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境界線の上で、立つ — Standing on the Line —  作者: 和泉發仙


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第三十九話 整えられる疑問



疑問は、

敵意として扱われるよりも先に、

「未熟さ」として扱われる。


そのほうが、

ずっと穏やかだからだ。



彼女が呼ばれたのは、

叱責の場ではなかった。


静かな小会議室。

ガラス張りで、

中が見える。


見えるということは、

何かが起きていない、

という保証になる。


上司は二人。

どちらも声が低く、

語尾が柔らかい。


「先日の会議の件だけど」


切り出しは、

いつも通りだった。


「問題提起としては

理解できる」


理解できる、という言葉は

評価のようでいて、

線を引く。


ここまでは理解できる。

ここから先は、

理解しなくていい。


「ただね」


その“ただ”が来ることを、

彼女は予想していた。


「言い方が、

少し早かったかもしれない」


早い。


間違っている、ではない。

不適切、でもない。


タイミングの問題に

変換される。


「制度は、

段階的に

整えていくものだから」


整える。


彼女はその言葉を、

頭の中で転がした。


整える、とは

角を丸めることだ。

角があるから、

ひっかかる。


「あなたの視点は、

大事だと思う」


「でも」


「今はまだ、

そこを強調するフェーズじゃない」


フェーズ。


彼女は頷いた。

頷くしかなかった。


頷かないことは、

対話を拒否することになる。

拒否は、問題になる。


問題になると、

彼女は“疑問を持った人”ではなく、

“扱いづらい人”になる。


それは、

彼女が最も避けたい位置だった。



会議室を出たあと、

彼女はトイレに立ち寄った。


鏡の前で、

自分の顔を見る。


変わっていない。

だが、

何かが少しだけ

戻された気がした。


疑問が、

元の場所に。


胸の奥で

小さく疼いていたものが、

「今はしまっておこう」

という箱に入れられた。


その箱には、

ちゃんと蓋がある。


蓋があるということは、

いつか開ける前提でもある。


だが、

多くの場合、

蓋は開けられない。


理由は単純だ。

日常が忙しくなるから。



三崎は、

そのやり取りを

少し離れた場所で

察していた。


察する、という言葉が

正しい。


直接見たわけではない。

報告も受けていない。


ただ、

彼女の歩き方が

少し変わった。


速くなった。

迷いが減った。


それは、

正しい職員の歩き方だ。


三崎は、

それを良いとも悪いとも

思わなかった。


ただ、

一つの可能性が

閉じたことを

理解しただけだ。



数日後、

彼女は新しい資料を作っていた。


見守り指標の

改善案。


文言は、

以前よりも洗練されている。


「本人の意思を尊重しつつ、

安心感を損なわない表現」


彼女自身が、

その文を書いた。


書きながら、

違和感はあった。


だが、

違和感は言葉にされなければ、

疲労に変わる。


疲労は、

「今日はここまででいい」

という判断を生む。


判断が積み重なると、

それは習慣になる。


習慣は、

人を守る。


同時に、

人を遠ざける。



夜。


三崎は、

暗い道を歩いていた。


最近、

駅前に寄らなくなった。


寄らなくなった理由を、

彼は自分でも

はっきりとは言えない。


ただ、

あそこはもう

「整理された場所」だ。


整理された場所では、

立つことが

意味を持ちにくい。


意味を持たない行為は、

すぐに回収される。


回収されないためには、

見えにくい場所が必要だ。


その夜、

彼は高架下を通った。


以前、

ミオが立っていた

別の街の高架下とは違う。


だが、

同じ匂いがあった。


人が通り過ぎ、

誰も止まらない場所。


そこに、

一人の若者がいた。


立っている。

だが、

視線は下を向いている。


「立つ」というより、

「踏みとどまっている」。


三崎は、

足を止めなかった。


止めなかったが、

胸の奥で

小さな確認が起きる。


――まだ、残っている。


回収されなかった行為は、

別の場所に現れる。


それは、

模倣ではない。


誰かが教えたわけでもない。


ただ、

世界が整えられすぎたとき、

人は無意識に

“はみ出す姿勢”を

探してしまう。



翌週、

彼女は再び

小さな違和感に出会う。


資料の数字と、

現場の報告が

微妙に噛み合わない。


声かけ件数は減っている。

だが、

「自主的移動率」は維持されている。


整合性はある。

だが、

説明は薄い。


彼女は、

一瞬だけ考えた。


この違和感を、

もう一度言葉にするか。


だが、

その瞬間、

前回の会議室の空気が

思い出される。


「今はまだ、

フェーズじゃない」


彼女は、

メモ帳に

小さく印を付けただけで、

ファイルを閉じた。


その印は、

誰にも見えない。


だが、

彼女自身は

それを見失わなかった。



三崎は、

それで十分だと思った。


疑問は、

声に出されなくても

残る。


残った疑問は、

別の状況で

別の形を取る。


制度が整えるのは、

言葉と行動だ。


だが、

感覚までは

完全に整えられない。


整えられないものが、

次のズレを生む。


ズレは、

すぐには問題にならない。


問題にならないから、

消されない。


消されないものは、

時間を持つ。



夜、

三崎は自分の影を見た。


街灯の下で、

影は少し歪んでいる。


真っ直ぐ立てば、

影も真っ直ぐになる。


だが、

わずかに重心をずらすと、

影は奇妙な形になる。


その形は、

誰の成果にもならない。


誰の失敗にもならない。


ただ、

そこに残る。


三崎は歩き出した。


矯正された疑問は、

消えたわけではない。


整えられた言葉の奥で、

別の呼吸を続けている。


次にそれが表に出るとき、

それはもう

“若さの問題”でも

“タイミングの問題”でも

処理できなくなる。


その時、

線はまた

引き直される。


だが、

今度は

少しだけ

遅くなる。



後書き


疑問は、

潰されるよりも先に、

「育て直される」ことがあります。


その過程で、

角は丸められ、

速度は揃えられ、

安心が与えられます。


けれど、

丸められた疑問は、

消えません。


形を変え、

時間を持ち、

次の場所で

再び現れます。


次は、

この「育て直された疑問」が、

まったく別の立場の人の手に渡る話です。



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