第4話 大切な書類が傷ついたら困るからね
乗合馬車の車輪が石に乗り上げるたび、身体が軋んだ。それでも心だけは軽い。
辺境を出て数日。マリーと二人、狭い馬車に揺られている。座席は固く、隙間風が容赦ない。
財布の中身もそろそろ心細い。領主代行として膨大な金を回してきた女の私財がこの程度という事実が、冗談みたいで笑えた。
「宿場町が見えましたよ、カトレア様」
マリーが窓を指す。
馬車を降りた瞬間、違和感があった。寂れた通りに、場違いなものが停まっている。王室紋章入りの漆黒の四頭立て馬車。
その扉が開き、長身の男が降りてきた。亜麻色の髪。王宮筆頭医務官の正装を肩だけ着崩している。
「やあ、カトレア。久しぶり」
ルーカス・ヴァイラントは、散歩中に知人に会ったような顔で笑った。
「なぜ──ここに──」
「君の手紙を読んでね。だが正直に言うと、手紙が届く前から準備はしていた」
彼は少しだけ気まずそうに首の後ろを掻いた。
「……辺境の情勢は、僕の情報網で数ヶ月前から把握していたんだ。君が離縁に動いているらしいことも。だから君が来てくれるなら、すぐに受け入れられるように──その、色々と」
言葉を探すように一瞬黙り、それから率直に言った。
「先走りすぎていたら申し訳ない。でも、大切な書類が輸送中に傷ついたら困るから」
差し出された手は大きくて温かかった。
◇◇◇
ルーカスの馬車の中は異世界だった。
揺れない。座席が柔らかい。暖かい。
「カモミールとはちみつの茶を用意してある。胃に優しい。ぬるめだから、一気に飲んでいい」
一口飲んだ。温かい。ただそれだけのことなのに、喉の奥で何かがほどけた。
「おいしい……です」
声が少し震えた。自分で驚いた。
「そう」
ルーカスは笑ったが、何か言いかけて──やめた。私の手を見ていたのだと、後で気づいた。インクと霜焼けで荒れたその手を。
結局、彼はそのことには触れなかった。窓の外を指差して「あの丘の向こうが王都だよ」とだけ言った。
紅茶を飲み終わる頃には、もう限界だった。数日間ろくに眠れなかった疲労と、離縁の緊張が解けた反動。
「すみません、少しだけ……」
声は半分夢の中にあった。
どれほど経ったか。目が覚めかけた時、手が何かに包まれていた。
大きな手。温かい。
「──よく頑張ったね」
低い声。それだけ。毛布がかけ直される気配。
夢だと思った。こんなに優しい声が現実にあるはずがない。だからまた眠った。十年ぶりの、悪夢のない眠り。
◇◇◇
「着きましたよ」
マリーの声で目を覚ますと、窓の外に巨大な門が広がっていた。ヴァイラント伯爵家のタウンハウス。
門が開き、馬車が滑り込む。
二十人の使用人が緋色の制服で完璧な列を組んでいた。
馬車を降りた瞬間、全員が一斉に腰を折った。
「カトレア様。お帰りなさいませ」
声は揃っていた。一糸の乱れもなく。
お帰りなさいませ。
──十年間、誰にも言われなかった言葉だった。




