記憶の街
28世紀末。世界ではとある病気が蔓延していた。
ただ、その詳細は正式には明かされていなかったが、人々の間ではこう、言われていた。
「どうやら記憶がなくなるらしい。」
政府は大掛かりな政策を立ち上げた。
その政策を指導したのは、私の国の、国父、と呼ばれている人だったそうだ。
なんでも一箇所にその病気の患者を集めようというのだ。
そのプロジェクトに各国の代表は、両手を上げて歓迎した。
そして、第一の街が作られ、それはBellek Dunyaと呼ばれた。
どうやら異国の言葉で記憶の街と呼ばれていたと知ったのは、随分と後になってからだ。
一つの街で事足りるであろうと楽観していた政府は、爆発的に増えだしたその患者の数に驚きを隠せなかった。
そして、とある国の軍事に関わる高官が病気にかかったことを知り、
恋人に何も告げずに自殺した、という事件をマスコミが労働環境の劣悪さを訴え出して
初めて、同じような街をいくつもいくつも作り出した。
そして私は、その第五の街へ収容される最終便に乗っている。
ガタゴトと揺れる時代遅れのガソリン自動車に乗りながら、私は窓の外を見ていた。
生憎の曇り空は、私の心を表す、といえば文学的ではあるが、残念ながら私の心は晴れ渡っていた。
以前の街にいた時は、地縁血縁関係が強い、狭いコミュニティーで、
その中に突如として引っ越してきた私の家族は異分子だった。
学者だった両親のような異分子に優しい社会などというものは幻想で、
私の両親が他界したあとは必要最低限のこと以外は、誰と話すこともなく村のはずれで暮らしていた。
病気の感染源というものが何かはわからない。
鬱々としていれば自然とかかるものというわけでもなく
――勇気を出して隣に座る人に聞いてみたらその人の人生は私の真逆で――
他の人の話を聞くともなしに聞いていると、特定の何か、というものは見つかりそうになかった。
ただ、人々は政府を信頼しているし、政府がこうだ、といえばそうなのだろう、と思っていたようだ。
私のいた村もそうだった。国父様の命令だから、と私を探す憲兵を、ご丁寧に私の家の前まで案内した。
今思えば、あれはきっと私を厄介払いしたかった、という意味でもあったのだろう。
しかし、私は抵抗をした。
「やめてください! 私は、何も……!」
「来るんだ。」
憲兵はそう言って私を引きずろうと手を延ばす。
「君も国父様の命令に逆らうなどということはしたくないだろう?」
そう、国父様は‘絶対’にして‘神聖’と思われていた。
誰もその素顔をはっきりと見たわけでもないのに、信じられていた。
指導者であり、国の英雄であると。
その歪んだ考えに、私は疑問を抱いていたし、それが原因かと思っていた。だが、違った。
「君も、何かを、忘れてはいないかい?」
憲兵は低い声でそう言った。私は目をどんぐりのように見開く。
「どうして、それを。」
「来るんだ。」
もう一度言われる。
「君のような人を集めた街へ連れて行く。」
そして、私はこの車に乗っている、というわけだ。
「そういえば、」
隣の裕福で朗らかな紳士は私に声をかけた。
「君はどこの出身かい? 僕は首都だと言ったが、君のいたところは聞いていなかったね。」
私は一瞬ためらってから、口を開く。
「__という村です。」
そうかそうか、あそこは良い村じゃないか。そう言って紳士は会話を切り上げてしまった。
村そのものが悪い、というよりは辺境にあるので、誰も知らない村なのだ。
仕方がないか、と少し私は息を吐いた。
ガタゴトガタゴトと、今時珍しい舗装されていない道をガソリン車は走った。
紳士が言うには、こういった道路はガソリン車の方が良いらしい。
リニアモーターと呼ばれる、宙に浮くらしい車を想像していた私はそれを聞いたときがっかりしたが、
なるほど、このように舗装されていない道では磁石はうまく使えないだろう。
憲兵が一度外に出たら、他の街まで何キロもあると話していた。
親の残した本の中にあった陸の孤島、というわけだ。
殺人事件などでも起これば面白いのに、と不謹慎にも考えたところでガックンと体が前に飛び出す。
どうやら大きな石を乗り越えて、揺れただけだったようだ。
憲兵がそれを確認して、数分後、再び車は動き出した。
「ようやく、街だ。」
街は思っていたほど荒んでいなくて、どちらかといえば首都に近い。そう紳士は言った。
私は首都を見たことがないからよくわからないが、
なるほど、私のいた村よりはだいぶ、いや結構栄えている。雲泥の差、であろうか。
その豊かさは目を見張るばかりであった。
「すごい、果物が、大きい。」
窓の外を流れていく店に、私は歓喜の声をあげた。
「確かに、首都でもあれほどの大きさのものは出回らないね。」
紳士も肯けば、ほかの乗客も口々にうちの町では、私の村ではと始める。それほどに、栄えていた。
隔離されている、ということが嘘のように、栄えていた。
私たちは興奮していた。至る所に見え隠れする危険を知らせるサインなど、
街に来たばかりの私たちには見えていなかった。
「降りろ。」
憲兵がガソリン車のドアを開ける。レンガか敷き詰められた道に降り立つ。
周りを走る車は全てガソリン車だった。
「リニアモータはないのですか?」
「余計な口を聞くな。」
憲兵に睨みつけられた。
「早く行かねば、我々も【病】に罹る。喋っていないで、急げ。」
運転席の憲兵は怒鳴る。【病】? なんのことだ。
問おうにも、問える人はおらず、その憲兵の言葉に誰もが動けなくなっていた。
「我々が、何らかの感染病にかかっているというのかね。」
紳士が声を震わせた。
「そうだ、だから隔離されるんだろ。そんなこともわかんねぇのかよ。」
面倒臭そうに運転席の憲兵は答え、私たちに降りるように命令した憲兵は怯えた表情を見せる。
と、紳士の顔が豹変した。私は怖くなって荷物を抱えて走る。
後ろからは怒鳴り声と、聞きなれない、花火のような音がした。
後先考えずに走っていたおかげで、初めての街において迷子になるというのは必然、であろう。
私は迷子になった。当て所なくただがむしゃらに歩いていても、お腹も減るし、
何よりなれないところに来て一日目、である。
どうしようもなくて、私は元来た道であろう方向へ戻りかけた。
その時、私は【彼】に出会った。
【彼】はそれはみずぼらしい格好をしていて、手足をだらりと投げ出し、道路の脇に転がっていた。
世捨て人のような生活を送っていたため、人を観察する目は育っていないと思う。
そんな私でも、最初は【彼】が関わってはいけない人だ、と思わせる何かが【彼】にはあった。
しかしながら、私の意に反して、足はどんどん【彼】の方へ進んでしまう。【彼】の前で立ち止まった。
「何、してるの。」
年上にも、年下にも見えず、同年代のように感じて、私は訊ねた。
ううっという低いうめき声に、半歩下がる。
もう半歩下がろうか、この人を無視してしまおうかと悩む数秒の間に、
【彼】はよろけながら立ち上がった。
「騙しているのさ。」
「何を。」
「国父を。そして、この街を。」
意味が分からず、やはりこの人に関わるべきではなかったと悔やむ私の肩を【彼】は掴んだ。
「ここに来て一日目、大方誰かが殺されるところを見た。
そして自分もそうならないように逃げてきた、というところか?」
目を細めて私を見た【彼】は、私が来た方角を見る。
「そして、この俺に助けを求めに来た、と。いいだろう。力になってやろうじゃないか。」
なんだか突然偉そうに振る舞いだした【彼】は私の荷物を奪うように取ると、
私の手首を掴んでズンズンと歩き出した。空はだいだいから群青へ変わろうとしていた。
「君はどうしてこの街ができたか知ってるかい?」
【彼】の住処に連れてこられた私は、開口一番にこれを聞かれた。
「さっき、【病】から隔離するためだって、憲兵さんが言っていたわ。」
私が言うと、【彼】は笑いだした。外は暗くなりつつある。
隣の人、というものを私は考えたことはないが、いるとすれば迷惑ではないだろうか。
「憲兵なんて、憲兵でいいのさ。さん付けするような奴らじゃない。
それにね、奴らは知ってるのさ。俺たちがなぜここに入れられているのか、という本当の理由をな。
それを暴くために、こうしているんだ。」
「どうして私を巻き込んだの。私じゃなくても、」
よかったじゃない。そう続けようとすると、し、と唇に人差し指が当たる。
「記憶をなくしているって話は知ってるだろ? で、俺もそのうちの一人なわけ。
だから、俺の記憶を探すのも手伝って欲しいんだけど、どうも君のことを見たことがある気がしてさ。」
「人違いじゃないの?」
「んー、そうとは思えないんだよね。」
そして、ばっと離れる。
「しばらく生活するアテもないんだろ?
ここにいなよ。掃除とか料理とかしてくれるとありがたいんだ。」
「なんで、無理やり連れてこられたのに、そんなに命令ばっかりされなきゃいけないの? やめてよ!」
私は思わず大きな声を出してしまい、口元を押さえた。
「そうだな。君にはいくつか選択肢がある。」
【彼】は指を三本出した。
「一つ目は、憲兵に殺される。二つ目は、ここの異常なシステムに組み込まれる。
三つ目は、俺と一緒にここの謎を暴く。」
さぁどれにする? と聞かれて、私は三つ目を選ぶしかなかった。
【彼】との生活は意外と楽であった。朝出て行く【彼】を見送り、昼頃一人で昼食をとり、夜に寝る。
【彼】は朝早くに出かけて、夜遅くに帰ってくる。
不審がって一度ついて行ったことがあったが、大抵は新しく連れてこられた人の会話を盗み聞きしたり、
憲兵にご飯を貰いに行くときに――ここではお金を稼ぐ手段のない人は憲兵にご飯を貰うのだ――
その彼らの話を聞いていた。だが、一日ついてまわっただけでも、多くのことがわかった。
この街のことは勿論、街の外のこと、首都のこと、郊外のこと。
入ってくる情報は様々で、【彼】の情報量も呆れかえるものだった。
そして人々に情報を売って、お金を稼いでいる、と言っていた意味がようやくわかった。
それほどにここの街では情報がものを言う世界に変わっていた。
街の外の情報であれば、今どんなモノが流行しているのか、首都の話であれば、
――私はそのどちらもよくわからなかったが――政治がどうの、インフラがどうの
郊外であれば、今年の作物の収穫高や日照りなどの天候、
そして街についての様々な――何処の店が安いか、からこの街の来歴まで――様々な情報が
【彼】の中にあった。わからない、未知である、ということは怖い。
人々はそれが何であるか、ということがわかれば安心する、というものなのだ。
その点について言えば、【彼】の生活は中々いいもので、成功していると言えよう。
平凡な日々を過ごすうちに、この街の異質さを忘れていたが事件はすぐそこまで迫っていた。
この街で開かれる【ゴリョウサイ】という祭りに、国父が直々にやってくるというのだ。
「それ、本当だと思う?」
「ちょうどそれを君に言おうとしてたんだけど、聞いてたか。」
【彼】は頭をかいた。
「君は本当だと思うかい? 俺はそうは思わない。何か別のものが来る気がする。
荷物を一応まとめておこう。いつ逃げる必要があるか、わからないだろう?」
そう言うと、大股で部屋を横切り、リュックサックに荷物を詰め込む。
「ねぇ。そういえば、聞きたかったこと、聞いていいかな。」
「なんだい? 答えられるなら答えるよ。」
荷物を詰める手は止めずに、彼は言う。
「ここの人って、あんまり自分が残してきた家族とかの話をしない、とか聞かなかったりするんだけど、
なんでだろう。何か引っかかるんだ。私は親兄弟いないから、墓の状態を聞いても仕方ないし、
なんとも思わないんだけど、おかしくないかな。」
【彼】は一瞬黙って、それで話しだした。
「……多分、思い出しても国父様の命令と聞いて喜んでここの人を差し出した人しか覚えてないんだろう。
そういう嫌な記憶は聞かないに限るでしょ。」
それもそうか、と思う。確かに私も村の話をそれほど聞きたいとは思わないし、
と考えたところで大きい爆発音が響いた。
「マズイな……。急いで荷物をまとめろ! 早く!」
「わかった。」
私も走って持ってきたカバンに荷物を詰め込む。
用意が出来ると、二人で入口近くに二人で荷物を置き、大通りへ走った。
大通りは人で賑わっていた。そして、パレード――あとであれはパレードのようだった、と
近くの人が言っていたから、きっとパレードというものなのだろう。
未だにどんなものかはわからないが、――が行われていた。
大きなガソリン車を派手にデコレーションし、大きな音楽を鳴らしながら
ゆっくりとしたスピードで道を走っていた。
それは目を奪われるほどのもので、すごい、と形容するしかないような、そんな様を見せていた。
「なんだか怪しい。後ろで見ていよう。」
【彼】は言う。首肯し、後ろで見ていると、男の声がどこからか響いた。
「親愛なる我が国民よ、僕は今日、この街に来た。
そして皆々を観察するに、皆々の病状があまり良くないことを改めて思い知らされた。」
一つのガソリン車から男が降りてきた。【彼】は眉をひそめる。
「あ、あの人……。来るときに一緒で、憲兵に歯向かった人だ……!」
私のつぶやきを【彼】は見過ごさなかった。
「それ、ほんと?」
「うん。私にすごい話かけてきたからよく覚えてるし、なんか破裂音がしたから……、」
そこまで言ったところで、憲兵の一人が騒ぎ出す。
「なんでてめぇが戻ってきてるんだよぉ、患者がこんな事していいと思ってんのかよぉ。」
すると紳士は笑う。
「ははっ、君らの方が国父様国父様と、まるで病気のようじゃないか。
僕に忠誠を誓うなら、もっと別の人に頼むね。」
そう言うと、周りをニッコリと見渡した。
「え、じゃあ、あの人が。」
「そうとは見えないねぇ。」
「患者って言われてたぞ? どういうことだ?」
住民は口々に言う。
「ねぇ、どうする?」
私は【彼】に訊ねていた。【彼】は黙ったままであった。
「皆々に罹った病気は、実は国家秘密級レベルの人工的に創られたウィルスでね、
皆々実験体、ということさ。でもね、皆々を治そうと思う。」
笑顔で言った紳士は、さぁ、と手前の女性の手を引いた。
女性はふらふらと彼についていこうとした。私は【彼】を見る。
食い入るようにその様子を見る【彼】は、しばらくして口を開いた。
「どこか、おかしくないか?」
「何がおかしいの?」
街ができてから既に何年も経っている。
ワクチンの研究をしていた、として完成してもおかしくないと思うのだ。
それに、ちら、と女性の方を見る。
「そうね……、そうだったのね!」
歓声を上げて群衆の中に入り、友人と思われる女性に抱きつく。
「思い出したわ! 全部全部ね。ほら、あなたも。」
その女性の言葉に、誰もが我先にと紳士の元に駆け寄る。
「皆々、そのように慌てずとも、全員分のワクチンを用意してきましたからね。
もう大丈夫です。さぁ、この街から出て元の場所に帰りましょう。」
私は、再び演説を始めた紳士から、【彼】に視線を戻した。
「どこがおかしいか、説明してよ。」
「そもそも薬を一本打っただけで記憶が戻るなんて話、聞いたことがあるか?
何かの病気にかかって、もしくはショックで記憶を失う事例は、昔から報告された来たが、
その逆は聞いたことがない。おかしいだろ。」
そう言うと、【彼】は人ごみを掻き分けて【彼】の住処に戻ろうとした。
「だったら、」
私は【彼】の背中に声をかける。
「もう少し様子を見てから決めたほうがいいんじゃない?
どんな記憶が戻ってきたのか、周りに聞くことも出来ると思う。」
不服そうな顔をしたが、【彼】は何も言わずに戻ってきた。
人々は口を揃えて記憶が戻った、と言った。
だが、その戻ったらしい記憶は様々であった。
恋人のこと、家族のこと、飼っていた動物のこと、自分の仕事、本の内容、政治家の話、と
本当に些細なものから、本人にとっては大切であろう記憶まで、なんでも含まれていた。
「記憶を特定して、それで治す、なんて聞いたことがない。どうなっているんだ。」
【彼】はぼそりと呟いた。すると、周りが一斉にこちらを向く。
「この方、まだワクチンをもらっていないみたいですよ。」
最初にワクチンを打った女性が叫ぶ。すると、周りの人が手を伸ばし、私と【彼】を掴もうとした。
「走れ!」
伸ばされた手が届くそのほんの一瞬で、私たちは走り出した。
住処に戻り、だから言わんこっちゃない、とばかりにこちらを睨んできた【彼】は、
急いで荷物を持つと扉を開けようとした。
「待って。絶対あの人たちはおってきてると思う。この家って裏口とかなかったっけ。」
「ない。」
あっさりと切り返され、扉を開けると、しかし誰もそこにはいなかった。
「え、出来すぎてる。」
「誘導でもされているようだな。」
不機嫌そうに言うと、【彼】は右手に走り出す。
街の中心部に向かってどうするのか、と思うが、一人で逃げ切れるとも思えずにそのあとを私は追った。
ここに来るまでも、そして来てからも、ロクに運動をしたことがなかった私は、直ぐに息切れした。
ぜいぜいと肩で息をしながら、彼を追うが、どんどん離されていく。
彼がどこかの角を曲がった。多分このへんだろうと適当に検討をつけて曲がると、
そこには紳士が立っていた。
「久しぶりだね。」
う、あ、と言葉にならない声が口から出て行く。
後ろに少し動くと、紳士も私との距離を縮めてきた。
「どうしたんだい? 記憶を取り戻して、みんなで一緒に首都へ帰ろう。」
首都へ帰る? と私は訝しむ。
私の村は首都とは全く違う、辺鄙な所で、私は帰りたいとも思っていない。
そもそも、あの村にいても、何もないだけだ。
一生あの村にいるくらいなら、まだ【彼】に文句を言われながらここで生活したほうが何倍もマシだ。
「首都へは帰らない。」
すり足で一歩下がる。
「どうしてだい。」
一歩、距離を詰められる。あと少しで元々走っていた道、と思ったところで、ガシッと肩を掴まれた。
「来なさい。」
「だから、私は首都からなんて来ていないの。それに、あの村に帰りたいとも思わない。
あなたにガソリン車の中で言ったじゃない。」
笑顔を崩さず、紳士は言った。
「どうやら本格的に私も【病】らしいな、そんな重要なことを忘れていたなんて。
皆々首都に帰る、と言っていたから、全員首都から来たと思っていたよ。」
その張り付いた笑顔が、ずい、と近づく。
「来るんだ。次はないぞ。」
掴まれた腕を払おうとしても、所詮は男女で力の差がある。
私は思いっきり後ろを振り返ろうとして、何かに当たった。
「何足止めくらってんだよ。」
【彼】は言うと私の肩の手を払い除けた。
「おっと、王子様の出番か? いや、実に結構だ。二人まとめて打ってしまえ。」
紳士の後ろに控えていた、注射を持った人々が出てくる。彼は走れ、といった。
「なんで、私だけなの。」
「とろいからだよ、行けってば。」
背中をぐいと押されて、私は走り出した。
【彼】がついてくると信じて、ただ闇雲に走り回った。
時折、私や【彼】を探す声が、路地裏に響いてきた。
それでも、怖いからといって止まるわけにはいかなかった。
走っていくうちに私は、どこかで同じ状況を見た気がした。
......................................................
「走れ!」
「書類は燃やしたな?」
喧騒の中、私は父に手を引かれ、走っていた。どうやら母は後からくるようだ。
なぜ走っているのか、書類を燃やしているのか、幼い私にはわからない。
だが、必死に父のあとを走っていく。石に躓いた。父が私を抱き上げる。
赤い炎、烟る黒煙、人々の叫び声。
「「いたぞ!」」
その声に私は現実に引き戻される。そして横の路地に飛び込む。
向かう先は中心部。移動できるガソリン車の一台や二台、あるかもしれない。
運転をしたことはないが、大丈夫であろう。何故か、【彼】が先にいる気がした。
「大丈夫だよ、母さんが車を運転してくれる。あと少し走ればいいんだ。」
父はそう言って追っ手を撒きながら走っていた。学者であった父は、
走る事はお世辞にも早いとは言えなかったが、それでも私を抱えて必死に走っていた。
どこか、大きい広場に着いたようだ。
「研究所が燃えている!」
「何か危ないものが出てこないだろうか。」
人々はそう叫ぶと、家の中に戻り、それきり出てこない。
「こっちよ!」
母の声が聞こえる。父はそこにたどり着くと、車の扉を閉めた。
「リニアモータじゃないの?」
幼い私は母に問いかける。
「これから行くところはね、そういう車ではいけないところなの。」
「ぼやぼやするな、乗れ!」
手を引かれ、【彼】に車に引きずり込まれる。
やはりその車はリニアモータなどではなく、時代遅れのガソリン車で。
「リニアモータじゃないの?」
私は再び運転席を向く。
「そんなお高い車、ゴロゴロあるわけないだろ。」
あの時と、ここに来る時とは全く違った答えに、どこか安心している私がいた。
長いこと走っていたからか、私は夢を見ていた。
最初に見たのは、小さかった頃に、こっそりとのぞき見た両親の背中で、
その頃の私にはよくわからない話をしていた。
カイバ、ダイノウ、ソウキ等、今聞いてもわからない。
だが、両親は喜々としてそれを話していた。な
ぜそんなに嬉しそうなのかわからなかったけれど、両親が笑っていたので私も一緒になって笑った。
びっくりした顔の両親。場面が変わる。
その次に見たのは、車に乗っていたところだった。
「この子が今日を思い出す日はあるのかしら。」
「どうだろうね。」
父が走っていたこと、母の運転は幼稚園の送迎のバスよりも丁寧なこと、
ちゃんと覚えているよ、と言いたかった。でも、今こうして眠りにつくまでは忘れていた。
また場面が変わる。あの村に来てしばらく経ってからのことだ。
「おまえ、しゅとからきたんだってな!」
「とーちゃんからきいたぞ!」
同級生に言われて、でもどこが首都か、なんていうものは知らなくて、
そのようないじめにはどうしたらいいかわからなくて、泣いてしまった。
泣かなくていいよ、と言いたかったけれど、そんなことを言っても幼い私に聞こえるはずもなく、
家に帰って母を困らせていた。
場面が突然暗転した。周りが黒い。ああそうか、ここは両親の葬儀だ。
大雨が降った次の日、両親はほかの大人たち数人と一緒に土砂崩れに巻き込まれた。
あそこは崩れるはずがない、と言われていたところでの土砂崩れに、人々は神に、そして国父に祈った。
だが、生存者はおらず辛気臭い顔をした救助隊が首を振る度に誰かが泣き崩れていた。
救助隊が私の前に来る。
「君の、ご両親、だね?」
写真を見せられた。両親は綺麗だった。
もっと崩れていると思った体は、普通に起き上がるのではないかと思える程に綺麗だった。
救助隊の人は私の頭を撫でた。
......................................................
パンッ!
乾いた音がして私は目を開く。【彼】は着いた、という。
「ここは、どこ?」
「しばらくここで身を潜めているといい。ここには誰も来ないと思うから。」
そう言うと、【彼】はまた、古ぼけたガソリン車に乗ろうとする。
「どこに行くの?」
「次の街だ。今度もまた君には会わないといいな。」
ぐしゃり、と頭を撫でられ、【彼】は行ってしまった。
そのガソリン車のランプを、私は見つめていた。
......................................................
数年後。第七の街の最終便が入ってきたと告げる音がした。
男は寝床から起き上がると、その日の新聞を見る。
どうやらこの街では新聞、という文化的なツールができたらしい。
そのうち、数世紀前の網のような情報伝達手段ができたとして、それが広く出回ったら、
この世界はどうなるのだろうか。考えたところで無意味であるとくぁ、とあくびをした。
街は快適で、今まで街から脱走した人はいない、と紳士が大きく出た広告が目に入る。
今日もまた、情報を集めるか、と起き出し、いつも通りの小汚い服を着て、道路に寝そべった。
「何、してるの。」
嗚呼、この人はまたここにも来てしまったか。男はそっと嘆息する。
「騙しているのさ。」
「何を。」
「国父を。そして、この街を。」
逃げ出した人ならここにいるじゃないか、と言うように。
世の中を、そして世界を騙して、今日もまた同じ日が始まる。