表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今更、あの時の言葉を取り消すことなどできません。  作者: まるまる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 二度とその汚い手で触れようとするな


 かつて絶対の恐怖を抱いていたはずの男は、煤と泥にまみれて、小さかった。


 ルーカス邸の門前。冬の朝。


 レオンハルト・フォン・クライツは憔悴しきっていた。血走った目、ひび割れた唇、かつての威容の欠片もない。


「カトレア!」


 声が裏返った。


「すまなかった。俺が馬鹿だった。お前の凄さを分かっていなかった。どうか辺境へ──」


「辺境伯様」


 静かに、断ち切った。


「私は有責な当主様と正式に離縁した平民です。大任を引き受ける立場にも、つもりもございません」


「平民? お前は俺の──」


「『元』夫人です。お飾りの役目は終わりました」



 彼の表情が絶望から憤怒に変わった。手が伸びた。


 その手は、私に届かなかった。


 ルーカスが掴んで止めた。


 温和な笑みは消えていた。碧い瞳に鋼の光。外科医の精密さと伯爵家の力で、レオンハルトの腕を制している。


「公道で女性の腕を掴むのは、王都では暴行罪の要件を満たすんだけど」


 声は穏やかだった。穏やかすぎた。



 背後から靴音。


「辺境伯レオンハルト・フォン・クライツ殿」


 監査官が衛兵を従えて歩み出た。手には王室紋章入りの令状。


「あなたは過日交わした『前夫人への一切の不干渉』の誓約を自ら破りました。保留されていた告発状の受理が正式に承認されました」


 レオンハルトの顔から最後の血の気が消えた。


「告発内容は過去十年間の不正資金流用。前夫人が離縁時に提出した引き継ぎ書類に、全証拠が几帳面に残されておりました。同行願います」


 衛兵がレオンハルトの両脇に立った。大きな身体から力が抜けた。


 ──私の帳簿が、最後の仕事をした。




◇◇◇




 連行されかけた彼が、一度だけ振り返った。ただの絶望の目だった。


 でも、私はもうそちらを見ていなかった。


「カトレア」


 ルーカスが隣に立った。声が戻っていた。


「一つ聞いていいかな」


「はい」


「君を僕のものだと──いや、違う。そういう言い方じゃなくて」


 彼は珍しく言葉に詰まった。先ほどまでの鋼の目はどこかへ消えて、少しだけ──ほんの少しだけ、困っている顔だった。


「僕の隣にいてくれると──この場で、言ってもいいか」


 不格好だった。さっきレオンハルトを制圧した時の冷徹さとは別人のようだった。


 私は小さく頷いた。


 それだけで十分だったらしい。ルーカスは、連行される元夫の背中に向けて──否、この場の全員に聞こえる声で宣言した。


「彼女は私の未来の伴侶だ。二度とその汚い手で触れるな」


 言い終えてから、小さく息を吐いた。緊張していたのだ。この人も。


(勝手なことを言う人だ)


 でも嫌ではなかった。不格好で、だから嘘がなかった。


 レオンハルトの姿が路地の角に消えた。振り返る必要はもうない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ