいた。とても賑やかである。
しかし今、ここにはだれもいなければ、なにもない。なにも聞こえない。
「魔法で会えないだけ?」
これも、ここに入るけれど、あえない魔法なだけなのかと、アリスはチェシャーに尋ねたが、ねこは首を横に振った。
「いんにゃ、アリス。
ここにはだれもいないぜ。」
「そう。
ジャンも?」
「ああ。
ここじゃない。」
アリスは一番大切なことを聞いたが、それもチェシャーは否定した。
まだ、登らなければ。
「ここには、な。」
チェシャーが言葉を重ねた。
それを聞いたアリスは、剣を強く握った。
そして、店の合間を進んだ。反対側に、階段がある。まだ、続いている。
まだ、進む。
アリスはどんどん進んだ。店の間の道は、決してまっすぐではなく、くねくね、うねうねとしていたが、地面がでこぼこしていた、森の中よりはましである。
他のもの音のしない中、少女の足音だけが響き渡る。ねこの足音はうんともすんとも言わない。
この先にあるはずの、三階への階段は、まだ、見えない。
あか、あお、き、みどり、むらさき、たくさんの色の店たち。その配色は、一つの店でも複雑に絡み合い、なんとか鮮やかさを顕示しようとしていた。アリスが知らないような色を纏っているものもあった。
先に見えるのは店の壁ばかり。それを抜かして進んでいるので、先の先の見えないアリスが頼れるのは、すいすいと進んでいく足元のねこばかりである。
まっすぐには進ませてくれない道を、アリスはなかなか、大分進んだと思う。そしてみどりの布製の店を抜かしたところで、翠が目の前にあった。なんだかこの色は久しぶりに目にした気がする。アリスは、鮮やかな色を写し続けていた目をしばたいた。ようやく階段の始まりだ。
ねこが少女を振り返り、にんまりとした。
どうやら一声かけてほしいらしい。
「ありがとう、チェシャー。
道案内、助かった。」
「うひひっ。」
少女はねこに望みのものをくれてやった。
ねこはうれしそうだ。
チェシャーは歩調を緩め、再びアリスの隣に並んだ。
アリスが次なる階段へと足を掛けた。
そ
の
と
き
アリスは階段を駆け上がった。
手の中の剣の湛える光が一気に増す。
足を早めたまま剣を振りかざす。
階上から杖にまたがった魔女が向ってくるのを見とめたのだ。
――それも大勢。
足を早めたまま剣を振り下ろす。
刃の軌道が光となって弧を描く。
――一番先頭の魔女が落ちた。
振り下ろした刃を再び持ち上げ、素早く横に滑らす。
――さらに続く魔女の、杖が三本折れた。
剣を構え直している猶予がなくなり、振りかざす形で
――斬った。
アリスが進むにつれ、魔女たちがその背後へ、どんどん落ちて行く。
魔女の数は未だ減るところを見せない。
「チェシャー!?」
ねこはどうしているだろう?
「なんだい?アリス」
声は案外近くから聞こえた。
アリスが声のした方を見る。
そこは天井であったが。
アリスが剣を振るいながら天井を見ていると、逆さまになっていることを厭うこともせず、ねこは平然と駆けていた。そして天井から壁へと伝って、先程とは地面としているところは違えど、アリスの横へ並んできた。
ランプの姿をも持ち、言葉が話せるだけでなく、走る場所まで自分で選べるとは、まったく大したねこである。アリスは自分は階段を駆け上がりながら、たいそう感心して、刃の軌道を作り続けていた。
対する魔女たちは、なんとかアリスを止めようと奮闘しているらしかったが、ただ突っ込んでくるだけなので、すべて斬りつけてしまえばいいだけの話であった。
それだけではない。本来はただの農家の娘であるはずのアリスは、もちろん剣術などにはえんもゆかりもない。
少女がしていることと言えば、ただ、望んでいるだけである。
――進みたい、と。
剣はそれによく応えてくれていた。
意志は少女の、能力は剣の、それぞれが合わさった剣技であった。
しかしそれでも、魔女の群生は止まない。
階上から、まるで滝のように流れてくる。
「らちが明かない。」
「まったくだ。」
アリスが零した言葉に、すかさずチェシャーが、あっさり同意した。
決してたんに同意してほしかったわけではないアリスが、チェシャーに目をやった。
するとそれがわかっていたかのように――いや、実際わかっていたのだろう、このねこは。――金と目が合った。にたりとしたまま壁をけっている連れに、魔女たちを剣に任せたまま、アリスが慣れた調子で首をかしげて見せる。
「魔法は魔力。魔力は、魔女の望み。」
ねこが言った。
アリスは再び前を向いた。
望みが、力の根源であるのなら。
「それなら、もっと、強く望もう。」
アリスは願った。
「もう、現れないで。」
少女のその、いたって率直であり単純な願いに、ねこは壁面で楽しげに、にたにたと笑った。
そこから先やけに静かになった。
アリスの無駄のなく、かつ力強い望みは魔力となり、魔法として剣に働いた。少女の言葉を聞き入れた忠実な魔道具は、一瞬にしてその刀身を輝かせた。雲から雷が下るように放たれた光は、彼女の目をもくらませた。輝きは階段を照らし、窓を抜け、塔全体を包み込むように光っていたように思う。真っ白に塗りつぶされたかのように思われた視界は、目を開いてみるとなんの問題もなく普段と変わりなかった。少し拍子抜けしながらもアリスが恐る恐る周りを見回すと、そこには階段が伸びていた。
階段が見えるのだ。
先程まで魔女で埋め尽くされていた視界に、階段の先が見えている。アリスは妙に感心して、新鮮さすら感じた。なんだかすっきりした心持ちだ。邪魔なものがなくなったのだから当然かもしれないが、少女が思い当った経験としては、家族で家を大掃除した後の、あの感じであった。まさに一掃である。始め、あれ一人に手こずっていたのが、嘘のようだ。
アリスは剣を見やった。切っ先を向ける相手がいない今、輝きは失われ、代わりに透明度を見せている。
魔女の群生を剣が消す前、アリスの望んだことは「先へ進む」ことであった。その応えとして、剣は魔女を斬り倒していった。次の望みは「目の前に現れないようにする」ことであった。そして現に今、魔女が姿を見せる気配はない。
剣はアリスが願うそのつど、それに従い“行動”していた。初めから魔女のすべてを消せるなら、そうしてほしかったものだが。
ランプと言い、このカチューシャと言い、アリスの魔道具たちは、とんだひねくれ者のようだ。
そこでアリスは、ふと思った。
この者たちは魔道具だ。魔道具を使うには魔力がいる。魔力は魔女の望みだ。
――魔女の望み?
アリスは、なぜ自分が魔法を使えるのか疑問に思った。
少女は振り返り、その答えを知っているであろうねこに顔を向けた。
――そのとき、
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
アリスは響いた声に、さっと顔を向け直した。階上の方だ。
そして声の主は間違いなく。
「ジャン……!」
アリスは立ち止まらせていた足を、すぐさま動かした。
駆け上がる階段の、その先だけを見つめた。
~第七章~
少女は無我夢中で、段差を駆け上る足を動かした。
自分の幼さ、足にまとわりつく洋服の裾、上へと続く段差、先程まで気にならなかった、すべてのものがうっとうしく感じる。
はやく、はやく、はやく!
悲鳴が止んでもなお、少年の声が耳に残って体中を駆け巡って響き渡る。
急いでいるせいだけではない息の粗さも耳に届く。
握る剣すら邪魔に感じた。疑問を訪ねたかった猫の存在すら、今は頭にない。
窓の外からは、太陽の光が真横に近い位置で、アリスの頬を照らそうとしていたが、一目見る気すら、アリスには起きなかった。
息を、鼓動を、足を、早めながら、また、緩めないように必死になりながら、先へと進む。
死んでしまう、死んでしまう、死んでしまう?
必死の形相など、少女は浮辺られなかったが、吐き出す息は、彼女の方こそ死んでしまいそうであった。
階上の明かりが近づくにつれ、空気にすがすがしい清さがにじんでいるのを、アリスは無意識のうち、呼吸で感じ取っていた。
広い所に出た。次の階に辿り着いたようだった。
アリスは開けた視界の光景に、一瞬ためらいを感じた。
しかし、澄んだ空気の正体はわかった気がする。
かぐわしい芳香が、アリスの鼻先を掠めた。
――花だ。
アリスは勢いのあった足をその場で収めた。
どうしたものか。その階のすべてが、それはそれは美しい花々で覆い隠されていた。
アリスには立ち止まっている余裕はない。なんとか一歩を踏み出そうとするも、なにせ足の踏み場がない。
アリスは片足を上げたまま、その着地点を迷っていた。少女の小さな右足が、不用意にふらふらとさまよう。
文字通り花で埋め尽くされてしまっている。本来床のある場所には花しかない。
こんなところ、土もないのにいったいどうやって生えてるのかと思う。これも魔法だろうか?
アリスは仕方なく、上げていた右足を、まだ階段にあった左足の横に並べた。
よく見ると、花は床から生えているわけではないようだった。それは、細い枝が太い枝から“伸びている”ようであった。そして、花の生え際にあるのは、それもまた“花”のようであった。
アリスは足元から顔を上げ、もう一度その階全体を見てみるようにした。
階の床を埋め尽くす花は、やはり、とても大きな“花”から、新たに花として“伸びている”ようであった。
――花に花が生えてる。
床一面に群がるたくさんの花々は、床一面に広がる一つの花が養っているように見える。
花畑の、土の役割を担っているのは、なんとたった一輪の大きな花の、花びらだった。
アリスは唖然とするしかなかった。こんなに大輪の花を咲かす花畑を見たのは、もちろん初めてであったが、こんなに大きな花を咲かす植物を見たのも、もちろん初めてであった。さらに、花を咲かす花を見たのも、もちろん初めてである。それにこんなにたくさんの花を、その身一つで、こんなにも、美しく。稼業で生き物の命の世話をし、育てている身としては、信じられなかった。
もともと命をおもんばかるアリスは、さらに躊躇するしかなかった。
一向に足が踏み出せない。
ひるんだアリスは、思わず口にした。
「だめ」
するとどうだろう。
それぞれ思い思いに咲いていた花たちが、突然一斉にアリスの方を向いた。
さすがのアリスもぎょっとした。
それこそ音がしそうな勢いで、花たちは顔――と呼べるものは彼らの体にはないが――をそろってアリスに向けたのだから。
どうしたというのだろう。アリスは自らの手で握りしめた剣の存在を思い出した。斬り捨てられると思ったのだろうか?
確かにアリスの目指す、次の階段へたどり着くには、少なくとも彼らを踏みにじらなければならない――だってそうするより、ほかがないほど、彼らは生い茂っているのだからーのだから、アリスは弁明することもできなかった。
アリスがつばを飲み込む。
少女の細い首が上下した時、彼女はすばやく瞬きをした。
視界の中で、花畑を担う大きな花弁が、上下に波打った気がした。
いや、気のせいではなかった。
――花が、あの大きな花が、動いている。
花々を乗せた巨大な花弁は、なにかもそもそ、ごそごそ、ずるずる、うねうね、うごめいている。
アリスは驚いていたが、どこか見覚えがあることに思い当たった。
朝、動物の子供が、起きることをむずがるような、まだ寝床にしがみつくような、懲りずに心地よい場所を求めるような、なんだか緩慢な動きだった。
それでも、どうにかこうにか、花は巨体を動かしていた。
アリスははっとした。床が見え隠れしている。
先程まで花で覆いつくされていた床が、ちらちらとアリスに顔を見せている。
それも、その面積がどんどん大きくなっているではないか。
アリスはまた顔を上げ、階全体を見回した。
花は未だに体を引きずり、花びらを寄せて、縮こまらせてみたり、盛り上がらせたり、壁に張り付けてみたりして、どうにかこうにか床をあらわにさせようとしていた。
花の道が咲いた。
アリスは一度目をつむり、肩を上下させ一息吐き出すと、足を一歩踏み出した。
その細い足は、力強く床を踏んだ。
踏み込んだ右足の次は左足を。床が見える部分を踏んで、進んでいく。
花は、アリスの歩調に合わせて動いてくれた。
アリスは、床から床へと、飛び跳ねるように進んでいく。ときには、広い花びらの下をくぐった。不思議なことに、一つの花から咲く花は、色にしろ形にしろ香にしろ、どれも違った花に見える。
が、とても美しい。
階段へと向かうアリスを、花々は依然として見つめてくれている。
かぐわしい芳香に包まれながら、アリスは進んだ。
ようやく次の階段の前まで辿り着いたとき、アリスの視界に越えてきた花畑が見えた。
花たちはそれぞれ体を揺らし、アリスを見つめていた。
まるで手を振っているようだと、アリスは自分が家を出るときにそうしてくれた家族を思い出した。アリスは胸にこみ上げてくるものを感じたが、それが思い出した家族に向けてのものなのか、ここまで道をつくってくれた花に対してなのか、わからなかった。
こちらを見ながら、ゆらゆらと体を揺さぶる花たちを見つめ、アリスは一言つぶやくと、さっと階上へ再び駆けていった。
「ありがとう」
~第八章~
アリスは、慣れた足取りで階段を駆け上がっていた。
まだ、自分の体の周りを、懐かしいにおいとはまた違った、美しい芳香がかぐわしく踊っているように感じられた。
アリスは走りながら、階段の壁や天井を見回した。
アリスは焦りを忘れたわけではないが、自身を包む、やさしい香りで、幾分か落ち着きを取り戻していた。
どうやら、ねこを完全に置いてきてしまったようだ。
不安を覚えないわけではなかったが、ここまで来てしまった、足を緩めるわけにはいかない。せめて剣は落とすことのないようにと、先程から握る力は増している。それに、あのねこのことだから、アリスがいてほしいときには、きっといてくれる。代わりとでもいうように、剣が淡く光った気が、アリスにはした。
ジャンの悲鳴がどこから聞こえたのか――最上階に辿り着くまであとどれくらいなのか、今ここがどのくらいの高さなのか――はわからないが、一先ずアリスは次の階に辿り着いたようであった。
ようであった、と言うのは、これまでの階とその階が、明らかに違っていたからだ。
今までは、階に近づくと、狭い階段通路から広い場所に出ることになるので、多少明るさを感じる。
しかし、今はその逆であった。
階の入り口の方が、階段通路より暗い。階段横の窓から差し込む光の方が、逆に明るいのだ。
その理由は明白。
――扉がある。
それが、この階が、今まで通ってきた階と異なる点であった。
閉じられた扉が、おそらく階からの明かりを遮っているのだろう。扉を開けた階が、他の階と同じように、窓があって光で照らされているとは限らないが。
扉か。
アリスは胸中で呟いた。
一階には扉があった、塔への入り口として。
しかしそれ以降は、階段に扉などなかった。
扉は重厚そうだった。一筋の光さえ漏れていない。空気の動きすら感じ取れない。とてもその奥などうかがい知れない。
アリスは緊張を覚えた。
それでもそれに、決して恐怖は含まれていなかった。
一階の扉を開けるときとは大違いだ。アリスは思わず目を閉じた。
アリスの胸中、もしくは脳裏で、これまでの階の様子が、次々とよみがえった。まるで走馬灯だ。
アリスは目を開けると同時に、扉に手を伸ばしていた。もちろん彼女の意志に、確かに基づいたものだ。実に自然な動作だった。
アリスは扉の取っ手に、確かめるようにそっと触れると、滑らせるようにしっかりとつかんだ。
息を吸いながら、右手の剣を握り締め、左手の取っ手も固く握る。
アリスは扉に、その小さな体を素早く引っ付けた。そしてその勢いに任せて、扉を押し開けた。同時に息を吐き出す。扉が前へ進む動きに合わせて、中から光が漏れ出た。空気が動く。栗色の髪がなびいた。思わずつむってしまいそうになる瞼に力を込める。体重をかけて足を一歩踏み出す。
な つ か し い に お い 。
振り切るように扉を限界まで押し広げた。
そこは、どの階よりも、外よりも、明るかった。
あたり一面の翠色。
アリスの瞳も、翠に反射する。
そこに黒い人影が。
アリスは扉から体を離すと、さっと姿勢を立て直し、素早く右手の剣を構えた。
翠の中の、黒を見つめる。
黒が、ゆるりと首をもたげた。
それを見てアリスは、構えを解きそうになった。
黒は、決して先程の魔女などではなく。
――アリスは唇だけを動かした。まだ声を震わせるまでには至っていない。
玉のような白い肌は。
――やっと唇から出て行ったものは、声とも息ともつかぬものばかりだけ。
冠を乗せたつややかな黒い髪を浮き立たす。
――それでもアリスは、そこから言葉を紡ぎだそうとした。
強いて言えば、より、黒かった。
「お、姫、さ、ま、?」
アリスの声は、自分が思ったよりも、たいそう小さなつぶやきとなって、そこへ落ちた。
そして、アリスの言葉に対して、黒はたいそう顔をしかめた。
アリスでもわかる、そのあからさまなかんばせは、人の感情に無感動な少女ですら、不安にさせるものであった。
しかし、おとぎ話のお姫様を思わせるような、魅惑的な容姿のその、アリスほど少女ではない女は、結局なにか言うことはなかった。
何も言われない、それはそれで戸惑いを覚えたアリスだったが、どうすることもできない。
「来てしまったか、ここまで、勝手に、……ひとりで」
女が一層顔をゆがませて、吐き出すように声を発した。
それは若々しく美しい外見に反して、決して穏やかな顔と声ではなかった。
言葉を区切りながら、引きつったように音を紡いだ。それは泣きながらしゃべる少女のようでもあり、昔話を語る老いた年寄りのようでもあった。
アリスと女の間には、階の端と端ほどの距離があったが、女の声はアリスの耳に、澄んだ水のごとくよく届いた。さらに、この階は他の階よりも、一番広いような気がする。
そんな中、女の声は、まるで耳元でささやかれているように、心地よく響く。内容は、心地よさとはほど遠いものだと、わかってはいるのだが…。
表情と言葉から、女が怒りを感じていることはわかるが、普段無頓着なアリスがわかるのは、しょせんそこまでであり、追求するという発想もなかった。
なので仕方なかった。
「ジャンはどこ?」
アリスは、相手を無視して、自分の用件だけをいたって率直に述べた。
女が歯を食いしばってアリスをねめつけた。
まあ、当然ともいえる。
「こちらの手筈を、ことごとく無視しおって。」
女が声色に、さらに怒りを乗せて、吐き出す。
美貌を湛えたかんばせが、ひどい形相である。
珍しく、アリスが相手の怒気に押されて、焦りを覚える。
なので、仕方なくそれに答えることにする。
「自分が、望んだことを、行動した……」
正直に答えたにもかかわらず、自身のその言葉に、アリスはなぜか、ためらいを覚えた。
そして、アリスの言葉を受けた女が、さらに眉をひそめる。
アリスはたじろいだ。
不安の色をにじませた瞳で、女を見つめる。
怒りの表情しか見てはいないが、このお姫さまは、アリスなんかよりも、きっとよっぽど表情豊かなのであろう。
そう思うとアリスは、どこか暖かな気持ちになれるような気がするのだが、対する相手は、まったくもって、そんな気分にはなれないのだろうことが、よくわかるような態度で、怒鳴りを上げた。
お姫様の眉が吊り上げられた。
「お前ごとき人の小娘の望みなど、知ったことか!!
さっさとランプをよこして、この小僧を連れてとっとと失せろ!!!」
歯をむき出しにし、眉どころか目も吊り上げ、肩を怒らせて女は言った。
自らの美貌を自覚しているのかしていないのか、ともかくなりふり構っている様子は感じられなかった。
結局また、ジャンとランプが天秤に掛けられているわけだが、魔女に言われた時のような腹立たしさを、アリスは感じなかった。女の怒気が、あまりにもまっすぐにアリスに届いていたせいかもしれない。
ただし、アリスには怒られる理由も、ランプを奪われなければならない理由も、なにもわからないのだけれど。
よく響く声で怒りをあらわにした女は、近くにあった翠の布を取り払い、その中をあらわにした。
それを目にすると、アリスは女に怒られなければならない理由も、ランプを奪われなければならない理由も、一気にどうでもよくなった。
「ジャン!!!!!」
アリスは力の限り、その名を呼んでいた。
先程と打って変わって必死の顔を浮かべるアリスに対し、今度は女の方が表情を引っ込めた。
翠の布の下に隠されていたのは、真っ黒な檻に入れられた、うずくまる少年であった。
アリスが見間違えるはずもない、さらわれて探し求めた、ジャンであった。
少年の名前を叫ぶと同時にアリスは走り出していた。
少年は、檻の中に体を横たえたまま、ぴくりともしない。
少年が入れられた檻めがけて速度を上げて駆け寄る。
それを眺めながら、取り払った布をそのままの勢いでぞんざいに床に捨て落とした女は、澄ました顔をして、剥いた歯をみずみずしい唇の裏に隠した。
ばしりと、音が響いた。
女は目の前までやってきたアリスの頬を、打った。
その目は、ひしゃげた羽をじたばたと動かして地面の砂を巻き上げながらもがく、飛べない羽虫を眺めるようであった。
特別冷たいというわけでもなく、無感動な。その冷静さは、ジャンのように酷薄なのではなく、むしろアリスと通ずるものであったが、殴られて飛ばされた少女がそれに気づくことはできない。彼女はあくまでも、殴る側ではなく、殴られる側である。
アリスはのろのろと顔を上げた。
女は大仰な動きをしたわけでもなく、ただ淡々と少女を殴ったため、揺れた長い髪も腕から垂れた袖も、たいして翻らなかった。しかし、その濡れ羽色の美しい黒髪は一本一本が細く、ひどく繊細であることが容易に見て取れた。アリスの髪も、幼さを湛えたほそっこい髪だが、少女のくしゃくしゃとした短い栗色とは違い、女の漆黒は肩を越して優雅に背を流れていた。
少女を殴った女の動作は、その指の先に至る隅々まで、どこか気品に満ちていた。
人を殴っておいて、さも自分は悪くないような態度は、魔女と同じように見える。
ふっとばされてもなお手を放すことのなかった剣を立て、それを支えに立ち上がった。
そしてゆっくりと持ち上げると、握る小さな手に力を込める。
「ジャンを返して」
まっすぐに女の瞳を見つめる。女はその目も同様、黒を湛えていた。
アリスのその構えに、もう迷いはなかった。
女が再び顔をしかめた。
口調とやることは手荒だが、優美な所作は、気品を漂わせている。また、その狙いや態度からするに、間違いないだろう。
なによりそこに、ジャンがいる。
「あなたが、魔女王、だね。」
女――魔女王の顔は、ますます歪むばかりであった。
~第九章~
不機嫌そうに――もちろん、間違いなく不機嫌なのだろう――口をひん曲げた魔女王は、目を細めてその口を開いた。
そのとき。
「まあ落ち着け、慈風椎。」
頭上から、知った声がした。
アリスがその名を呼ぶ前に、声が上がった。
「智恵者 猫 虎模様!」
それに応えるように、不気味な笑い声を響かせながら、天より何かが降立った。
言うまでもない、ねこだ。
ねこは器用に体をよじらせながら、アリスと女王のちょうど真ん中で着地した。
するとアリスの方をちょいと振り向くと、安心させるようにふてぶてしく笑んで見せた。
「チェシャー……」
それに対して、アリスもその名を声にした。
チェシャーはアリスの顔を見ると、すぐさま女王の方に向き直った。ふわふわのしっぽがひらひらと揺れている。
待ち望んだランプが目の前にいるというのに、女王は何とも言えない顔を浮かべていた。
眉間のしわは、ほぐされずに刻まれたままだ。
黙りこくってしまった女王に気を利かせたのか、チェシャーが声をかけた。
「久しぶりだなあ、小僧を人の下に帰してやんなよ。」
前後のつながりが感じられない言葉だった。
女王はその言葉にうつむき、いらだった子供がかんしゃくを起こすように、檻を思いっきりけった。
がしゃん。
階にこだまする。
檻の中の様子に、変わったところは見られない。
代わりにアリスが動揺する羽目になる。
「ジャンっ」
女王はそれにうつむいたまま文句を言った。
「いちいちうるさいよ、子供」
アリスの方こそ文句を言いたかった。乱暴な言動はもちろんであるし、さっきから、小娘だの子供だの呼ばれているが、目の前の女だってまだ若い。生きていたころの自分の母親と比べると、目の前の女のほうだって、充分「子供」と言えるだろう。
アリスは自分と同じくらいの年の女の子とかかわるのは、これが初めてだった。実に、とんだ初めてではあるが。
「そうかカッカしなさんなって」
チェシャーが呆れた笑みを浮かべながら、ジプシー?にそう言った。悲鳴を聞きつけ、勢いでここまで来てしまったアリスだが、やはりこのねこがいると安心する。アリスは、自分の冷静さがその身に戻ってきたことを感じた。それでも目の前の女王が、それを揺さぶってきてはいるのだが。
しかし、チェシャーが続けて発したその名によって、アリスは安心を引き寄せてくれた当のねこによって、それを霧散させられた。
「手始めは自己紹介だろう、
なあ、ジプシー?
万理愛もそう、おみゃあさんに教えていたじゃねえか。」
――マリア。
「えっ」
アリスあからさまに動揺をあらわにした。それは、「無表情、無感動」のあのアリスが声を上げるほどの衝撃であった。
女王はと言えば、アリスの動揺など目にも入っていないというような様子で、うつむけたかんばせをちょいとあげ、チェシャーをねめつけていた。
アリスが大好きだった、今は亡き祖母の名は、マリアと言った。
「でも……、こんなことになったのはマリアが……」
「『でも』じゃねえだろ、
魔女王を継いだんだ、シャキッとしやがれ。」
女は、やはり魔女王で間違いないらしい。
魔女王――ジプシーの目は、あいも変わらずチェシャーを不機嫌に見つめている。だがそこにあるのは、先程までアリスに向けていた苛立ちとは違い、何やら不満そうであった。冷えた表情をしていた時よりも、大分幼く見える。本当に、「子供」みたいだった。
アリスは話が見えなかった。いや、普段のアリスなら、人の会話を聞いていたかも怪しい。だが、双方が口にした「マリア」の名が、そうはさせない。アリスは混乱した。ここ――魔女の森に来て、今は亡きその人の名を聞くことになろうとは、思いもしなかった。混乱が頭の中を行き来し、においとは関係なく、懐かしさが胸の奥から湧いた。アリスの身の内が、こんなに忙しなかったことは、これまでに一度もなかった。
チェシャーはチェシャーの方で、マリアのことも魔女王のことも知っているふうである。アリスは完全に置いてけぼりだ。加えて二人―一人と、一匹?――は何やら親しげである。チェシャーは、初めて声をかけてきたときからアリスに対しても親しげであったが、今思うとあれは誰に対してもそうである、このねこの性格によるものなのかもしれないし、そもそもアリスと女王では、人柄がまるで違うようであったため、それは自然なことなのかもしれなかった。とにかくチェシャーは、魔女王に、実の娘に接する親のような体であった。
「……」
魔女王は不満げな顔を一層ゆがめ、唇までかむ始末であった。しかし、少し黙った後、チェシャーの言葉に――反論できないのか――結局は従った。
「わたしの名は慈風椎。魔女の国の王、魔女王である。
お前のことはわかっているから余計なことは言わなくてもよい。
此度は急ぎの用で、今朝方そちにやった遣いのとおりだ。
……そこのふざけた猫をこちらに寄こせ。」
黙れと言われた挙句要求だけ飲めときたもんだ。その横暴さにアリスはいっとき自身の混乱を忘れた。
しかしすぐに気を取り直すと――
「わたしはジャンを連れ帰るために来た。」
アリスはそれだけを口にした。
アリスは、たったそれだけの言葉を言った。その瞳はまっすぐに魔女王の瞳を見つめていた。
アリスのその目は、要求を呑ませようとする女王の、ねめつけるような目とは違った。自分の思いを、思ったまま口に出しているだけの、ただただ真摯な目であった。
そこには、恐怖も混乱もない、なにもなかった。なにもないのだ。ただ純粋なだけであった。
アリスの思いがこもった言葉のその声は、澄んだ音となって塔の最上階に響いた。
響き渡ったその音が、届いたのだ。―少年の耳に。
アリスはいち早く気がついた。
「う……っ」
「ジャンっ!」
ジャンが意識を取り戻さんとしたその時、少年を囲う檻が、鋭く光を放った。
その瞬間――
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ジャン!!」
少年の悲鳴がまたしても轟いた。
魔女王は心底煩わしそうに、檻の方へと顔を向けると、懐から出したもので音を鳴らした。
それによって鈴のような音が響くと、途端に檻の輝きは消えうせ、少年の悲鳴も収まった。少年の息は荒い。
「……意識が戻らぬように魔法を仕掛けたが、いちいちうるさくてかなわん。」
魔女王は無感動にそう言うと、取り出したものを、またしまった。
アリスは、そんな魔女王に今しがた殴られたことも忘れ、一目散に檻へと走っていった。
足元のねこを、見向きもせずに通り過ぎ、目の前の黒い女も同様、目に入っていないようだった。
このままでは先程のように、また殴られるだけである。
しかし、魔女王が手を振りかざすより先に、動きを見せたものがあった。
「……っ!」
アリスの手元が鋭く光った。
――剣だ。
アリスははっとした。
剣の方は、アリスの注意を引くことだけが目的だったのか、今は輝きを収め、普段の透明度を取り戻している。
一度足を止めたアリスは、冷静になって檻の方を見た。
意識こそ取り戻したように見えたジャンだが、未だはっきりとはしていないようで、その目は閉じられたままだ。
それが確認できたアリスは、落ち着いた気持ちのまま、今度は魔女王の方を見た。
女王は面白くなさそうに、アリスとその剣を見ていた。
そして、憎々しげに、こう言うのだ。
「……ほんとうに、なぜおまえのような人の子が魔道具を持っているんだか。
ランプと一緒に、その剣も置いて行ってもらおうか」
女王の言葉に、アリスは手に力を込めた。剣を握る手に。
掌が柄とこすれて、ぎゅっと、音がしたような気がした。
殴られてばかりではいられない。ジャンを取り戻すためには、この美しい人も斬らなければならないやもしれない。今までそうしてきたように。
求める道を、斬り開くために。
しかし、冷静さを取り戻したアリスには、一つ思い当たることがあった。
この魔女は、アリスが近づいて行ってから、手を上げた。
下の階で斬った魔女たちは、みな自らアリスに向かってきた。
アリスは思った。この美しい魔女には、切っ先を向けずともよいのかもしれない。
アリスは、自分を引き留めてくれた剣に感謝した。
アリスには、なぜこの魔女王が魔道具を求めているのかわからなかったし、関心もなかったが、冷静になった今、その理由がすべての原因ならば、自分は知る必要があるのかもしれないと思った。
「では、なぜあなたはランプを欲するの?」
聞いておいてアリスは、この魔女王は答えてはくれないかもしれないと思った。女王のこれまでの態度が、アリスにそう思わせるのだった。
しかし以外にも、ジプシーはその口を開いた。
「そもそも、今までここにランプがないのがおかしかったのだ。」
それは、アリスに言っているというより、ランプ本人に言っているようであった。
魔女王はそう言って、チェシャーをねめつけた。だが、ここに来たのが初めてであるアリスには、当然その意味はさっぱりわからなかった。
「おいおい、おかしいってこたあ、にゃあだろ」
アリスが疑問を口にする前に、チェシャーが呆れたように言葉を発した。
それに女王が強く反論する。
「なにを言うか!
きさま、己がどういった存在か、わかっておろうが!」
そこに、魔女のランプへの執着が見えた。
「チェシャーは、特別な魔道具……?」
アリスは尋ねた。
「そうだ。
このねこ――ランプは、代々魔女王となる者が受け継いできた魔道具だ!!」
女王は、チェシャーに言い聞かせるように言った。
それに対して、チェシャーはつぶやきを零すようにして言った。
「別に、俺にこだわるこたあ、ねえだろうが」
魔女王は、チェシャーをにらみつけている。
ねこの笑い顔はいくらか苦いもののように見えたが、そうであってもその理由も、アリスにはわからない。
ここに来るまで、チェシャーがいろいろと教えてはくれたが、アリスには依然としてわからないことだらけだ。
「代々の魔女王が……?
でも……、チェシャーは……、ランプは……、
ずっと家にあった……。」
アリスは、自分の記憶を探りながら言った。
「ずっと……、おばあちゃんが……」
「だからっ、マリアがっ!」
女王の言葉は、半ばアリスにかぶさっていた。
「なぜなの?わたしに女王を譲ってくれたのに……、
こんなわたしに魔女王を任せてくれたのに……」
女王は畳みかけるようにして続けたが、その声はずいぶん弱々しかった。ジプシーは、自分で言って混乱しているようだった。黒い瞳が緑の床の上を、頼りなく彷徨っているのが、アリスには見えた。
普段、自分のそれにも人のそれにも疎いアリスだったが、魔女王を見て、女王をかわいそうに思った。
アリスも下を向いた。
「“マリア”は……」
「ああ、アリス。
万理愛はおみゃあの、母の母だ。」
「……そっか。」
アリスは、大切な祖母のことを思った。
アリスは顔を上げて、未だうつむいているジプシーの顔を見た。
「おばあちゃんは、魔女の国の王だった」
アリスは、出会って間もない目の前の女に、自分の知らない祖母の顔を見た。
祖母はアリスにランプの存在を教えてくれたが、魔女のことなんて教えてくれなかった。
祖母は、アリスが生まれたときからずっと一緒にいる人であったが、アリスは、祖母が生まれたときからすっと一緒にいたわけではないのだ。
ランプはアリスとマリアの秘密の存在だった。マリアがアリスにそう言ったからだ。ランプを秘密とすることで、アリスは祖母の秘密を知り共有することができた。それはアリスにとって、祖母自身を知った気になる要因になった。マリアはランプを出すとき、それは必ずアリスと二人きりの時であった。
アリスはふとジャンの顔を見た。うずくまって、顔は織に伏せた状態であったが、そのまま見つめた。
「ジャンはランプを知らなかったのに、魔女を知ることになってしまったね」
そう言ったアリスに、ジャンは反応を返した。
「アリス……」
ジャンの声を聞いたのは、もうずいぶん久しい気がした。
「おはよう」
「……ゴ挨拶なんて、随分使ってなかったなあ……」
ジャンは、のどを絞められたためか、自らが上げた悲鳴でか、声をかすれさせて言った。
ジャンは身じろぎし、顔の向きを動かした。
アリスと目が合うと、かすかに笑ったような気がした。
その笑みは、いつものあざけるものでもなく、以前見せていた純粋なものでもなかった。アリスが初めて見る、ジャンの笑い方であった。それでもジャンは、その笑みを、慣れたふうに形作って見せている。
アリスは思った。ひょっとすると、ジャンはこの笑みを普段からしているのではないだろうかと。自分が見ていないところで。あるいは、だれも見ていないところで。ジャンはこの笑みを浮かべていたのかもしれない。
そう思うと、アリスは胸のあたりに、黒い石が放り込まれたような感覚に襲われた。その石は決して大きくはなかったが、アリスに、その存在を確かに主張していた。
それは、苦しいとか、悲しいとか、切ないとか、そういった感情なのだろうと思った。アリスは人の感情にあまり関心がなかったし、そのせいか、自然に感じ取れるはずのそれらを、あまり感じ取ることができなかった。本の中に出てくる、登場人物たちが抱く感情は、物語の中で重要な役割を果たすものであったが、本の外の世界では、人々の感情をアリスに教えてくれるものはなにもなかった。人の気持ちを自分で察することの不得意なアリスは、今の自分の、それらの感情にも、適当に当りを付けたのだ。
それでもアリスは、特に関心を抱くことができないのだが。
「……どこだここは」
体を起こしたジャンが、あたりを見回しながら言った。その眼差しには、あからさまな不安の色がにじんでいる。
「よう、小僧、お目覚めかい」
必死に情報を集めようと、周囲にをきょろきょろとしていたジャンに、チェシャーが、楽し気に声をかけた。
「……」
その声を聞いたジャンが、ゆっくりとねこへと視点を合わせる。
「寝覚めの悪そうな顔してやがんな、
なんだ、怖い夢でも見たかあ?」
チェシャーがジャンをからかってくる。
ジャンは目を見開き、ねこを指さしながら、叫んだ。
「猫が喋っている!!」
アリスは、叫び声をあげたジャンを、不思議そうに眺めた。
アリスは、ランプから姿を変えたねこにこそ、多少驚いたものの、しゃべるねこには驚かなかった。ランプがねこに変わった時点で、そのランプ――ねこが、いかに不思議な存在であろうと、なにも不思議ではないと思ったからだ(もちろん、アリスのことなので、単に疑問がわかなかった、というのもある)。ただし、そう思ったのが、アリスの無意識下でのことであったため、ジャンが叫んだ内容について、逆に驚きを感じた。
女王は、叫んだ少年に対して、うるさそうに顔をしかめていた。しかし魔女王は、アリスと違って、魔道具が、森の外の人にとっては、叫び出すほど不思議な道具であることが、きちんとわかっていた。その上で顔をしかめたのだ。
チェシャーは、ジャンを見たままにたにたと笑っているだけである。いや、叫び声をあげられてからは、その笑みが、いっそう深まったようにさえ見える。ジャンも意地が悪いが、このねこも、たいがいだ。
ジャンは、しゃべるどころか、“笑っている”ねこを、指さした状態のまま、茫然として固まっている。が、驚いているのが自分だけだとわかると、さらに慌てた。
「な、なんでだよ、おかしいだろっ、
猫がしゃべったり、笑ったり!」
ジャンは自分の常識が間違いでないことを、必死で確かめようとしている。
しかし、その場にいるのは問題のねこと魔女、それからアリスであるが、アリスに常識や情緒なんてもの、求める方が間違っていると、この場でだれよりも知っているのは、ほかならぬジャンであった。それでもこの場で見知った顔は、ほかならぬアリスしかいないのだ。
だがそのことは、ジャンの不安をさらに煽り立てるだけだった。
この場で自分に共感を持ってくれるものがだれもいないことを察したジャンは、余計に狼狽えた。
「なんなんだよいったい!?」
「うるっさいねえ。
こんなうるさいのいらないから、さっさとランプをよこしなよ」
しびれを切らしたように、黒の女王が言った。
ジャンに一番近い位置にいる黒い女王に、ジャンはびくついた。女王は、ジャンのそんな行動にも、いちいちうっとおしそうだ。
「それとも、もう一度眠らせてしまおうか……」
魔女王がジャンを見下ろした。一方の見下ろされたジャンは、すくみ上ってのどを鳴らした。
「ジプシー、小僧は寝起きなんだ、いちいち相手にすんな」
チェシャーが女王を宥める。その言いようにジャンのほうは腹が立った、が、混乱の方が大きいため、黙っている。
という一連の、皆の様子を見ていたアリスは、ふと思ったのだった。自分の周りが、こんなにもにぎやかだったのは、いつぶりだろうと。アリスの家には動物たちがいたが、アリスと彼らが言葉を交し合えたことはなかった。
アリスは、決して良しとは言えないこの状況に、どこか満足感さえ感じていた。懐かしい感覚であった。
アリスは思い出していた。マリアが――祖母がいて、父母がいて、そしてジャンもいた。
マリアもにぎやかなのを、楽しそうにしていたと思う。
――なのに……
「おばあちゃんは、どうして、ランプを森の外に持って来たんだろう?」
アリスのその言葉に、いち早く黒の女が、アリスの顔を見た。事情が分からないジャンも、アリスの祖母とは顔なじみであったため、反応した。
アリスは疑問をつぶやいた後、チェシャーに顔を向けた。
「……俺は道具だ。道具は、自分を必要とするものを、持ち主とする。」
「だからお前は、わたしの下にあるべきだ!」
すかさず魔女王が声を上げる。
「なぜ?」
チェシャーが静かに、黒の女王に問うた。
「だからっ、魔法のランプは、魔女王が持つものだからだっ。
わたしは、先代魔女王であった万理愛から、女王の座を受け継いだんだ。
だからお前はわたしが持つべきなんだ」
黒の女は一つ一つ、自分でも確かめるように、そう言った。
自分の常識を確かめる様子が、アリスには先程のジャンに重なって見えた。
「“魔女王はランプを持つものだ”と、そう決めたのはだれだ?」
だれもがそう思っているのだろうか、ほんとうに?
「そ、それは……」
しかしそこに、チェシャーが鋭く切り込んだ。
黒衣の女が言い淀む。
狼狽える黒い女は、まるで臆病なジャンのようだと思った。
「でっ、でもっ」、
だがすぐに持ち直した黒の女は、やはりジャンとは違った。
お姫様のようだと思っていたアリスだが、やはり彼女は、女王なのだと思った。――というか、女王である自分を、必死で保とうとしているようだった。そこまで思い至ったアリスは、ジャンを振り向いた。
ジャンは、おびえてこそいたが、大人しく状況を見つめている。
自分に人の気持ちを推し量る技量が足りないことを自覚していたアリスは、ジャンはなにを思っているだろうと思った。
「わたしは魔法のランプがなければ女王、いや、魔女ですらいられない!!」
「え?」
黒衣の女の言葉に、アリスは疑問を抱いた。
「魔道具は魔力で使うものでしょ、魔女は魔力を持つ者……
魔女でないなら魔道具は使えない
……どういうこと?」
アリスは首をかしげた。
「お前、この魔道具――魔法のランプの力を知らないのか?」
今度はジプシーが驚いたように、アリスを見た。
「ランプであり、しゃべるねこ、では?」
「それだけなはずがあるか。
たとえばその、お前の今持っている剣――」
「カチューシャ?」
魔女王がアリスの持つ剣に目を向けた。釣られてアリスも、今は剣に姿を変えているカチューシャに目を向けた。
「変形することは、魔道具として珍しいことではない。
魔道具の本質は別にある。」
「本質」
「そう、それが力だ。」
「この剣には、なにが?」
アリスが剣を見つめる。
「お前、もう使ったろう。」
「え?」
アリスが顔を上げ、魔女王に視線を移す。
女王はもう、剣を見てはおらず、アリスの方を見ていた。
女王の美しい瞳と、視線が絡む。
「報告は受けている。」
女王は続けた。
「お前、その剣で先刻、魔女の杖だけを斬ったろう」
アリスは、瞬いた。そして、剣の軌跡が生み出した、光の粒を思い出した。
「剣を振るったら、杖が折れた。……魔女たちはわからない。」
「お前が斬ったのが杖――魔道具だけだったから無事だ。
途中で空間を斬って塔の外にまとめて放り出したらしいがな?
そもそも魔道具で殺生はできない。そういう掟だ。」
アリスは、魔法の掟についてはよくわからなかったが、決して魔女たちを傷つけることは望んでいなかったため、ほっとした。魔女はジャンを苦しめるが、それを理由にアリスが魔女たちを傷つけては、自分はジャンを苦しめた魔女たちと同じということになってしまう。アリスはそれを望まない。
アリスの安堵した顔を見た女王は、気味悪そうに顔をしかめていたが、話を続けた。
「その剣の本質(力)は“斬る”こと。
そこに、お前の思い――魔力が“魔法を断ち切る”という形で作用したのだろう。」
「わたしの……、思い……」
剣が魔道具だけを斬ったというのは、アリスが魔女たちを傷つけることを良しとしていなかったためだろう。
しかし――
「――魔力……?」
そういえば、魔女ではない自分は、どうして魔道具を使えるのだろう?
「そこのねこは特殊な魔道具でな、その場に魔力があれば、勝手に自分で使ってしまう。
けど、普通の魔道具は違う。
魔力で魔道具を操り、その本質(力)を通して魔法を使うのが、魔女だ。」
わたしは魔法を使っていた。――ということは
「まったく、お前のような人の小娘は、そんなことも知らない。
自分が魔女であることすら。」
そうか、わたしは。
「ジプシー、」
わたしは――
「アリスは魔女じゃねえよ。」
「は?」
チェシャーが、魔女王の話を、アリスの思考を遮って、女王に呼びかけた。
そしてチェシャーが続けた言葉は、今までの話の筋に通らないことであった。
当然、女王がチェシャーに反論の言葉を返す。
「なにを言っている?
マリアの孫であるこの娘が、魔力を継いでいるのは当然であろう。」
だが――
「そうじゃねえ、
とにかくアリスは魔女じゃねえんだ。
ジプシー、お前が、人の子じゃねえようにな。」
「!!!」
チェシャーがなおも繰り返す言葉に、怪訝な顔をしていたジプシーであったが、チェシャーが続けていった事柄に、その顔つきを変えた。
目を見開いた魔女王の顔には、焦りの色が見えた。
なぜだろう?
人でないならば、魔女なのだろう。
魔女王ならば、魔女なのだろう。
そこで、アリスは思い出した。先程、魔女王が自ら言っていた言葉だ。
――女王、いや、魔女ですらいられない
魔女でないなら、人だろうか。
「……ひと?」
アリスが一つ呟くと、女はびくりと肩を震わせた。
アリスはまっすぐと、その美しい女を見つめた。
その女はこちらを見たが、すぐに、顔を背けてしまった。
背ける前に一瞬だけ見えた顔は、悔しそうだった。
アリスは女王に声を掛けたかった。
しかし、掛けられる言葉は思いつかない。
初めてであった。言いたい言葉も思い浮かばぬまま、声を掛けたいと思ったのは。
だがそこで、声を発した者がいた。
いつでも自由気ままな、ねこではない。
それは意外な人物であった。
「魔女でないこいつが魔女なら、人でないその女は人だな」
ジャンだ。
「そこのねこが王に代々伝わるもので、王となったにもかかわらずそれを欲しているということは、それがないと“魔女の王”として不充分――その女には魔力がないんだな。
……ばあさんは王位は継がせてもねこは渡さなかった。
すると“魔女でない魔女王”が生まれるわけだ。
そんな魔女王が、欲するものがあるとすれば……」
ジャンはすらすらと言葉を口にした。それまでの話をまとめるように、淡々と述べた。その顔は少しうつむいて、思案気である。
そしてジャンは、持っている情報が少ないであろうに、さらにこんなことを言ったのだ。
「そのねこを所有していると、それだけで、魔力のないただの女であっても、魔女の王としていられる、
――そのねこ自体が魔力を持っているのか。」
黒い女ははっと顔を上げた。
チェシャーがにやりとして、ジャンを見やる。
「マリアが言ってたぜ、おめえは賢い子だ、ってな。」
「うるせえ、前にばあさんに直接言われたよ。
そこのばかと、おれを一緒にするんなら筋違いだ」
ばか、とは自分のことだろう。
そう、ジャンはとても賢いのだ。
悪さばかりしているが、ジャンは、恵まれた頭脳の持ち主である。領主の息子として、いくつもの習い事をしている身である。頭の回転が、とても速いのだ。
なので自分は、ばかとよく言われていた。それはアリスの家族がまだ生きていた、アリスがジャンと家族とともにあった時のことだが、今でもそれは変わらないのだろう。ばかと言われても仕方がないくらいには、ジャンは賢いのだ。
そうか、チェシャーが魔力をその身に持っているのならば、ランプを取り出したとき、その中からなにかが出てきそうだと思ったのも、そのためか。
ジャンがチェシャーを見る。
未だしゃべるねこに慣れないのか(慣れる方が特殊なのであろうが。)、気味悪そうにしている。
「それがお前の本質ってやつだな。」
「俺は魔力を地位とばかし、預かっているだけだぜ。」
「……その辺はよくわかんねえが、
それなら確かに、ねこを持ってるのがこいつじゃまずいか。
――このままだと、魔力もねこも持っていない女じゃなくて、魔力もねこも持っている、このがきが王になっちまうな。」
ジャンが思案気な顔のまま、アリスを見た。
女が上げた顔で、アリスを睨み付ける。
「そんな……」
アリスは困惑した。
祖母が、自分が、魔力をつかえることですら、今しがた知ったことであるというのに。
けれどジャンの言うことは、きっと、理に適っていることなのだろう。
当惑するアリスに、チェシャーが言った。
「いいや、魔女王はアリスじゃねえ。」
そして黒衣の女を見た。
「魔女王はおめえだろ、ジプシー。」
ねこは相変わらずにやにやしている。
アリスは一度、ジャンの顔を見た。ジャンはチェシャーを見ていた。まだ何か考えているようであった。
今度はジプシーの方を見た。
魔女王の表情はおそらく苦しげであった。
けれどわからない。
マリアがランプを持ち出した理由も、チェシャーが女王に伝えたい理由も、ジプシーが苦しく思う気持ちも、ジャンが考えていることも、アリスにはなにもわからない。
関心がないから。
わかろうとするという、概念が、そもそもアリスにはなかったのだ。
けれど今のアリスは違った。
わかりたいと思う、自分の気持ちがある。今のアリスにははっきりとわかった。
アリスは、自分が感じた自分の思いのまま、考えた。
アリスは、マリアのこと、マリアがこの魔女王にランプを渡さなかったこと、チェシャーのこと、チェシャーが言ったこと、ジャンが思い至ったことを、頭の中に巡らせた。
マリアは、自分が魔法を使えて、魔女王であったこと、そしてアリスも魔法を使うことができることを、アリスに一切、話したことはなかった。
なぜ?
もう、マリア本人に、それを訪ねることはできない。
では、なぜ?
アリスは、いくつもの“なぜ”を考えた。
けれど、アリスは答えを見つけることができない。
なぜなの?おばあちゃん――
なにも言うことができない。
アリスは思った。自分に答えが出せるのだろうか?人の気持ちに共感することのできない、自分に。
「アリスはアリスだ」
そこに、金属のこすれる音とともに、小さな声が放たれた。
アリスがそちらに目を向ける。
ジャンがいる。
アリスとジャンの視線が重なる。
ジャンは檻の柵を握って体を寄せながら、こちらを見ていた。
アリスは一つ瞬いた。
わたしはわたし。アリスはアリス。
わたしはアリス。
ならば、わたしはアリスの気持ちなら、真っ先にわかるはず。
だって、わたしはアリスなのだから。
~第十章~
アリスはこの女を、“魔女王だ”と思った。それが何より魔女王だということなのではないのだろうか?
「ジプシー、」
アリスがジプシーを呼んだ。
苦しげにうつむいていた女が、アリスを見た。
この女もまた、考えていたのだろう。
「ジプシーは、魔女王だから魔女王の塔にいる。」
アリスは自分がなにを言おうとしているのかわからなかったが、自分の行き先を知らずとも流れに身を任せる川の水ように、話し始めた。
「ジプシーは、魔女王だから、森の外に遣いを向かわせた。」
水は自分がどこへ向かおうとも、自分が川であることを知っている。だからアリスも、自分の内から、たどたどしくも流れ出ていく言葉に身を任せた。
「ジプシーは、魔女王だから、国の魔女たちとわたしを会えなくした。」
アリスは、しゃべることを自分の口に任せたまま、それでも必死で考えていた。考えることをやめては、自分がアリスであることを、忘れてしまいそうだったから。
「……ジプシーには魔力がないから、魔法を使ったのは国の魔女?」
「……そうだ。」
黒い女は目を伏せて、静かに答えた。
それを聞いたアリスは一呼吸した。
アリスは、自分の口が、自分の言うことを聞かずに勝手にしゃべっているような、そんな気さえしていた。
「ジプシーは、魔女王だから、国の魔女は協力してくれる。」
黒い女は、アリスを見つめたまま、とぎれとぎれ錘がれるその言葉を、黙って聞いていた。
「ジプシーは魔女王だから、魔女王……」
アリスの言葉は、そこでいったん止まった。
アリスには感情がよくわからなかった。それは自分のものであってもであったが、自分の考えや思ったことは、わかる。
もう一度ジャンの顔を見る。
ジャンはただ、黙ってアリスを見ていた。
ジャンから黒い女へと、ゆっくりとまた顔を戻す。
「ジプシーは、おばあちゃんが魔女王にしたから、魔女王になった。」
「……ああ。」
女がアリスに返事をした。
「ジプシーは、国の魔女が魔女王にしたから、魔女王になった。」
「え?」
黒の女が驚いたように声を上げた。
「王は、国が――民がいなければ、王でない。」
「そう、だ……」
黒の女がアリスの言葉に頷く。
「なら、
どうして、おばあちゃんは、国の魔女は、ジプシーを王にした?
どうして、国の魔女は、ジプシーに協力する?」
アリスはさらに続ける。
「おばあちゃんは、魔女だから、魔女王になった?
ジプシーは、どうして魔女でないのに、魔女王になった?」
女はアリスから目をそらし、うつむいた。
「王は民も魔力も所有しない。なぜなら……」
ジプシーは口を開いた。
次の言葉は、アリスとジプシー、二人の声が重なった。
「王は民の“信頼”だけを所有する。」
アリスは言った。
「民の信頼を持たない王を、民は“王”としないはず。
魔女王であることは、魔女であることじゃない。」
黒い女はそのことを知っていたのだ。わかっていたはずだったのだ。
「ジプシーは民の信頼を所有している。
だからジプシーは魔女王なんだ。」
女が静かに目を伏せた。
「……それは、マリアが教えてくれた。」
その顔は美しく、穏やかだ。
きっと、マリアのことを思い出しているのだろう。
ジャンが、黒衣の女の顔を横目で見上げて、言った。
「あんた、魔法より、大事なもんが、あるんじゃねえの?」
女が再び顔を上げる。
その瞳はまっすぐに、煌めいていた。
アリスは美しいと思った。
「ジプシーはジプシー。
ならば、
ジプシーは魔女王。」
ジプシーが、笑った。
「まったくだ。小娘の言うとおりだな。」
ジプシーは明るい声で、おかしそうにはははと笑った。
その顔は晴れやかで、自身に満ちあふれた“王”の顔つきをしていた。
やはり、アリスは美しいと思った。
~第十一章~
ひとしきり笑った魔女王―ジプシーは、その美貌に笑顔を湛えたまま、先程取り出した道具を、再び懐から取り出した。その時は、音は鳴らなかった。
それは鍵であった。
魔女王はその鍵を使って、少年を閉じ込めていた檻を開けた。
恐る恐る檻の扉をくぐったジャンに、今度こそアリスは駆け寄った。
少年の、本来品のいいはずの洋服は、少し汚れていたが、アリスは気にならなかった。むしろ、気づかなかった。
少女の顔は、珍しくはた目から見てもおそらくわかるほど、安堵の表情を湛えていた。
そんな少女を見て、少年は少女の頭をわしづかみ、強めに押さえつけてから、その手を離した。
それを見届けたジプシーは、美しくも苦い微笑をアリスに向け、言った。
「ごめんね。」
アリスはジプシーを振り返った。
「わたしは捨て子だったんだ。人の。」
がしゃん。と、ジャンが檻を鳴らした。
アリスがジャンを振り返った。
「……人が魔女の国なんかにいるんだ。……そういうことだろ。」
震える声で呟いたジャンの顔色は、ひどく青いものだった。
だがその顔は、かすかに笑っているようであった。ここで目覚めたときにアリスが見た笑みだ。アリスはどうすればいいのかわからなかった。
ジプシーは続けた。
「マリアに――魔女に拾われた。赤ん坊の時、魔女の森の中で。」
「森の中……?」
アリスの言葉にジプシーは頷いた。
ジプシーは笑っていたが、アリスには苦しさが感じられた。
「魔女の森には魔法がかかっているせいで、魔力を持たない者の歩みを妨げる。
しかし、森の中に置いて行かれたわたしは、森から追われることなくそこに留まった。」
「魔法にかからなかったんだな。」
顔色を悪くしたままのジャンが言った。
「そうだ。」
ジプシーが頷く。
アリスが問う。
「そして、おばあちゃんに拾われたの?」
「ああ。」
ジプシーはそのまま続けた。
「万理愛――魔女王に拾われたわたしは、そのまま魔女の城に連れていかれ、魔女の国で育てられた。
自分が人に捨てられたという話は、物心ついてから、すぐにマリアに知らされた。
その時に魔女が調べたところ、わたしは当時の地主の不義の子であったらしい。
邪魔になった赤ん坊は、人目の付かない、人々に恐れられる魔女の森に捨てられた、というわけだ。
マリアは誠実な人だった。包み隠さずわたしに事実を述べてくれたよ。ほかの魔女たちにも同様に、わたしが人の子であることを告げたうえで、ここで生かしてくれた。
それはわたしにとってうれしいことだった。今もそう思っている。なぜなら、それはわたしと魔女たちの間には隠し事がないということだからだ。
わたしは外から来た。そんなよそ者のわたしを受け入れてくれたこの国が、わたしは大好きだ。
だから、マリアがわたしに魔女王を任せてくれると言った時、わたしは本当にうれしかった。大好きなこの国を、わたしが守るのだと思った。
けれど、だからこそ同時に、魔女でないわたしが魔女王になることに、わたしはわたし自信に憤りを覚えた。
大好きな魔女の国の王が、魔女でない、よそ者だなんて。
そしてわたしは、いつしかそれが自分から生まれるばかりでなく、民からも生まれるだろうと思った。人の子が、魔女の王になど、なれるものか、と。」
そこで一度、ジプシーは息を吐き出した。
「だから、わたしは自分の魔力が欲しかったんだ。そのために、魔力を蓄えている、魔法のランプを手に入れようとした。
それを得ることで、魔女になろうとしたんだ。」
そう言うと、ジプシーはさらに苦い笑みを自身の顔に浮かべた。
「しかしそれなら疾うに、魔力のない弱いわたしは、魔女たちの手によって国の外に放り出されているはずであった。」
そこで、ジプシーの笑みが、少し困ったもののように変わったのが、アリスにはなんだかうれしかった。
「わたしはとっくに、魔女たちがこの国に住まわせてくれたその時から、
魔女だったんだな。」
ジプシーは、からっと笑った。
その笑みにアリスは、自分が知っている祖母を見た。
「わたし――慈風椎に魔力はない。
けれど、この魔女の王国で育った魔女である。」
ジプシーは自信を持って、そう述べた。
「ジプシーは、魔力がなくても、魔女王になれる?」
アリスが最後に、ジプシーに問う。
「ああ。」
ジプシーが答えた。
この人には、祖母の魔女王としての思いが託されている。
今のジプシーならば、きっと応えてくれる。
そして、ジプシーはチェシャーの方を振り返った。
「魔法の力なしに、魔女王の座を勝ち取ったわたしに、
魔力や魔道具は必要なかったな」
ジプシーは少女のように笑った。
その笑みは年相応にも見えたし、容姿より幼くも見えた。
とにかく、アリスがはじめ見た硬い表情も、凍えるような感覚も、今のジプシーからは感じなかった。
「にひひ。」
チェシャーは、安堵したように見えなくもない笑みで、おなじみの表情をジプシーに返した。
そこで、黙って話を聞いていたジャンが、少し不思議そうに言った。先程の笑みはもう、どこにもない。顔色ももう、戻っている。
「ばあさんは、魔女のくせに人が好きだったのか」
「マリアは……、そうだな、変わった女だったからなあ、にひひ。」
おかしそうに答えたのはチェシャーだった。
「確かに、ふざけたばあさんだった……」
ジャンは疲れたような顔をして言った。
チェシャーが続ける。
「人嫌いの魔女に反して、あいつは人に興味津々だったな。
だからこそ人との間に子を生み、その子がまた子――アリスを生んだ。
ジプシーを拾って来た時も、他の魔女たちはたいそう嫌がったが、マリアが全員説き伏せやがった。」
「……まさか、“人”が受け入れられたのは、わたしが初めてなのか?」
ジプシーが驚いたように、チェシャーに問う。
「……まあ、魔女の城の中の話だとな。」
チェシャーが答える。
すると、すかさずジャンが疑問を口にした。
「そもそも魔女が人嫌いって、人が魔女を恐れているんじゃなくて?」
ジャンの質問意欲は、アリスの無関心とはほど遠い。
「……それは……」
ジプシーが困って言い淀んだ。
代わりにチェシャーが口を開いた。
「魔女事情というやつさ。にゃひひ。」
「また……、それ……」
答えにはなっていなかったが。
アリスが何度もそうされたように、また、チェシャーにはぐらかされてしまったようだ。
解消されなかった疑問に、ジャンは不満そうな顔をしたが、結局はなにも言わず、考え込むそぶりを見せた。
「まあとにかく、マリアが変わり者だったおかげで、
ジプシーは魔女として、
アリスは人として
過ごしているってこった」
チェシャーはにやにやと笑いながら、そう言った。
しゃべるねこを、うさんくさそうに見ていたジャンを、アリスは逆に不思議に思った。
「?
おばあちゃんは、
人が好きで、魔女が好きで、
どっちも仲良くしたかったから、交ぜっこにしたかった、
ってことでしょう?」
アリスの言葉に、その場の誰もが沈黙した。
一方のアリスは、首をかしげるばかりであるが、そんなアリスの頭を、ジャンが上から押さえつけた。
「なんて単純なやつっ!」
どうしてか、ジャンが、実に不満そうな声を上げた。
それに反して、ジプシーが声をあげて笑った。
「はははっ、さすがマリアの血の子だ!」
ジプシーの笑い声は美しかったが、なぜ笑っているのかわからない。
「ま、そういうこったな。」
チェシャーが満足そうに、にやにやとそう締めくくった。
なにはともあれ、これで先代魔女王――おばあちゃんが望んだとおりになりそうだ。
アリスは、もう会うことの叶わない祖母へと、思いを馳せた。アリスは今、自分を誇らしく思っていた。
「さあ、もうすぐ日暮れになる。慌ただしいが、これからおまえたちを、人の下へ帰す。」
ジプシーは、痛み止めの薬湯をジャンに呑ますと、間髪入れずそう言った。
アリスは、剣としての役目を終えたカチューシャを、頭に戻していた。
「こちらの事情で迷惑かけたが、勝手な話、
わたしは、おまえたちに会えてよかった。」
アリスは、カチューシャの位置をジャンに直されながら、ジプシーにそう言われたことを素直にうれしいと思っていた。
だが、ジャンはそうもいかない。初めに、なにもわからないまま痛めつけられ、人質にされ、連れ去られた。散々だった。そして性格もあってか、根に持っているようだ。
からからと笑うジプシーを不満げに見ているが、怖がっているのか、黙ってぶすくれているだけである。
「魔力もないのにどうやって?」
ただ、もう嫌味にならないことがわかっていながら、嫌味のようにそう言っただけだった。
「ほかの魔女に魔力を借りているんだ。
さっきの、檻の魔法もそうだが、
鍵を創って、それを使って、借りた魔法を操作している。」
「檻」と聞いて、自分が閉じ込められていた忌まわしい存在を思い出したジャンは、思い切り顔をしかめた。
それを見ておかしそうに笑うジプシーは、ジャンにした仕打ちを、あまり気にしていないかのか、もともとそういう性格なのか。似た性格の人物を、アリスもジャンも、よく知っていた。
「ジプシー、お前、ちょっと見ないうちに、マリアに性格が似てきたな。」
それは、この場にいる誰もが知る人物であった。
「そうか?
そうだ、マリアの血を継ぐ者よ、あの方の最期はどうであった?」
ジプシーは、チェシャーの言葉も、さして気にするふうもなく、首をかしげて見せるだけに留め、アリスに話しかけた。
ジプシーにとってマリアは、親も同然なのだから、やはり気になるのだろう。
アリスは話した。
「長生き、楽しかった、って」
「そうか。」
アリスとジプシーの会話を聞いていたジャンが、尋ねた。
「そもそも、ばあさんがあんたを拾ったのって、いつのことなんだ?」
その問いに答えたのはチェシャーだった。
「マリアが俺を連れて森の外に出たとき、あいつぁ十四と言っていたぜ。」
「はあ?そんなのおかしいだろう?
それじゃあこの女は、いったいいくつなんだ」
ジャンがジプシーを指して言った。
ジプシーは十五、六に見える。
「魔女の国と森の外では、時の流れが異なるのだ。
だからお前たちは、早く帰らねばならない。」
「ここの方が時間が遅いってことか?
じゃあ森を出たら、周りにいた人たちがみんな、年寄りになってるってことか!?」
ジャンが慌てて言う。
「ああ。だが、時の魔法が作用するのは、日が暮れてからだ。その日の内の、日の出ている間に戻ったならば、過ぎた時は森と外、どちらも同じだ。」
ジプシーはそう付け加えた。
ジャンはほっとしたのもつかの間、不満を訴えてくる。
「はあ?なんでそんなややこしい理?」
「それはわたしにもわからない。」
「だいたい、なんなんだよ、
魔女の森とか、国とか、なんでそんなもんが造られたんだよ。」
ジャンが癇癪を起こすように言い募る。
ジャンの疑問も尤もだと言うように、ジプシーは一息つくと、少しだけ教えてくれた。
「……魔女が国をつくるに至った理由は、魔女の人嫌いに由来する。森も同様。」
「……人嫌いなあ、
人が魔法を怖がって、魔女を恐れるならわかるけど?」
疑問が一向に解消されないことに、不満を募らせていくジャンが、さらに問を重ねて、ジプシーを横目で見た。
「その話は遥古までさかのぼる。
これは魔女の間では知っていて当然のことだが、人がどこまで知っているのか、わからない。
……だが、そ奴が聞かせることを良しとしないのであれば、耳に入れるべきではないのだろう。」
ジプシーはチェシャーの方を見た。
チェシャーは、会話をジプシーに任せることにしたのか、相変わらずにやにやと笑っているだけであったが、話さないようにジプシーを見つめている、ように見えなくもない。ただ、今まではぐらかしてきたところを見る限りでは、おそらくアリスたちに聞かせたくないのであろう。
「というより、本来だれよりもその話を詳しく知っているのは、そ奴のはずなのだ。
もともと初代魔女王の魔道具であった、そこの、
魔法のランプ――智恵者 猫 虎模様が。」
「にいいやあ」
チェシャーが、どこか得意げに笑った。
「げっ、お前、どれくらいなのか知らねえが、とんだオンボロってことじゃねえか」
ジャンのチェシャーを見る目が、さらに悪化した。
「にゃっひっひ」
対するチェシャーは、実に楽し気に、笑みを浮かべていたが。
「……そっか。チェシャーはとっても長生きなんだね。すごいね。」
「そうじゃないだろう!お前はなんでそんなにのんきなんだ!」
唐突にしゃべったと思ったら、そんなことをのんびりといったアリスに、ジャンが声を荒げた。マリアとともにいたころと、変わらぬジャンの物言いに、アリスはうれしくなった。すると、眉間にしわを寄せたジャンの手によって、頭を押さえつけられてしまうわけだが。
「では、そろそろ見送るとしよう。
詫びもかねて手厚くもてなしてやりたいのは、やまやまなのだが、
森の魔法のこともあるし、
なにしろ、本来魔女は人嫌いだ、
人の子であるおまえたちを、あまりここに留めておいて、民を不安にさせるわけにはいかない。」
ジプシーはすまなそうに言った。
「ほかの魔女たちに会えなくしたのは、そのため?」
「そうだ。
少し大がかりな魔法になったが、
他の魔女たちとお前たちとの接触を避けるには、これが最も確実だった。
普段はわたし以外の魔女も大勢、魔女の塔を利用しているのだが、今は近づくことを禁じてある。」
アリスの問いに、ジプシーが答える。
「わたし以外の人の子に合わせることで、魔女たちが不安を感じることを、避けたかったんだ。」
ジプシーの言葉に、アリスは頷いた。
「嫌われてるってんなら、さっさと出て行ってやるよ。」
残る疑問の答えを教えられなかったことへの当てつけか、ジャンがわざわざそう言った。
「魔女にだって、嫌いなものや、好きなものがある」
それに対してアリスはそう言ったのだが、ジャンにはため息をつかれてしまった。自分では、当然のことを言ったつもりであった。
「まあ、そういうことだ」
ジプシーは、アリスの言葉に肯定したが、困ったように笑った。
「すまないな。ゆっくり話もしたいのだが……
もう、会うこともないだろう。」
「ジプシー……」
アリスは思った。ジプシーは、きっと、寂しがってくれている。
「さあ皆、そこに立て、森の外へ、ひとっ飛びさせてやる。」
ジプシーは、そんな己の寂しさを紛らわすように、そう捲し立てた。
ジプシーに案内された奥には、床に、模様のような、文字のようなものが散りばめられた、よくわからない塊が、描かれていた。
「中央に寄るんだ」
ジプシーの指示に、アリスはチェシャーを抱え、ジャンとともに、言われた場所に並んだ。
塊は、アリスたちがその中に足を踏み入れた時から、らんらんと光を湛えていた。
照らし出された湿り気のある空気の中、最初に切り出したのはチェシャーであった。
チェシャーは、なんてことないように、相変わらずでいる。
「じゃあな、ジプシー、達者でな」
「ふん、せいぜい、その者たちの他の者に、見つからないようにしろよ。このポンコツ魔道具めが」
ジプシーも、慣れたようにそう言い返す。
そこへ、チェシャーはさらに言った。
「マリアに連れ出されてから、もう会うこともないと思っていたんだが、
会えてよかった、わが友よ。」
ジプシーはチェシャーのその言葉に、はっとしていた。
マリアはこのランプのことを、“友人”のように接していた。チェシャーにとっても、マリアは友人だろうと思う。そして、それはジプシーも同様であった。
ジプシーはうれしそうに見えた。
「血を引く者よ、この口の減らない悪友のことを頼んだぞ」
ジプシーは照れ臭そうに、アリスに言った。
アリスの方は、表情一つ変わらない、いつもの無表情であったが、確かに、大きく頷いていた。
ジプシーは、アリスのその返事に、満足げに一つ微笑んだ。
そして、チェシャーと交わした言葉で、踏ん切りがついたのか、ジプシーは今度は、ジャンに向き直った。
「悪かったと思っている。
だがわたしも必死だったんだ。勝手なことだとは分かっているが、
でも、魔女のことを、どうか怖がらないでほしいとも、思っている。」
ジプシーは伏し目がちにそう告げた。
アリスはジャンの顔をうかがった。
アリスは思う。ジャンはたぶん、怖がりだ。この時、アリスは自分の胆が据わりすぎているのだとは思いつかない。どちらにせよ、アリスでも、魔女を、魔法を怖いと思ったのだ。そういえば、アリスもチェシャーに、ジプシーと同じようなことを言われたが、ジャンはそんなアリスより、よほど怖かったことだろう。
しかし、ジャンは、ジプシーにこう答えた。
「わかっている。」
アリスは驚いていた。
だってジャンは――
「けれど、あんたが大切なもののためにやったこと、ちゃんとその大切なやつらに分かってもらわないと、
“人と同じ結末”を迎えるぜ」
ジャンは震えながら、そう言った。
「そんなに怖がっているのに、忠告までしてくれるのか」
「オレはまじめに……!」
「わかっている……」
茶化すジプシーに、ジャンが食って掛かる。
「“革命”だろ」
しかし、神妙な態度で言ったジプシーの言葉に、ジャンは頷く。
「まさか、お前のような小僧が知っているとはな。
人はとっくに、なかったことにしているものかと思っていたぞ」
ジプシーが感心してそう言った。
「なに言ってんだ。革命で革命者は王を討った。
革命があったからこそ、人々は“王”をつくることをやめたんだろうが」
ジャンが言った。
「わたしは、知らないよ」
「お前は学がないからな!」
アリスの言葉に、ジャンは少し偉そうに言った。
「なるほど。お前が賢く、その探求心に見合った環境で暮らしていることはよくわかった。
……ならば、私たちが話さなくても、お前は魔女の国がある理由に、触れることがあるかもしれんな。」
ジプシーは、ジャンにそう言った。
ジャンはジプシーのその言葉に、少しつまらなそうな顔をしながら、自身の少しくせのある黒髪をなぜた。今ここで教えてくれればいい、そう思っているに違いない。
「あまり触れ回ることではないとされている。魔女にとってはつらい話だからな。」
だれかを嫌うということは、嫌われるのと同じように、つらいのかもしれない。こんな森の中に、ずっと、だれも寄せ付けず、閉じこもってしまうほどには。
ジプシーはそういうと、今度はアリスに向き直った。
アリスも、ジプシーを見つめた。
「懐かしかった」
アリスは言った。
「それはきっと、お前の中に流れる魔女の血が、そう言っているのだろう」
ジプシーは言った。
「そのなつかしさが、怖かったこともあった。」
アリスが言った。
「そうだ。魔法は、怖いことを起こすことができる。それを忘れてはならない。」
ジプシーが言った。
「うん」
アリスは頷いた。
「……いつか魔女がみんな、人を好きになってくれるときが、きたらいい。」
アリスは言った。
「……そうだな。」
今度はジプシーが頷いた。
いつしか、すべての魔女が人嫌いでなくなったならば、魔女の森の魔法が解かれる日が、くるかもしれない。ジプシーがアリスたちを、魔女の王国に招いてくれるかもしれない、マリアのように、いろいろなお話ができるかもしれない。アリスは思った。
ジプシー顔は寂しげであったが、その目は未来の希望を見据えているように、アリスには見えた。
そんなジプシーに、アリスは言った。
「ジプシーは、ジプシーでいて。」
ジプシーは、にっこりと笑った。
「アリスも、アリスでな。」
そして、ジプシーはアリスに抱きついてきた。
抱えているねこがアリスのお腹を押さえつけたが、気にならなかった。
アリスはジプシーの突然の行動に驚いたが、いやではなかった。
マリアも、よくこうしてくれた。
アリスは、塞がっている両腕をジプシーの背に回す代わりに、頬を擦りつけた。
ジプシーは暖かかった。
そしてジプシーは、アリスから離れると、笑顔でこう言った。
「さらばだ!アリス!」
「うん、ジプシー!」
アリスも精一杯それに応える。
ジプシーが床の塊の外に出る。
すると、床から放たれていた光が、一気に増した。ジプシーが魔法を発動させたのだろう。
アリスたちは、すぐにその光に包まれた。まぶしい。すぐに何も見えなくなった。ジプシーも、魔女王の塔の部屋も。
「ごめんね。ありがとう。」
最後に聞こえたのは、ジプシーのそんな言葉だった。
まったく異なる声なのに、ジプシーのものだとわかっているのに、なぜかアリスには、それがマリアの言葉に聞こえた。
まぶしさが収まったのを感じ、アリスは目を開けた。そこで初めてアリスは、自分が目をつむっていたことに気がついた。
目を開けるとそこからは、自分が生まれ育った、よく見知った場所が見えた。
「うわあああああ!」
すぐ隣のジャンが、突然大声を上げた。
「本当に戻ってきてる!」
ジャンは、あたりを確認しながら、そう言った。
そう、戻ってきたのだ。
ジャンがそう叫んだことで、アリスも実感できた。
戻ってきたのだ。魔女の王国から。
ふと、あたりが茜色なのに気づいたアリスが、空を見上げた。
日は傾き、太陽は既に藍色を引き連れている。夜の気配も近い。
「時間内に戻ってこれたな。」
腕の中のねこが言った。
相変わらずのにやにや笑いだ。
どうやら夢だったということでもなさそうだ。
「うわ!?夢じゃなかったのか!!」
ジャンがまた叫んだ。
「ジャン、帰ろう」
騒ぐジャンを気にしたふうもなく、アリスがジャンに言った。
「わかってるよ、アリス」
ジャンはそれに、不機嫌そうに答えた。
「にゃひひひひひ」
チェシャーが、機嫌よさそうに、不気味な笑い声を上げた。
暮れなずむ中、家路を進む少女と少年の影が、地に落ちていた。
少女は振り返った。
しゃべらないはずのねこが笑い声を上げる中。
木々が静かに立ち並んでいる。
そこには、“魔女の森”と呼ばれる、森がある。
~第十二章~
「あ、」
アリスは声を上げた。毎朝やっていることのはずなのに、アリスはこうも毎度毎度、まるで初めて出くわしたことのように、あっけにとられることができる。なんの自慢になるかはわからないが。
まだ昇りきっていない朝日に照らされた、短く波打つ栗色の髪を風に遊ばせながら、、アリスが、座っていた飼育小屋を囲っている柵から、見上げる形をとった草色の視線の先にあるのは、切り分けられた一枚のトースト。
ただしそれは、もちろん先ほどまで彼女の手にあったものだ。
アリスは、視線はパンに向けたまま、彼女が声を上げた原因を作ったはずの名を、とがめるように、しかしこともなさ気に、相変わらずつぶやくように呼んだ。
「ジャン」
ジャン、と呼ばれた少しくせのある黒髪の少年は、己の名を呼んだアリスに対して、一先ず、元から寄っていた眉間のしわをいっそう深くして、アリスをひとにらみした。加えてアリスの手にある食べかけの薄っぺらいパンへ視線移すと、そのままそれを取り上げようと、した。
「おいおい小僧、そんなことしたら、アリスがちっこいままになっちまうだろぉ?」
ジャンを止める声がした。
ジャンが声のした方、足元を見ると、そこにはアリスに寄り添うように座り込む、ねこの姿があった。
ただしそのねこは、気持ちの悪い笑みを、その顔に張りつかせている。
ジャンは舌を打った。
「猫のくせに説教かよ」
「チェシャーは、長生きだし、物知りだからね」
アリスがなんでもないことのように言って、手にあるパンに、かぷりと嚙り付いた。そのままもぐもぐと咀嚼する。
そんなアリスを見ると、ジャンはまた一つ、舌を打った。そのあと、アリスの頭をぐりぐりと押さえつけた。カチューシャの位置が、少しずれた。
「むぅー」
アリスが声を上げた。
「……なんだよ」
「食べてるのに」
「知るか」
「こらこら」
アリスとジャンの会話に、最後にはチェシャーが止めに入る。
森の前に戻ってからの、次の朝の光景だ。
ジャンは相変わらず、アリスが少ない朝食をとっている時間に来ては、アリスにちょっかいを掛けてくる。
しかし、笑うねこがついているおかげで、度を越えた行いには至っていない。
今までも、人命にかかわる事態は起こってはいなかったが、当然、被害がないに越したことはない。
アリスは思い出す。
そうだ、家族が生きていた時には、いつも、アリスの家族――主に祖母――がジャンを止めてくれていたのだ。
アリスは自分の足元を見た。
チェシャーは変わらぬ笑い顔を浮かべていたのを、アリスと目が合うと、それを一層深めた。
アリスの前に立っていたジャンが、アリスの隣に腰かけた。
「家庭教師が一人、辞めたんだ」
ジャンが言った。
「急だったんで、まだ新しい教師が見つかっていなくて、」
ジャンはゆっくりとした調子で話した。
「家で朝飯食ったら、今日はまた来るから」
ジャンは最後に、そう言った。
アリスは、ジャンが話している間、ずっとその顔を見ていた。
「習い事ができたから、あんまりうちに来れなかったんだよね?」
アリスは、ずっとそうだと思いながらも、本人に聞いたことのなかったことを、聞いてみた。
「そうだよ。
地主になるんだ。
そのために勉強してる。
時間があるってんなら、ここに来てる。」
ジャンの言う「地主」という言葉の響きは、現領主が、自らの権力を振りかざすために使っている言葉の響きとは、違って聞こえた。
ジャンの顔は、うっすら笑っていて、アリスはその笑みを、「寂しそう」だと思った。
「うん。わかった。」
アリスは頷いた。
そして、続けてこう言った。
「お母さんが作ってくれるおやつも、お父さんが弾いてくれる曲も、おばあちゃんが聞かせてくれる物語も、
もうないけれど、
わたしが、待ってるね。」
「……うん。」
アリスが言った言葉に、今度はジャンが頷いた。
ジャンのその顔は、笑っていた。
以前、アリスの家族と、アリスとジャンがともにいたときに見ていた笑みであった。
それを見たアリスは、嬉しくなった。
ひょっとしたら、その時アリスも、笑っていたのかもしれない。だってジャンが、少し照れくさそうな顔をしていたから。
「チェシャーもいるしね。」
「にひひ。」
パンを食べ終えたアリスが、手とスカートをはたいて、チェシャーを足元から抱き上げた。
「そうだな。」
「にゃひひ。」
ジャンは頷きながら、ねこの頭をぐりぐりとなぜた。
「もう行かなきゃ。」
ジャンが柵から降りた。
「ジャン、」
背を向けて、家路をたどろうとするジャンの背中を、アリスが呼びかけた。
ジャンが足を止め、アリスを振り向いた。
「おはよう」
ジャンは目をぱちくりとさせた。白い頬が、姿を現し登ってきた朝日に照らされている。
「おせーよ!」
ジャンはアリスに言った。
「おはよう、アリス。
助けにきてくれて、ありがとう。
またな!」
ジャンはそういうと、帰路を駆け出して、行ってしまった。
駆けていくジャンの黒髪は彼がきる風になびいていた。
とある国の女王も、美しい黒髪をその身に持っていた。
ただし彼女の髪はまっすぐで、ジャンの緩く波打った、くせのある黒髪とは違った印象だったことを思い出す。
アリスからその顔が見えなくなるまで、ジャンは笑っていた。
きっと自分も、笑っているだろう。
昨日はいつもと違う日だった。
今日もいつもと、少し違った。
明日からは――
いつもと同じだけど、違う、
少しずつ、違う、
そんな“いつも”がやってきそうだと、
アリスは思った。
アリスは腕のねこを地に下ろした。
朝食を終えたアリスには、次の仕事が待っている。
家族が自分に遺してくれた仕事が。
でも大丈夫、今の自分にも、ジャンやチェシャーがいる。
「あははっ!」
アリスは笑った。
自分の顔が笑っているのが、自分で分かった。
「笑ってんのが、一番さ。
なあ?」
薄汚れたスカートをひるがえし、張り切って仕事に向かう少女を見送ったねこが、小さく一つ、呟いた。
その声は、空色のカチューシャを日の光に煌めかせた少女に、聞こえてはいなかった。
ねこの顔は、とある森の方を向いているように思える。
ねこがだれに言ったのかは、わからない。
一人の人の子の、栗色の髪を、朝日が黄金色に照らしていた。
~終章~
むかし、むかし、この世界には“王国”がありました。
しかし、国王が権力を振りかざし、民の“信頼”をないがしろにしたため、「革命」が起きました。
国王は、「革命者」によって討たれました。
「革命者」は「英雄」と呼ばれ、人々の喝采を浴びました。
ところが人々は、国王を討つほどの“力”を持つ「革命者」が、国王になることを恐れました。
「革命者」は「英雄」から一転、「魔女」と呼ばれ、人々から虐げられました。
悲しくなった「魔女」は、人を嫌い、とある森に逃げこみました。
そして「魔女」は、「魔女」になった原因である“力”を、しまいこんでしまいました。
それから、「魔女」を見た人は、だれもいませんでした。
ありがとうございました。