第5話 その手は、もう少し大事にしないとね
鳥のさえずり。隙間風のない空気。ベッドが柔らかすぎて、数分間、死んだのかと思った。
王都到着の翌朝。白い天蓋。朝日。花の壁紙。完璧な室温。タンスにはサイズの合った衣服。洗面台には高品質の石鹸。
温かいお湯で顔を洗った。肌が驚いている。
(ルーカスが数ヶ月前から準備していたと言っていたが……ここまでとは)
居心地が悪い。嬉しいのではなく、怖い。こんなに与えられて、自分は何を返せるのか。
──結局これだ。私はまた「役に立たなければ居場所がない」と考えている。辺境から逃げ出したのに、思考回路は辺境に置いてきていない。
朝食の席でルーカスに頭を下げた。
「働かせてください。これ以上、ただお世話になるわけにはいきません」
「待ってた」
ルーカスは使用人に合図した。台車に乗せられた書類の山が運ばれてくる。背丈ほどもある。
「王宮医療局の未決済案件、一ヶ月分。──それと」
もう一枚の羊皮紙を出した。
「特例職務権限。王太子殿下の直筆サイン。君の辺境での実績、特に流行病の折の初動対応は、僕から殿下に報告してあったからね」
権限の印章を見た瞬間、頭の中でカチリと何かが噛み合った。
「昼食までに終わらせます」
「一ヶ月分を半日で?」
「不要案件の仕分けで三割減。残りは並行処理で」
◇◇◇
ペンが走る。書類を捲る。印章を押す。呼吸すら忘れた。
辺境の地獄が、ここでは凶器になった。王都の豊富な法務体系と人的資源。限られた予算で最大効果を出す技術が、潤沢な環境では凄まじい切れ味を発揮する。
──でも、手が止まる瞬間があった。
七十三件目の決済印を押した後。ふと気づいた。自分が嬉しいのではなく、安堵していることに。仕事があってよかった。数字を追っている間は考えなくて済むから。「自分が何のためにここにいるのか」を。
(結局、仕事をしていないと不安なだけだ。辺境でも王都でも、私は同じことをしている)
その事実が、胸に張り付いた。
昼前にルーカスが戻ってきた。片付いた机を見て、一瞬言葉を失い、それから笑った。
「全部? 本当に?」
「不要二十一件、承認四十五件、保留七件。保留の理由はこちらに」
「……すごい。ありがとう」
すごい。ありがとう。辺境では一度も言われなかった言葉。嬉しいのに、同時にどこかが軋む。
(これは私がすごいのではなく、私がこれしかできないだけだ──)
執務後。ルーカスが軟膏と清潔なガーゼを持ってきた。
「手を出して」
差し出した私の手を取り、丁寧に軟膏を塗り始めた。インクと霜焼けで荒れた指。
「……あの。ご自身でなさらなくても」
「医者だから」
彼の指が私の指を一本ずつ包んでいく。途中で彼の手が止まった。何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
「……この手は」
声が低くなった。
「もう少し、大事にしないとね」
──言いたい台詞はもっとあったのだと思う。でも彼はそこで止めた。それが妙に、刺さった。
甘い言葉よりも。
その時、サロンの扉がノックされた。
入ってきたのは監査局の官僚。ルーカスの旧友だという。
「辺境伯領から王室へ、越冬物資の緊急支援要請が届いた。内容が……かなり切迫している」
辺境伯領。私が去った場所。
ルーカスが一瞬、私を見た。その瞳の奥に、鋭い光。
嵐が来た。




