第10話 今更、あの時の言葉を取り消すことなどできません
医療予算改正案に最後の承認印を押した時、王宮の鐘が定時を告げた。
あの夜から半年。
王宮医療局の窓ガラスに映る自分は、辺境にいた頃とは別人だった。血色の戻った肌。艶のある髪。質の良い秘書官の制服。
でも変わったのは外見だけじゃない。仕事の一つ一つをこなし、正当に評価されるたびに、「お飾り」という呪いが薄紙を剥がすように消えていった。半年かかった。でも──前を向ける女に、なれた。
「カトレア補佐官! 東区の救護院予算、議会を通過しました! 薬草ギルドとの直接契約で例年の三割減です!」
顔見知りの文官が駆け込んでくる。
「浮いた三割は血清研究へ回します。申請書は提出済みです」
「さすがは……」
文官が感嘆の声を漏らした。
辺境の地獄で鍛えた「限られた物資の最適分配」は、王都では恐ろしい切れ味を発揮していた。
◇◇◇
昼休みに監査官がサロンに顔を出した。
「元・辺境伯レオンハルトの件ですが」
その名前を聞いても、心臓は動かなかった。
「横領の賠償で領地の大半を失い、伯位も剝奪。マチルダ殿も老伯爵に浪費を理由に離縁されたそうで。風の噂では、レオンハルトは傭兵として魔物狩りの日銭暮らしだとか」
「そうですか」
書類に目を戻した。
嘲笑も、溜飲も、同情もない。赤の他人のどうでもいい話。
「辺境の旧領地は?」
「ああ、国直轄になってから、王都のエリート文官団があなたの引き継ぎマニュアルを解読したんだが──設計の完璧さに、全員舌を巻いていたよ。あれは素人には読めないが、専門家が読めば天才の仕事だと分かる。おかげで復興は順調だ」
「領民が救われたなら、十年の甲斐がありました」
口元がわずかに緩んだ。あの十年が完全に無駄ではなかったこと。それだけで十分だった。
◇◇◇
夕刻。退勤の鐘。でも手は止まらない。明日までに片づけたい案件があと三件──
扉がノックなしに開いた。
「筆頭医務官の権限において」
ルーカスが花束を抱えて入ってきた。白い百合と紫のアネモネ。甘い香りがインクの匂いを塗り替えた。
「カトレア・アシュレイ補佐官の本日の残業を禁ずる」
「公私混同です」
「得意だからね」
花束が書類の山の上に、どさり。明らかにわざと。
「こっちを向いて」
飄々とした軽さが消えていた。真剣な目。呼吸が浅い。
──この人が、緊張している。
「カトレア」
花の中から小さな箱を取り出した。開く。銀の台座にアメシスト。私の瞳と同じ紫。
「長すぎる半年だった」
声が震えた。あの完璧な声が。
「もう待てない。……結婚してくれないか」
言ってから、付け足した。
「今度はちゃんとした台詞を考えてきたつもりだったんだけど、全部飛んだ。ごめん」
──ごめん。プロポーズで謝る人間がいるだろうか。
窓の外で夕焼けが王都を燃やしていた。大聖堂の尖塔が赤金色に光る。
あの日、冷めたスープを啜りながら離婚届を見つめていた私からは、想像もつかない場所に立っている。
「私もです」
声が出た。小さくて、掠れていて、完璧な事務員の声とは程遠い。
「長すぎる十年でした。でも、あなたに出会えた十年でもありました」
ルーカスの表情が崩れた。完璧な微笑みの下から、少年みたいな嬉しさが溢れた。
左手を取り、薬指に指輪を嵌めた。冷たい金属がすぐに体温で温まった。
「ありがとう」
低い声。
「ありがとう、カトレア」
唇が重なった。温かかった。辺境の執務室では絶対に知ることのなかった温度で。
王宮の鐘がもう一度鳴った。退勤の音が、祝福に聞こえた。
──「お飾りの妻でいろ」。
今更、あの時の言葉を取り消すことなどできません。
あの言葉があったから、私は世界で一番幸せな場所に辿り着けたのだから。




