第2話 その好意は、越冬物資の足しにさせていただきます
執務室に満ちる羊皮紙と安価なインクの匂い。高価な香水より、こっちのほうがずっと落ち着く。
夫が「愛そうと思う」と言い出してから数日。あの不愉快な空気をかき消すように、私は数字の海に潜っている。
「カトレア様。商人ギルドのロイド殿がお見えです」
マリーの声。この屋敷で唯一「カトレア様」と呼ぶ女。古参侍女というより、もはや戦友に近い。
「通して」
恰幅のいいロイドは粗末な丸椅子に慣れた様子で座り、契約書を広げた。
「年間包括契約の更新と越冬物資の件ですが、南部経由のルートが確保できました。例年より二割安く、良質な岩塩と干し肉が入ります」
「ありがとうございます」
私は契約書を一行ずつ追った。単価。納期。そして──『本契約の効力は署名者が実務責任者の地位にあることを前提とする』。この一文を確認してからサインと代理印を押した。
「奥方様個人の信用あっての価格です。他の誰とも、この条件では取引しません」
ロイドが深く頭を下げて去った後、私は小さく息を吐いた。
(これで、兵士たちが凍えることだけは防げた)
私がいなくなっても──いや、いなくなるからこそ。最前線の兵士に私情のツケを払わせるわけにはいかない。
◇◇◇
束の間の安堵を、ノックの音が破った。
マリーが入ってくる。腕には悪趣味なリボン付きの巨大な箱。顔が引きつっている。
「旦那様から贈り物です。『君に似合うと思って見立てた』と」
箱を開けた。真紅の派手なドレス。
生地をつまんだ。流行遅れのシルエット。過剰な装飾。そして──内側の縫い目に、明らかに別の持ち主のイニシャルの刺繍をほどいた跡がある。糸の色が周囲と微妙に違う。
(マチルダのお下がりだ)
新しいパトロンの元へ去る時に置いていった不用品を、「妻への愛」として転用した。自分の目で選んですらいない。
マリーの拳が白くなるまで握りしめられている。
「マリー。これを古着商に売り払って。売上金は西区の孤児院へ。毛布の十枚分にはなる」
マリーは「畏まりました」と答えた。声が震えていたが、私よりもずっと怒っていた。
あの男の「愛」は、ものの数分で孤児の防寒具に変わった。
◇◇◇
夜。蝋燭一本の灯りで、最後の仕事をした。
机の上に『辺境伯領・例外処理手順書』全十巻がそびえている。私の十年間の沈殿物。
その横に、離婚届と告発状の写しを並べた。
新しい便箋を引き寄せる。
『ルーカス・ヴァイラント様
長年のお心遣いに感謝申し上げます。近日中、直接お礼に伺います。』
二行。それだけだ。
なのに、この人の名前を書く時だけ──ペンの運びが少し丁寧になる。インクを惜しまなくなる。
唇がほんのわずかに緩んだ。微笑みと呼べるかどうかも怪しい程度の変化。でも、この屋敷でペンを握りながら口元が動いたのは、ルーカスへの手紙を書く時だけだった。
便箋を折り、封蝋を押す。
(明日の朝、太陽が昇る頃には──)
私はもう、この屋敷にはいない。




