第8話 二度とその汚い手で触れようとするな
かつて絶対の恐怖を抱いていたはずの男は、煤と泥にまみれて、小さかった。
ルーカス邸の門前。冬の朝。
レオンハルト・フォン・クライツは憔悴しきっていた。血走った目、ひび割れた唇、かつての威容の欠片もない。
「カトレア!」
声が裏返った。
「すまなかった。俺が馬鹿だった。お前の凄さを分かっていなかった。どうか辺境へ──」
「辺境伯様」
静かに、断ち切った。
「私は有責な当主様と正式に離縁した平民です。大任を引き受ける立場にも、つもりもございません」
「平民? お前は俺の──」
「『元』夫人です。お飾りの役目は終わりました」
彼の表情が絶望から憤怒に変わった。手が伸びた。
その手は、私に届かなかった。
ルーカスが掴んで止めた。
温和な笑みは消えていた。碧い瞳に鋼の光。外科医の精密さと伯爵家の力で、レオンハルトの腕を制している。
「公道で女性の腕を掴むのは、王都では暴行罪の要件を満たすんだけど」
声は穏やかだった。穏やかすぎた。
背後から靴音。
「辺境伯レオンハルト・フォン・クライツ殿」
監査官が衛兵を従えて歩み出た。手には王室紋章入りの令状。
「あなたは過日交わした『前夫人への一切の不干渉』の誓約を自ら破りました。保留されていた告発状の受理が正式に承認されました」
レオンハルトの顔から最後の血の気が消えた。
「告発内容は過去十年間の不正資金流用。前夫人が離縁時に提出した引き継ぎ書類に、全証拠が几帳面に残されておりました。同行願います」
衛兵がレオンハルトの両脇に立った。大きな身体から力が抜けた。
──私の帳簿が、最後の仕事をした。
◇◇◇
連行されかけた彼が、一度だけ振り返った。ただの絶望の目だった。
でも、私はもうそちらを見ていなかった。
「カトレア」
ルーカスが隣に立った。声が戻っていた。
「一つ聞いていいかな」
「はい」
「君を僕のものだと──いや、違う。そういう言い方じゃなくて」
彼は珍しく言葉に詰まった。先ほどまでの鋼の目はどこかへ消えて、少しだけ──ほんの少しだけ、困っている顔だった。
「僕の隣にいてくれると──この場で、言ってもいいか」
不格好だった。さっきレオンハルトを制圧した時の冷徹さとは別人のようだった。
私は小さく頷いた。
それだけで十分だったらしい。ルーカスは、連行される元夫の背中に向けて──否、この場の全員に聞こえる声で宣言した。
「彼女は私の未来の伴侶だ。二度とその汚い手で触れるな」
言い終えてから、小さく息を吐いた。緊張していたのだ。この人も。
(勝手なことを言う人だ)
でも嫌ではなかった。不格好で、だから嘘がなかった。
レオンハルトの姿が路地の角に消えた。振り返る必要はもうない。




