第6話 君は誰よりも、この景色にふさわしい
王都の医療局は常に戦場のような有様だったが、私には遊園地より楽しい場所だった。
──楽しい、と思えること自体に、まだ少し罪悪感がある。
◇◇◇
昼休み。ルーカス邸のサロンで、監査官が書類を広げた。
「辺境伯領の緊急支援要請書。これを見てほしい」
手に取った瞬間、目を疑った。殴り書きの走り書き。数字の根拠なし。配送先の砦名すら間違っている。
「物資の調達ルートも在庫管理も崩壊しています。引き継ぎ書類に全て書いたはずですが、あの方々には処理できなかったのでしょう」
言い切った。同情は出さなかった。
(でも──「自分が戻れば」という声が、一瞬だけ頭をよぎった。十年分の条件反射だ)
「カトレア殿。補足ですが」
監査官が先回りするように言った。
「領民の安全確保のため、国軍直轄部隊がすでに派遣済みです。民に支障はありません。これは純粋に、辺境伯の行政能力の問題です」
「あなたの責任じゃない」
ルーカスが短く言い添えた。
二人の言葉で、条件反射が消えた。
◇◇◇
その夜。ルーカスが夕食に誘い出した。
王都の丘の上にあるレストラン。ガラス窓の向こうに夕暮れの街並み。煉瓦の屋根と大聖堂の尖塔が赤金色に光っている。
「……綺麗」
十年間、灰色の荒野しか見たことがなかった。この言葉が自分の口から出たことに驚いた。
向かい合って食事をした。温かいスープ。柔らかいパン。十年間忘れていた──いや知らなかった味。
ルーカスが静かにグラスに酒を注ぐ。
「十年前から、君のことが気になっていた」
声が変わった。いつもの軽さが抜け落ちて、低く、剥き出しの声。
「辺境で倒れそうになりながら兵站を回していた君を見たあの日から、ずっと──何とかしたいと思ってた。でも、」
彼は言葉を切った。酒を一口飲んだ。グラスを置く音がやけに大きかった。
「でも、君には夫がいた。僕に踏み込む権利はなかった。だから……茶葉を送ることしかできなかった。あの程度のことしか」
完璧な笑みは消えていた。そこにいたのは、十年間手を出せなかった男の、ただの悔しさだった。
「君が自由になって──正直に言うと、僕は嬉しかった。君が苦しんだ結果の自由なのに。それが、少し後ろめたい」
「ルーカス様」
「もっと早くこの景色を見せたかった。君は誰よりも、それにふさわしい」
テーブル越しに手を伸ばし、私の指先に触れた。
「これからは僕だけに──」
言いかけて、自分で苦笑した。
「……だめだな。こういうことを言うのは得意じゃない。練習したんだけど」
練習した。この人は、この台詞を鏡の前で練習してきたのだ。
──それが可笑しくて、少し泣きそうで、困った。
私は答えられなかった。十年間感情を殺してきた女には、この圧倒的な肯定を受け止める器がまだない。
でも──指先の温度だけは、沁み渡るように伝わっていた。
◇◇◇
帰りの馬車で、窓に控えめなノック。
情報屋が小声で何かを告げた。
ルーカスの表情が一瞬だけ凍り、すぐに穏やかな笑みに戻った。
「辺境伯レオンハルトが、王都へ向かっているそうだ」
秋の夜風が、馬車の隙間を吹き抜けた。




