憎悪が招くもの
何気ない日常にある落とし穴。それを掘ったのは心の中に住み着く小さな悪魔。それは誰の心にも小さな住処を作って今日もこっそり様子をうかがう。そして春香の心にもそんな悪魔は住んでいた。それは自己の正義を旗印に掲げて。
私が真美の死を知ったのは、深夜の電話だった。底冷えのする十二月のことである。
「春香さん、遅くにごめんなさい。今、坂田病院の救急外来に来ているの。私、どうしていいか分からなくて、
あなたにこんな時間に電話してしまったの。真美のお知り合いの方はあなたしか思い当たらなかった。実はさっき真美ちゃん死んじゃったの。車で道路の外壁に衝突したって警察の人が…… ごめんなさい、こんな時間に迷惑だっだわね。とにかく詳しいことは、また明日連絡するから」
真美の母、冴子さんはそれだけを狼狽えた様子で告げると、こちらの返事も待たず電話を切った。寝ぼけた頭で時計を見ると、午前二時を回っている。今の電話は夢ではないのか。しかし手には携帯を握り締めている。頭の中を何かがぐるぐると回り始めた。
しばらく放心して動けずにいると、部屋の空気が急に冷たく感じられた。慌ててエアコンのボタンを押すと、自分の手が震えている。動揺している自分に気づいた。落ち着いてと呪文のように唱え、働かない頭で考えた。すぐ病院に行った方が良いのか、それともこのまま朝を待った方が良いのか。
何気なく携帯の履歴を見た。冴子さんの携帯履歴。かけなおしてみた。しかし電源は切れている。仕方なくまた布団に横になった。しかし、寝ようにもすっかり頭は覚醒している。どんなに固く目を閉じても、左右に方向を変えても寝むれそうにはない。
そのとき、頭の中で回っていたものが何なのかに気付いた。真美の悲しそうに俯く顔だ。とりあえず病院へ行ってみよう。そう決心した。すると急に体は軽くなり、気力も出てきた。
冬の夜空はどこまでも漉き透り、心の乱れと裏腹だった。星の瞬きは何事も吸い取ってくれそうなほど、きれいに穢れなく見え、目をそらした。
電話を受けてから一時間もかからず病院に着いた。真っ白い壁にある救急外来の明かりを目指し中へ入ると、待合室に座る冴子さんの小柄な背中が見えた。脇には警官が二人と、背広を着た二人の刑事らしき人がいて、何かを話している。私は戸惑いながら小さく声をかけた。
「唐木さん、木戸春香です」
振り向いた冴子さんの顔は涙でくしゃくしゃだった。
「春香さん、来てくれたの。ありがとう」
そう言うと、また両方の目から涙を流した。私は、冴子さんに駆け寄った。
「お母さん大丈夫ですか?真美は一体どうしたんです」
一瞬、死という言葉を飲み込んでいた。その問いかけは冴子さんには酷な気がした。それほど彼女は憔悴して見えた。
「真美は、あなたが来てくれてきっと喜んでいるわ。私もうれしい。心細かったから」
そういうと、私の手を握り締めた。
冴子さんは、真美が子供の頃に離婚して、その後ずっと真美と二人で暮らしてきた。亡くなった冴子さんの両親が遺産を残していたので生活には不自由ないようだが、親戚の話は聞いたことが無い。そう思うと、こんな私でも少しは来て良かったのかもしれない。
突然、後ろの方で声がした。入ってきたのは、身長の高いがっしりとした体型の男。
「唐木真美はどこでしょうか」
すでに立ち上がって、男を向かい入れた刑事に問い掛けている。
「あなた、なぜここに?」
冴子さんは驚いた顔で叫ぶように言った。
刑事が口を開いた。
「私どもが連絡を差し上げました。真美さんの最後のメールが彼宛のものだったので」
冴子さんは黙って下を向く。
「坂城連さんですね。ちょっと先に話を聞きたいけどいいですか」
そう言うと、二人の刑事が先導し、廊下の向こうへ連れて行ってしまった。
冴子さんが小さい声で言った。
「あの人ね、私と結婚するはずの人だったのよ。私よりは十歳も年下で、でもそれでも良いって彼が言ったから。私年甲斐も無く、すっかり夢中になってね。もう四十五だもの、こんな機会はもう来ないと思った。ところが、私たちの家に出入りするようになってしばらくすると、態度がおかしいの。私より真美の方が良くなったみたいに感じたわ。真美は若いし、親が言うのもおかしいけどかわいくて、良い子だもの」
「でも真美は……」
言いかけて止めた。冴子さんは私が言葉を止めたことを気にかけず話を続ける。
「真美は嫌がっていたはずよ。あの子から見れば、彼は十歳も年上のおじさんだもの。私、あの子に何かあってはいけないと思って、彼と縁を切ろうと覚悟した矢先だった」
私は黙った。もっともこんな場所でする話ではないと思った。そもそも聴かないような素振りをしているが、隣に警官もいるのだ。
実は、私は坂城連さんを知っている。半年ほど前に二人でよく行くレストランに真美が呼んだのだ。
「今度、私のお父さんになる人」
真美は彼をそんな風に笑顔で紹介した。
私と真美はもともと高校の同級生だ。三年前のある日、昼食を食べに入ったレストランで偶然再会した。二人とも二十二歳になっていた。今でもあの瞬間のことは良く覚えている。彼女は薄いブルーのブラウスに白いカーデガン。笑顔で店に入ってきた。羨ましくなるほど、とても輝いて見えた。私は彼女に声をかけ、お互いに近況を語り合い楽しい昼休みを過ごした。
そのとき、二人の職場が案外に近かったことが分かったので、これからは曜日を決めて昼にこのレストランで会おうと真美が提案し、私は喜んで賛成した。
時が経つにつれ、受験に追われた高校時代より親しくなった。私たちはお互い、ずっと深いところでつながっていたのよと真美も言った。私にも同じような感情が湧いていた。会社のトラブル、生活のあれこれと様々なことを何でも話し合った。
そんな付き合いが続く中、彼女が坂城さんを紹介してくれたのである。彼は逞しい体つきだが、笑うと二重の目が細くなり笑窪が片方に出て少年のような顔になる。といっても将来は彼女の父親になる人だ。誠実な人であればと思った。
三人で話していると、ふと以前から真美に相談を受けていたストーカーまがいの男のことを思い出した。
この頃真美はある男につけられることが時々あった。元会社の同僚で、今はどこかでアルバイトをしている男だそうだ。真美はこのことを母親に打ち明けられずにいた。心配を掛けたく無いというのが理由である。私は何気なくそのことを坂城さんに相談してみてはどうかと提案した。それは私のちょっとした思いつきから出た言葉だった。彼女は気の進まない様子だったが、それでもやがて彼に打ち明けた。
坂城さんは、
「分かった。僕が何とか対処するよ」
と言ったが、真美は浮かない顔で言った。
「でも、本当のストーカーかどうか分からないんです。だからもし違っていたら困るし、坂城さんにまでご迷惑掛けたくありません。それにお母さんが知ったら、どれだけ心配するか」
「大丈夫だよ。間違いかどうか、そこをまず確かめてみるから。それに、このことは冴子さんにも言わない。心配しないで任せてよ」
彼は父としての始めて仕事だというように乗り気だった。
その後しばらくして、また坂城さんを真美が連れて現れた。会うなり彼は私に言った。
「あの事件は解決しましたから。もう心配要りません。今日はご報告にきました」
彼によれば、根気強く真美の帰り道を彼女から少し離れた後ろを歩き、とうとう現場を押さえるのに成功したのだそうだ。その男を捕まえて近くの公園で話をし、気長に説得をすると彼は理解を示し、もう二度としないと約束したのだそうだ。
その話の間真美はじっと俯いて聞いていた。
「真美、良かったね。坂城さんのお蔭だね。感謝しなさいよ」
私が言うと、彼女は無理に笑顔を見せた。まったく嬉しく無いというように。
その後別の機会に、真美にあの男のことを聞いてみた。男はあの時以来、本当に姿を見せることは無くなったようである。
それを聞いた私は
「坂城さんはすばらしく良いお父さんだね」
思わず言葉にした。それは素敵な父親ができる真美が羨ましくもあったのだ。だが、真美は浮かない顔のままだ。
「どうしたの。せっかく解決してもらったのに、何が気にいらないの」
「いいえ、そんなことは無いのだけど……あの男は確かに見かけなくなったわ。でも……」
「変な子。あれほど嫌がっていたのに、今度は寂しいなんて言わないでしょうね」
「違うわ。それがね……ううん、何でもない。」
それから以後、真美の笑顔は見ることが無くなっていった。それどころか、悲しそうな憂いを浮かべた顔が常になり、少しずつ痩せていくように見えた。
「木戸春香さん、お話少し伺わせてもらっていいですか」
いつの間にか刑事が目の前に立っていた。冴子さんは隣で俯いている。
小さな談話室に連れて行かれた。
「最後にあなたが会われたのはいつですか、それと最近の真美さんの状況を聞きたいのですが」
私はそこで最近眠れなかったらしいということ、以前に坂城さんがストーカーを退治したことも話した。
黙って聞いていた刑事は口を開いた。
「真美さんの車、ブレーキを踏んだ形跡が無いんです。居眠りなのか、自殺なのか、それとも」
「それとも何なんですか」
「分かりません。ですが一応、明日解剖ということになると思います。ところで、さっき坂城連さんのストーカー退治という話をされましたよね」
「ええ」
「あなたが言っておられた真美さんに付きまとっていた男、実は一週間前に風見公園の池で、水死体で見つかったんです。男の家を調べたら真美さんのことが色々出てきたもので、二日前に真美さんから事情を聞いていたのですが……」
談話室を出ると、冴子さんが心配そうに見ている。
「ねえ、真美は事故ではないの。何かあったの」
「いいえ、何も。最近の様子を聞かれたくらいで…… 冴子さん申し訳ないけど、私これで失礼します」
私は、急いで病院を出た。とても冴子さんと顔を合わせて入られなかったからだ。
数日後、坂城連は殺人罪で逮捕された。ストーカー男と唐木真美を殺した疑いで。真美の体から睡眠薬が検出された。それは運転前の彼女に坂城がコーヒーに混ぜて飲ませたようだった。
私はその後、冴子さんと親しく付き合うようになった。それから二年後、私は真美を亡くし寂しくて仕方が無いのという冴子さんに、養女に来ないかと言われた。
私は笑っていた。
私は坂城に囁いた。
「本当はあのストーカー男、真美を使って唐木家の財産を狙っているのよ。何しろ唐木の家にはすごい資産があるって噂なんだから」
私は冴子に囁いた。
「真美が最近背の高いがっしりとした男と歩いているって評判ですよ。名前?連とか言ってたっけ」
そして私は真美に囁いた。
「あの歳で坂城さん財産目的でもなければ、お母さんのところに来るわけないと思わない。まあ、世間ではきっとそう思うでしょうけどね。でも本当はあなた狙いでくるのかもね」
私は子供の頃、会社を経営する父親の元で家族楽しく暮らしていた。その父を騙し、すべてを取り上げたのが唐木冴子の父である。父も母も悲しみと恨みの中で死んでいった。私は妹と二人、親戚の家で育った。
私は絶対に父のものを取り戻したかった。唐木の家の資産は私の父から取り上げたものなのだから……