第3話 十年間のお勤め、これにて終了とさせていただきます
俺は、妻カトレアのあの控えめなところが、それなりに愛おしいと思い始めていた。
マチルダが老伯爵と再婚したと知った時は堪えた。十年間の贈り物や資金援助は何だったのか。
だが──屋敷にはカトレアがいる。文句も言わず裏方を回してきた、大人しい妻。
(ドレスを贈ったのに礼もなかったが……まあ照れ屋なんだろう)
昨夜、部屋を訪ねたら内側から閂がかかっていた。突然の愛情表現に戸惑ったのだ。可愛いところがある。
そう思い込めるうちは幸福だった。
「旦那様。奥様が執務室でお待ちです」
マリーの声。当主を呼びつけるとは珍しい。ドレスの感謝でも述べる気になったか。
足取り軽く、扉を開けた。
◇◇◇
「お待ちしておりました」
一礼した私に、朝の光を背負った夫が鷹揚に頷いた。
「何の用──」
「こちらへ署名を」
甘い台詞を、温度のない声で断ち切った。机に三枚の羊皮紙を滑らせる。
「離婚届。財産返還一時放棄の同意書。そして──王室監査局宛の告発状の写しです」
「……は?」
余裕に満ちた顔が、紙切れ一枚で凍った。
「告発状? 冗談だろう」
「冗談にしては証拠が揃いすぎております」
二枚目を押しやった。彼が「見舞金」と偽ってマチルダへ流し続けた領地の資金。毎月の明細。本人の署名。十年分。
「なぜ君がこれを──!」
血の気が引いていく。大きな身体が小刻みに震え始めた。そして声が消えた。
──その沈黙が、十年間で最も心地よい音だった。
「離婚届への署名と引き換えに、告発状の提出は見送ります。原本はすでに信頼できる筋を通じて王都に送付済みですが、受理は保留の状態にしてあります」
ペンを手の中で回しながら、口角だけ上げた。
「今後、私への一切の干渉があった場合──保留が解除され、自動的に正式受理される手筈です。事実上の接近禁止とお考えください」
「辺境伯家を潰す気か!」
「退職させていただくだけです。さあ、署名を」
ペンを押し込んだ。剣しか握ったことのない手が、インクを散らしながら震える字で名前を綴った。
最後の一画が置かれた瞬間、この部屋から何かが剥がれ落ちた。
「ご協力に感謝します」
離婚届を回収し、マリーに目配せした。
──ここからは、カトレア・アシュレイ。旧姓に戻った、ただの平民の女。
◇◇◇
玄関。
荷物はマリーが片手で持てるトランク一つ。着替え、ノート数冊、筆記具。十年間の辺境伯夫人の全財産がこれだけだった。
最後に一つだけ押し込んだ。ルーカスから届いた茶葉の空き缶。すみれ色の小さな缶。
私費で手配した乗合馬車が門前で待っている。
「どうせ行く当てなどない。数日で戻ってくる」
見送りに出たレオンハルトが吐き捨てた。声は、もう震えていた。
振り返らなかった。
車輪が石畳を打つ音が鳴り渡る。
彼はまだ知らない。あの執務机の背後に、彼には一生読めない数万頁の手順書が山脈のようにそびえていることを。
暖かい秋が終わる。嵐はもうすぐだ。




