第9話 泣いてもいい。もう誰も君を嗤わない
「君が紡ぐ言葉には、それにふさわしいものを使ってほしい」
箱の中に万年筆が一本。深い紺色の軸。金の装飾。握った瞬間、指にぴたりと馴染んだ。
──私のサイズに合わせて特注されている。
あの騒動から数時間。夜。暖炉の火が静かに揺れるサロンで、二人きり。使用人はルーカスの目配せで退室していた。
辺境での十年間、私の筆記具は安物の羽根ペンと粗悪なインクだけだった。自分のために何かを選んだことすらなかった。
美しいペンだった。ただの道具ではない。「あなたが書くものには価値がある」という意味が込めてある。
──それが刺さった。
視界が揺れた。ペンの輪郭がぼやける。指先が震える。
(なぜ──今更──)
全て終わったはずだ。元夫は連行された。私は自由で、安全で、温かい。
なのに。
ある日のことを思い出した。結婚四年目の冬。兵站の予算が足りなくて、自分の食費を三日分削って帳尻を合わせた夜。空腹で眠れなくて、天井を見つめながら「誰かに『頑張ったね』と言ってほしい」と思った。
思ったことがある。一度だけ。
あの夜の自分に、今やっと「痛い」と言う許可が下りた気がした。
「カトレア」
ルーカスの声。低い。近い。
「泣いてもいい。もう誰も君を嗤わない」
堤防が壊れた。
声が出た。抑えられなかった。泣いた。声を上げて、肩を震わせて。子供みたいに泣いた。
ルーカスは何も言わなかった。背中を撫でた。一定のリズムで。暖炉の薪がぱちりと弾ける。その音と掌の温度だけが世界の全てだった。
どれほど泣いたか分からない。蝋燭が半分溶けた頃、涙が枯れた。身体の中が空っぽになった。でも空っぽの中に、重い何かが流れ出た後の清涼感がわずかにあった。
「……ルーカス様」
掠れた声。
「私のような──中古品の事務員で、いいんですか」
最後の自虐。聞かずにいられなかった。
ルーカスは私の顔を見た。何か長い台詞を用意してきたのだろう。でも、口を開けて、閉じた。もう一度開けた。
「……君でなければ嫌だ」
それだけ言って、黙った。
しばらくして、絞り出すように付け足した。
「十年前、辺境の野戦病院で──倒れそうになりながら兵士の手当てをしていた君を見て、決めたんだ。いつか迎えに行くと。……理由なんて、それだけだ。上手く言えない。ごめん」
──上手く言えない。この人がそう言ったのは、初めてだった。
完璧な筆頭医務官の、完璧じゃない言葉。
それが一番、深いところに届いた。
目からまた一筋落ちた。今度の涙は温かかった。
「少しだけ時間をください。あなたに相応しい、前を向ける女になるために」
ルーカスは笑った。少年みたいな、嬉しそうな笑い。
「何十年でも待つ」
額に唇が触れた。柔らかく。慎重に。
暖炉の火だけが音を立てていた。




