第1話 今更、その言葉を受け取る理由がありません
「君を愛することはない。お飾りの妻でいろ」
そう命じられた十年前の初夜から、私は一度もこの辺境伯邸で泣いたことがない。
ペン先がインク壺の底を擦った。乾いた、紙やすりみたいな音。
薄暗い執務室──もとは資料保管庫だった狭い部屋に、その音だけが淡々と響いていた。
机の上には来月分の兵站予算書が十五枚。隣に、三日前から放置された冷めたスープの皿がある。表面に薄い膜が張って、もはや食事ではなく置物だった。
一口啜る。味はしない。十年間ずっとこうだったから、もう感想もない。
(……温かいスープの味なんて、そもそも覚えてない)
ペンを持ち替え、予算書の三枚目に目を落とす。北の砦への糧食搬入、見積もりが甘い。冬場の積雪量を舐めている。赤インクで修正値を走り書きした。
窓の外では、季節はずれの生暖かい風が吹いている。本来なら初雪の兆しがあってもおかしくない時期に、異常な暖秋が続いていた。
古参の兵站長が眉をひそめて言っていた──「暖かすぎる秋の後には、必ず地獄みたいな寒波が来る」と。
それが来る前に、私はここを出るつもりだった。
十八の春にこの屋敷へ嫁いだ日のことは、まだ覚えている。
先代の文官たちは若い伯爵夫人を歯牙にもかけなかった。帳簿を見せてほしいと言えば鼻で笑われた。だから盗んだ。夜中に文官長の部屋から過去十年分の帳簿と法令集を抱えて自室に運び、二年間、一行ずつ独学で読み解いた。
三年目に不正を三件暴いた時、文官たちの態度が変わった。五年目には商人ギルドが私の名前だけで取引に応じるようになった。七年目には兵站長が報告書を「閣下」ではなく「奥方様」に持ってきた。
認められたかったわけじゃない。あの夜「お飾りでいろ」と言われた瞬間、萎れて枯れるくらいなら誰かの役に立つことで居場所を作ろうと決めただけだ。
気づけば十年。辺境伯領の実務は全て私の手の中にあった。
◇◇◇
「カトレア」
扉が鈍い音を立てた。
レオンハルト・フォン・クライツ。辺境伯。私の夫。この部屋に足を踏み入れるのは半年ぶりだ。
「旦那様。どのようなご用でしょうか」
ペンを置かず、目も上げなかった。
「顔くらい見てくれ。大事な話がある」
声がいつもより柔らかい。妙に取り繕った優しさを乗せた音。
(この声色は、領地の予算に穴を空ける何かの前触れだ)
経験則。十年分の。
ペンを置き、彼を見上げた。
「俺は考えたんだ。これまで俺は、君に対してあまりにも無頓着だった。だが、もうそんな時代は終わりにしたい」
後頭部を掻きながら、まるで少年のようなぎこちなさで。
「これからは、君を──愛そうと思う」
時計が一つ打った。その音だけが大きかった。
マチルダ・フォン・ローゼン。男爵夫人。レオンハルトの長年の想い人。先月、資産のある老伯爵と再婚した。つまりフラれたのだ。十年追いかけた女に捨てられて、手近な「便利な妻」に方向転換した。帳尻合わせ。
「……お戯れはおやめくださいませ」
微笑んだ。
「私はこの十年、旦那様の仰せの通り、お飾りの妻として過ごしてまいりました。今更その契約を反故にされましても、受け取る用意がございません」
「契約? 俺は本気で──」
「旦那様」
自分でも驚くほど平坦な声だった。
「私がこの部屋で何をしているか、ご存知ですか」
「……執務だろう。君が上手くやってくれるから、俺は魔物討伐に専念できた」
「ええ。上手くやっておりました」
レオンハルトの眉間に皺が刻まれた。期待していた反応──涙を浮かべて喜ぶ妻──がどこにもないことに、困惑している。
「……わかった。急だったな。また改めよう」
大きな身体を持て余すように扉を閉めた。遠ざかる足音。
静寂。手は震えていない。心も揺れていない。
十年前なら泣いたかもしれない。五年前なら、一瞬だけ揺らいだかもしれない。でも今の私にはもう、彼の言葉に反応する回路が残っていなかった。
机の端に、小さな缶が一つある。
王都の医師ルーカス・ヴァイラントから毎月届く、疲労回復の特注茶葉。中身はとうに飲み切ったが、すみれ色の装飾が施された缶だけは捨てられなかった。
(ただの医者の厚意だ)
そう言い聞かせながら、指先で缶を撫でた。この館で唯一、冷たくないもの。
一番下の引き出しを開けた。
『離婚届』。十年前から毎月、日付だけを更新し続けてきた書類。
隣に、分厚い封筒。『辺境伯領における過去十年間の不正資金流用──証拠一覧表』。彼自身の署名入りの完璧な帳簿の写し。
二つを並べた。
(あと少し)
外では生暖かい風がまだ吹いている。兵站長の言葉が頭をよぎった。嵐は凪の後に来る。
この暖かさの代償を払うのは──もう、私ではない。




