(短編)恋
書いておいてなんですが、自分はいろんな意味で疲れているんじゃないかと思います。
ご不快に思われる方も多々おられると思うので、読まないことを推奨させていただきます。
ごめんなさい。
いつから、彼女が気になるようになったのだろう。
いつから、彼女を愛するようになったのだろう。
最初は何の興味もなかった。
特に笑顔が綺麗というわけでもなく、容貌が優れているわけでもない。
声が心地良いわけでもなければ、明るいわけでもない。
ただ、白い肌がやけに印象的だった。
単に同じ図書委員となっただけの、別のクラスの女の子。
同じ本を読み始めたのが縁で、そっけない挨拶から、僕は彼女と話すようになっていった。
囃し立てるであろう友人に隠れての、小さな会話。
図書室の本棚の陰に隠れてのその言葉が、僕のささやかな楽しみだった。
だけど。
子供同士の、そんな関係が周囲にばれないはずもない。
いつしか、僕と彼女の会話は友人たちの知るところとなり、まことに当たり前なことに彼らは僕を容赦なく囃し立てた。
それが、友情の陰に隠れたひそかな嫉妬と、憧れだと、今ならわかるのに。
◆
しとしとと、黒い雨が降る中を、僕は歩く。
雨は嫌いだった。
寒く、やるせなく、嫌でも過去の忘れたい記憶を穿り返す。
だけど、ここ最近は違った。
僕の小さなマンションに、彼女が待っていてくれるのだから。
歌いだしたいほどの気分だった。
◆
僕のささやかな楽しみは奪われた。
容赦なく友人に囃し立てられるのが嫌で、にこやかに声をかける彼女にいつしか、僕は肩肘張って言い返していた。
僕を見つけては笑顔で近づいてきた彼女の顔が、悲しげに歪んで去る時、
僕は、思春期特有の、あのよくわからない勝利感を得たものだ。
だが、そんな偽りの幸福も、彼女が僕と会っても目をそらすようになって終わった。
残されたのは、耐えがたいほどの喪失感だ。
僕は、その瞬間初めて恋を知り、知った時にはそれが終わっていたことも知った。
◆
あと100メートル。
深夜になっても耐えることのない都会の雑踏の中を、僕は歩く。
あの小さく、暗く、広々としていながら息苦しい、僕の故郷とは違う世界だ。
ここは、狭くて空の星も満足に見えないのに、人もビルも、すべてがキラキラと光っている。
まるで僕の気持ちのようだ。
あと50メートル。
今日は彼女に、どんな話をしてあげようか。
◆
狂おしいほどの恋情と、友人たちとの関係の板挟みになって僕は歪んだ。
僕は気づいていた。
周囲を歩く『友人たち』の真意に。
こいつらは、僕を引きずり込みたかったのだ。
自分たちのいる、少年という世界に。
嗚呼。
岡村は、宮本は、内村は、三村は、なんと勇気があるんだろう。
僕は彼女のいる同級生たちを次々に思い出しては、唇を噛む。
出会い方はそれぞれだ。一人を大事にしている奴もいれば、次々と女を取り換える奴もいる。
だが、彼らはこの、中学校という小世界の中での勝者だった。
一足先に、少年期を脱したという意味で、勝者なのだ。
僕は彼女を想い、その声を想い、もはや自分に向けられなくなった笑顔を想った。
◆
僕は扉を小さく開けると、小声で『帰ったよ』という。
くたびれたスーツ姿の男が、玄関の鏡に映る。
社会に荒らされつくした、若さを失った体だ。
これまで、たった一人で生きてきた男の体だった。
だが、今は違う。
見守ってくれる人がいるのだ。
だから僕は言った。
「帰ったよ、香里」
◆
暗鬱な中学生活は、高校に入っても終わらなかった。
中高一貫だったから、当たり前のことだ。
高校生になると、ちらほら恋人を持つ男も出始める。
あの時、僕の初恋を壊した男たちも、いけしゃあしゃあと彼女を呼んではデートの話を見せびらかした。
ある日、僕以外の全員が彼女持ちだと知った瞬間、僕は彼らとの縁を切った。
何の罪悪感も持たずに、「お前も早く彼女作れよ。あ、もてないんだっけ」
という彼らを、殺してやりたいほどに憎んだのだ。
それと同時に、僕は自分の初恋が今度こそ終わったのを感じた。
彼女が同級生と付き合い始めたのを知ったからだ。
あの時、僕に向けていた笑顔が、顔もよく知らないその男に向けられている。
僕が後ろにいるのもどうでもよいという風に、並んで歩く二人の手は、
小さく、だがしっかりと握りあっていた。
違う。
幸せそうな恋人たちの後ろを、背中をかがめて歩きながら僕は心の中で叫んだ。
違う!
彼女の隣はあんたの場所じゃない!
僕の場所だ!
彼女の笑顔は、僕のものだったんだ!!
僕のものを、取るな!!
ある日、二人きりになったとき、思い切って僕は彼女に声をかけた。
「あ、あの」
「近づかないでくれる?」
あのころとは違う目、違う口調。
冷たい、まるで置物を見るかのような視線。
僕は彼女がさっさと教室を出て行った後も、声をかけた態勢のまま、じっと目の前の机を見つめていた。
ぽたぽたと、何の特徴もない机に水気が零れた。
◆
「今日はさ、課長がまた言ったんだ。お前最近仕事に身が入ってない、って。
このままだと昇進どころか、まずいぞ、居場所もなくなるって」
僕は彼女の向かいに座り、コンビニ弁当をつつきながら今日の出来事を報告する。
何もかもが可笑しく、楽しい。
「でもさ、そりゃそうだよね。君がいるんだから、身が入らないのも当たり前だ。
朝からさ、君にどうやったら早く会えるかなんて考えてるんだ。
定時には出てきたいし、飲み会なんて嫌さ。
当たり前だよ、恋人同士だからね」
僕は、会社の同僚が見ると驚くほどに饒舌にしゃべった。
彼女は笑顔を浮かべたまま、僕の話を聞いている。
それは、心底幸せそうで。
「……君を大事にするよ、香里」
僕は何度言っても照れくささが抜けない気分のまま、中学生の頃、どうしても言いたくて、言えなかった言葉を、何百回目に告げた。
◆
何の感慨もなく高校を出て、僕は貧相な大学に入り、何の面白味もなくそこを出て、何の楽しみもない企業に入った。
来る日も来る日も、怒られ、叱られ、ため息をついては帰る日々。
若いころの苦労なんて買ってでもしろ、とは老人の妄言だと、今ならわかる。
苦労なんてせず、左うちわに暮らせるのが一番の幸福なのだ。
そんな言葉は、若いころひどい目にあった老人の意趣返しなのに。
彼女を見かけたのは同窓会でだった。
高校生のころから徐々に花開いてきた彼女の美しさは、大学を出て25になって絶頂を迎えたようだった。
少女のころから白かった肌はますます光り、髪はつやつやと流れている。
美しさより地味さを際立たせたような容貌も、別人のように華やかに変わっていた。
あまりの美しさに見とれる僕を、彼女は懐かしそうに友人たちときゃあきゃあと騒ぎながら通り過ぎた。
目線すら、もはやあわせてはくれなかった。
いや。
彼女の中で、僕のことなど、もはや意識の片隅にも残っていなかった。
「お前、結婚はしないのか」
「いや、僕は」
酔っぱらった同級生が親しげに肩を組もうとするのを振り払い、僕は酎ハイを口に含んだ。
どうでもいい話に応じるふりをしながらも、僕の目が向かうのは彼女であり、
僕の耳が聞いているのは彼女の声だ。
ふと、期待感が僕の胸をよぎった。
高校生の頃の彼氏とは別れたようだった。
当時の彼氏もテーブルの一角にいるが、お互いに視線も合わせることもなければ声もかけない。
もし、彼女が今フリーなら。
もしかしたら、酔った彼女と一緒に帰れるかもしれない。
あの頃言えなかった言葉を言えるかもしれない。
当時の僕の幼稚な言動を、謝れるかもしれない。
彼女はそれを、受け入れてくれるかもしれない。
僕の胸が急に早鐘を打った。
すべてがいい方に転がるような気がして、僕は熱っぽい視線で彼女を――それでもひそかに――見つめた。
だからこそ、聞こえる。
「えー、香里、今度結婚すんの!?」
「早くない? 相手誰?」
「三つ上の人でね、東京で銀行員しててさ」
「玉の輿じゃん!」
僕の視界が、真っ黒に染まる気がした。
僕は婚約指輪らしい細い指輪を、嬉しそうに見せる彼女を見ながら、虚脱していた。
◆
「でさ……こんなもの、もういらないよね」
彼女のにこやかな顔を見ながら、僕は彼女が差し出したように机の前におかれた指輪に、
何度目かわからない金槌をたたきつけた。
既に度重なる暴力によって、指輪は指輪の形を成していない。
そんな金属のきれっぱしを、僕は幸せに満たされて壊す。
これは、彼女が偽りの人生を強いられた証だ。
今は、彼女は本当の幸福のもとにいるのだ。
彼女の黄色い肌が、嬉しそうに震えた。
外の雨は強くなった。
今日は、そろそろ寝ようかな。
◆
結婚式の場所は区内の結婚式場をしらみつぶしに当たって調べ上げた。
彼女の同窓会での会話から、時期と大まかな場所を特定できたのがよかった。
分からない情報は、フェイスブックを使えばあっさりと分かった。
彼女のふりをして、アプリで隠し撮りした同窓会での彼女の写真をアップロードし、
それっぽい口調で書き込めば、疎遠だった彼女の友人たちがあっさりと教えてくれた。
あのころ、図書室にいつもいるような地味な少女だった彼女は、華やかな学生生活を送っていたようだ。
結婚の話をちらつかせると、祝福のメッセージがフェイスブックにいくらでも届いた。
まるで、彼女がそばにいて、僕がそれを覗いているような、不思議に幸福な気分だった。
そして、当日。
僕は大金をはたいて買った白いタキシードに身を包み、当たり前のようにチャペルに足を向けた。
神父の、わざとそうしているようなたどたどしい日本語が小さく聞こえてくる。
「このケッコンにイギのあるカタは、どうぞ」
名乗り出てください、という前に、僕は大きく扉を開けようと踏ん張った。
だが、重い扉は開かなかった。
僕のような男を締め出すために、チャペルの扉は結婚式の間施錠するのだと、後で知った。
僕は、不審者と思われて警察がやってくるまで、ずっと、僕の知らない男の隣で、ライスシャワーを浴びながら微笑む彼女を、じっと、じっと見つめていた。
◆
ぴんぽん。
眠りかけていた僕は、不意にならされた呼び鈴に、とろとろとした微睡から呼び返された。
時間は深夜の4時30分だ。
なんだろう。
僕は隣で寝ている彼女を起こさないように、ゆっくりと赤茶色の髪をなでる。
かさり、と音がした。
「酔っぱらいの間違いかな」
僕は安心させるように、そう微笑んだ。
◆
「ぐ!?」
僕に抱きしめられて彼女が意識を失ったとき、僕はまるで絶頂しそうなほどに震えていた。
夢にまで見た、彼女のやわらかいからだ。
13年前に、僕が手に入れるはずだった、彼女の体。
静かなマンションに、じたばたともがく音だけが聞こえ、僕は幸福感と彼女の髪の匂いに包まれながら、抱きしめる手を一層強めた。
ぱきり。
小さな音とともに、彼女からくたり、と力が抜ける。
うなだれたような彼女に、僕はうれしさに包まれながら囁いた。
「迎えに来たよ。もう離さない、誰が何と言っても。またあの図書室から始めよう」
そして、僕は小さな僕のマンションまで車を飛ばし、彼女を椅子に座らせて、指につけていた指輪を無造作に外した。
「これはもう、要らないね。 僕がもっといいのを買ってあげる」
ガチャリ。
天使の歌声のように、金属が折れる音がした。
さあ、これから忙しい。
彼女がいつまでも僕のそばにいるように、僕が加工しなくっちゃ。
◆
ぴんぽん。
ぴんぽん。
「あのなあ、あんた、今何時だと……」
怒鳴りながら出た僕の前に、現れたのは、紺色の服を着た男だった。
「……なんです? こんな夜中に」
「○○○○だな」
「そうですけど」
僕が名前を呼ばれ、ぶっきらぼうにそう答えた時、不意に男たちを突き飛ばし、一人の男が僕の家に駆けこんだ。
「あっ、やめてください!」
「なんだよ、あんた!」
土足で上り込んだその男に、僕が抗議をしようとした瞬間、僕の頬に鈍い痛みが走る。
それが殴られたのだと気付いたのは、玄関に無様に転んだ時だった。
「香里!!香里!!」
「おい、あんた……警官さん、あれ傷害罪でしょう! 訴えますよ!」
僕の抗議を無視して、紫の服の男たち――警察官は僕の全身を抑える。
別の、普通のコートを着た男たちがあの男の後を追ってなだれ込んだ。
「ちょっと!! 待ちなさい!」
「待って!」
「香里、香里!!!」
深夜に近所迷惑なことに、男が素っ頓狂な鳴き声を上げる。
「妻が寝てるんです!」
「○○○○。殺人……ならびに死体損壊の罪で逮捕する。既にお前には逮捕状が出ている」
「!!」
僕は心底驚いた。
僕は彼女――香里を意に沿わぬ結婚から連れ出しただけだ。
子供はいないが、僕たちは夫婦だ。
殺人罪なんて冤罪だ。訴えるぞ。
そんな僕の言葉にも、男たちはおぞましいものを見るような目で無視するだけだった。
周囲から、騒ぎを聞きつけた野次馬の声が聞こえる。
「僕の新婚生活を邪魔するな!」
そういったとき、目から火花が散った。
振り向くと、先ほどの失礼な男が、どこから持ち出したのか、金槌を僕に向けている。
「やめなさい!」
「あなたまで逮捕することに!」
「おい、取り押さえろ!」
だが、その男は僕よりよほどたくましい腕で警官たちを振りほどくと、ためらいもなく僕の頭に金槌を振り下ろした。
一発、二発。
「やめろ!」
「おい!」
「香里の、香里の、妻の仇! 妻の恨み! 思い知れ!」
(嘘だ、香里はお前のものじゃない、大人になってから横からかっさらっただけのおまえに!
僕は、あの図書室からずっと彼女を)
ぱきり、ぐちゃり、べきり。
僕の頭の中から音がする。
何か、頭の大事なものをつかみあげられ、男が狂ったように笑うのが見えた。
「妻を殺しておいて! ミイラにして! 人形みたいにもてあそびやがって!
殺人者!ゴミ!虫けら! 死ね、ストーカーめ!!」
僕が最後に聞いたのは、そんな男の狂乱した声ではなく。
『近づかないでくれる?』
僕のそばにいさせるために、内臓を抜き取り、ミイラにまでした彼女の、
目玉のない顔から放たれた、そんな声だった。
◇
人の妻を誘拐し、殺し、ミイラにしたストーカー。
復讐のために夫が自らストーカー男を撲殺した。
そのセンセーショナルな事件は、しばらく週刊誌をにぎわした。
同窓会での犯人の不審な挙動から、それ以前の学生時代のことまで、クラスメートや同級生が語る犯人の異常な挙動に、人々は義憤を募らせ、犯人の家族はひそかに引っ越していった。
『あいつは昔から異常でしたね。中学の頃、図書室で被害者に迫っていました』
『あいつを見かねて俺たちが止めたんですけど……こんなことになるなんて』
『犯人を絶対に許さない。香里を返して!』
そんなインタビューが連日週刊誌をにぎわし、世論は復讐を許した警察をなじり、警視総監が更迭される事態にまでなった。
同時に、現代で仇討ちを行った夫への同情は尽きることなく、地裁で裁判員を交えて行われた判決では、職業裁判官たちの反対を押し切り、無罪が出された。
高裁では懲役がついたものの、執行猶予つきであり、裁判所を出た夫は涙にくれる支持者たちに礼を言って回り、有罪を宣告した裁判長のもとへは百通を超える脅迫の手紙が届いた。
結局、彼に同じく有罪を宣告した最高裁の裁判長が実際に襲撃されるに及び、
首相自ら予算委員会で答弁する羽目になり、各国は日本の司法制度の不備を詰った。
だがそれも、時間とともに薄れ、やがて人々にはいつもの日常が戻っていった。
彼女の墓には献花が絶えることがない代わりに、犯人の墓は誰かに蹴り倒されていた。