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境界線の上で、立つ — Standing on the Line —  作者: 和泉發仙


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第三十六話 数にされるもの


三崎が「立つ」という語を口にしなくなってから、街の側は逆にその語を使い始めた。


それは奇妙な逆転だった。

彼らが避けてきたのは、言葉ではない。

言葉が生む“扱いやすさ”だった。


扱いやすさは便利だ。

便利なものは、制度に吸われる。

制度は便利なものを好み、便利なものだけを残す。


その過程で、元の意味は薄まる。

薄まっても、残る。

残るから、次へ渡せる。

だが、渡る先は必ずしも、人ではない。


数になる。


数は、否定しない。

数は、怒らない。

数は、責任も取らない。

だから、数は強い。



月曜の朝、三崎は出勤してすぐ、共有フォルダに上がった新しい資料に気づいた。


タイトルは淡々としていた。


駅周辺エリアにおける

見守り関連・観測指標(試行)


“観測指標”。


耳慣れないようで、実は耳慣れた単語の並びだった。

観測は、客観の顔をしている。

だがその実、観測は「見たいもの」を決めた人間の意図から逃れられない。


ページを開くと、そこには棒グラフが並んでいた。

•滞留人数(推定)

•声かけ件数

•相談誘導件数

•介入判断件数

•トラブル発生件数(自己申告含む)


そして、最後に一行。


“自主的移動”件数


自主的移動。


その言葉だけが、妙に柔らかかった。

柔らかい言葉は、危険なものを覆うのに向いている。


三崎は資料を閉じ、すぐに開き直した。

閉じたくなるほどに、内容が既に“完成”に近かったからだ。


完成している資料は、置かれる。

置かれた資料は、使われる。

使われた資料は、現実になる。


彼は机の上で指を組んだまま、呼吸を整えた。


怒りは役に立たない。

怒りは、相手が準備している“対立”の枠に自分から入っていく行為になる。

枠に入れば、処理される。

処理されれば、終わる。


この件は終わっていない。

終わっていないのに、終わったことになりそうな速度だけが増している。



午前の短い打ち合わせで、その資料はさらりと触れられた。


説明する側は、誰かを責める声ではなかった。

むしろ、少し誇らしげだった。


「現場の負担を減らすために、指標を整えます」


「判断が属人化しないようにします」


「支援の質を担保します」


どれも正しい。

正しさが並ぶと、反論は“悪”に見える。


三崎は発言しなかった。

発言しないことで、存在が薄くなる。

薄くなることは、いま彼が受けている配置換えの打診と同じ種類の圧力だ。


だが同時に、薄くなることでしか残せない視点もある。


彼は、資料の最下段に目を止めた。


今後、AIによる推定滞留人数の算出も検討


AI。


それは便利の象徴であり、責任の移転装置でもあった。

「AIがそう言った」という文は、人間を軽くする。

軽くした人間は、判断を速くする。

速い判断は、生活を潰す。


彼は、喉の奥に残る渇きを無視して、メモだけ取った。



その日の帰り道、三崎は駅前へ向かった。


向かった、という言葉は少し違う。

足が自然にそちらへ寄ってしまった。

目的ではない。

習慣でもない。

ただ、身体が“見たいもの”を覚えてしまっている。


駅前は、以前よりも整っていた。

整っていることが、悪いわけではない。

だが整いは、ときに異物を見えにくくする。


人の流れ。

広告。

誘導線。

案内板。


どれもが無駄なく配置され、無駄なく人を運ぶ。


その流れの端に、少しだけ速度の違う場所があった。


立っている人がいた。


昨日見かけた若い女性ではない。

別の人だった。

年齢も服装も違う。

だが、立ち方が同じだった。


止まっている。

“待つ”でもなく、

“迷う”でもなく、

“ただそこにいる”。


その状態が、周囲の速度を微妙に変える。


人は無意識に避ける。

避けると、避けた線が生まれる。

避けた線は、道になる。

道は、データになる。


三崎は、自分の背筋が冷えるのを感じた。


この立つ人は、誰かの“成功”にも“失敗”にもならないはずだった。

象徴にならないはずだった。


なのに、数になっていく。



少し離れた場所に、二人の若い職員が立っていた。


名札はないが、動きが揃っている。

話している声は小さく、内容は断片的に聞こえた。


「……この辺、増えてる」


「自主的移動、今週は――」


「声かけ、記録しとく」


数。


彼らの口から自然に出る単語が、現実を作り始めている。

数え始めた瞬間から、人は“対象”になる。

対象は、優しく扱われる。

優しい扱いは、拒否しづらい。

拒否しづらいものは、逃げ道を塞ぐ。


三崎はその場を離れた。


その離れ方は、逃げではない。

ただ、見られる側に回らないための撤退だった。


見られる側に回った瞬間、彼は“立つ人を守る人”になってしまう。

守る人になった瞬間、その立つ人は“守られる人”になる。

守られる人は、立てなくなる。


彼は、そういう連鎖を避けた。



夜、コンビニの裏。


久しぶりに三人が揃った。


ミオはいない。

代わりに、彼女がいた場所の“余白”だけが残っている。


エリオットは先に来ていて、紙コップのコーヒーを手にしていた。

トマスは遅れて現れ、顔に疲れが浮いていた。


三崎は、言葉を選ばずに言った。


「指標が出ました」


それだけで、二人は理解した。


エリオットは少しだけ目を伏せた。

トマスは、何かを言いかけてやめた。


この場では、怒りは役に立たない。

怒りは、速さを上げる。

速さは、また誰かを“正しく処理”する。


「“自主的移動”という項目がありました」


三崎が続けると、トマスが低く笑った。


笑いではない。

空気が漏れただけの音だ。


「都合がいい言葉だな」


エリオットは静かに頷く。


「本人が選んだ、という形にできます」


「選んでないのに?」


トマスの声が少し荒くなる。


「選ばされたのに?」


エリオットは否定しない。


「そうです」


「だから、数にするのです」


三崎は、そこで初めて自分の胸の内を言葉にした。


「……立っているだけの姿が、データになります」


「象徴にならないはずのものが、分類されます」


「分類されると、正しさになります」


「正しさになると、抵抗できません」


トマスは唇を噛んだ。


彼は言葉で戦ってきた。

言葉で敵を作り、言葉で味方を作り、言葉で速度を上げてきた。


だが今、言葉が勝ったあとに残るものが、数だった。


数は、言葉よりも冷たく、言葉よりも穏やかだ。

そして穏やかさゆえに、止めにくい。


エリオットがぽつりと言った。


「観測が、管理に変わる瞬間です」


三崎は、少しだけ首を振る。


「観測は最初から管理でした」


「ただ」


「管理だと気づける形じゃなかった」


彼らは黙った。


黙ることでしか、今夜の重さを保てない。



帰り際、三崎は一つだけ訊いた。


「ミオは、どこにいますか」


エリオットは、分からない、とは言わなかった。

ただ、少し間を置いて答えた。


「見つけない方がいいかもしれません」


その言葉は優しい。

優しい言葉の中に、線がある。


三崎は頷いた。


見つけない。

探さない。

呼ばない。


それは放置ではない。

彼女を“数にされる場所”から逃がすための、唯一の方法だった。


だが同時に、彼は知っている。


逃げた先にも、数は追いかけてくる。

追いかけてくるのは、人ではない。

便利さだ。

管理だ。

正しさだ。


三崎は夜空を見上げた。


線は厚くなっていく。

厚くなっていく線の上で、立つ人の姿は目立つ。


目立つほど、数にされる。


数にされた瞬間、立つという行為は「分類」に変換される。


分類は、次の行動を生む。

次の行動は、さらに数を増やす。

それは循環であり、完成に向かう。


完成とは、誰も困らない形だ。

誰も困らない形は、誰も救わない。


三崎は歩き出した。


足は駅前へ向かわない。

コンビニへも向かわない。

ただ、少し暗い道を選んだ。


暗い道は、見えにくい。

見えにくいものは、数にしづらい。


数にしづらい場所に、余白が生まれる。


余白は、偶然生まれる。

用意されたものではない。

だから、壊れにくい。


壊れにくい代わりに、守りにくい。


その矛盾を抱えたまま、三崎は歩き続けた。



後書き


数は、やさしい顔をして現れます。

「客観」「公平」「属人化の排除」という言葉をまとい、

人を扱いやすくします。


けれど、扱いやすくされた瞬間、

人は“生活”ではなく“項目”になります。


次は、

この数の仕組みが

ある人の「成果」として表彰され、

さらに速く、さらに丁寧に、

線を厚くしていく話です。



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