第1話 異世界
「…………っ」
重い瞼をゆっくりと押し上げる。 視界に飛び込んできたのは、六畳一間の安っぽい天井ではない。 天を突くほどに巨大な、あまりに巨大な大樹の根元。そして、その枝葉の隙間から零れ落ちる、宝石のように鮮烈な黄金の陽光だった。
「……………………。」
頬を撫でる、柔らかな風。 それは都会の排気混じりの生温い風ではなく、深い森が吐き出した、驚くほど澄んだ清涼な風だった。 遠くで聞こえるのは、聞いたこともないような高く澄んだ小鳥の囀り。 その囀りに混じって、ざわざわと巨大な大樹の葉が揺れる音が、心地よいリズムを刻んでいる。
「……………………。なんだ、夢か……………………って!?仕事!!」
2度寝しようと地面に横たわった所で、現実を思い出して飛び起きた。 そうだ。今日は昼過ぎから地元の中小企業の社長と、追加融資の打ち合わせが入っている。
間に合うか?いや、日の高さから考えれば確実に遅刻だ。いっそのこと、仮病でも………、いや実家の爺ちゃんに不幸でも起きた事に…………。
「……いや、その手は以前使った気が…………。そもそも、ここどこだよ!」
慌ててスマホを取り出そうとして、俺の動きが止まった。 寝る直前までソファで着ていた、毛玉だらけの安物ジャージの感触がない。指先に触れたのは、プラスチックのスマホの質感でもなく、しっとりとした重厚感のある、高級な布地の感触だった。
「……は?」
視線を落とすと、そこには見慣れた紺色のジャージではなく、闇夜のように深い漆黒のローブに身を包んだ自分の姿があった。
さらに、銀行員としてキーボードを叩き、札束を数えていた白く細い指は、どこか力強く、しなやかな「戦士」のそれに変わっている。長い黒髪がさらりと肩に落ち、視界を遮った。
「……………………。」
呆然と周囲を見渡す。 そこにあるのは、六畳一間のアパートでも、いつもの通勤路でもない。 視界を埋め尽くすのは、天を突くほどに巨大な、神話の挿絵にでも出てきそうな大樹。その巨大な根に抱かれるようにして、古びた、けれど厳かな石造りの祠がひっそりと佇んでいた。
大樹の根元には、水晶のように透き通った水を湛える神秘的な泉があり、その水面は零れ落ちる陽光を反射してキラキラと輝いている。 泉のほとりには、見たこともない色鮮やかな小鳥たちが羽を休め、数匹の小動物がこちらを恐れる様子もなく水を飲んでいた。
この世のものとは思えない、あまりに神々しい光景。 一陣の風が吹き抜け、木々がざわめく。 そこでようやく、俺の脳内にある記憶が鮮烈に蘇った。 昨夜の、あの異常にリアルなズーム演出。 ソファから身体が浮き上がるような浮遊感。 そして――新キャラ『ラルフ』を選択した瞬間のことだ。
「マジかよ……これ、夢じゃないのか……?」
試しに自分の頬を、力任せにつねってみる。 痛い。涙が出るほど、はっきりと痛い。 おまけに腰の辺りに違和感を覚えて触れてみれば、革のベルトに吊るされた一本の鉄剣が手のひらに当たった。
俺はフラフラと立ち上がり、吸い寄せられるように澄み渡った泉へと歩み寄った。 水面を覗き込む。そこに映し出されていたのは、見慣れた三十路手前のくたびれた銀行員、稲葉竜司の顔ではなかった。
「・・・・・・・っは?」
水鏡の中にいたのは、闇夜をそのまま紡いだような漆黒の長髪を持つ青年だった。 肌は抜けるように白く、その双眸は燃えるような、けれどどこか寂寥感を湛えた深紅の輝きを放っている。
鼻梁は高く、引き締まった輪郭は、自分がこれまで見てきたどのモデルや俳優よりも整っていた。
圧倒的なカリスマ性に冷徹なまでの知性と神秘性を纏った魔族の貴公子の姿。
俺が、ゲーム画面で最後に選択した『ラルフ』そのものだ。
「…………おいおい、何の冗談だよ。」
俺はラノベも嗜むから異世界転移ものの小説なんかも、読んだことは有るが、そう簡単に実感など湧く訳が無い。
しかし、頬を撫でる風、泉の水の清冽な冷たさ、感動——この身に宿る、血管が沸騰するような膨大な力の熱。
焦ったら負けだ。地銀の融資担当として、まずは現状の資産と負債を整理しなきゃ始まらない。 まずは落ち着いて煙草でも……だが周りを見渡しても煙草らしきものもスマホも無い。
煙草なんぞ、ある訳無いか……と諦めかけたら、なんとコートのポケットに愛用の銘柄とライターが入っていた。
「…………やけにサービスがいいじゃねえか」
カチッ、という小気味いい音と共に紫煙をくゆらす。 この世界の澄み切った空気には少しばかり毒な気もしたが、肺に馴染んだあの味が、俺の意識を冷静な「稲葉竜司」へと引き戻してくれた。
ひとまず、煙草を燻らせながら、鏡のような澄んだ泉に映る自分を見つめる。
「…まずは、本当にゲーム世界に転生したと仮定しよう……。まぁ、冷静に考えるとそんなに悪くないか」
ここ数年、このゲームに心血を注いでいたせいで彼女もいなかったし、友達とも疎遠になっていた。 実家にはしっかり者の兄貴夫婦がいるし、両親のことは兄貴に任せておけば安心だ。
寂しくないと言えば嘘になるが、そこそこ貯め込んでいた俺の貯金は、あっちで両親の老後資金にでもあててくれ。
問題は……やはり仕事だが。 若手の中では優秀な方だったし、今日も昼過ぎには融資の打ち合わせがあったはずだ。今頃「稲葉が来ない!」と支店は大騒ぎだろう。
「……ま、どうしようもないな。すまん」
嫌いな仕事ではなかったが、ネット企業がどんどん参入してくる縮小気味の業界だ。十年後の自分の姿を想像して、不安がなかったわけじゃない。
それを考えると、この魔族の肉体と、やり込んだゲームの知識がある現状は、ある意味「理想の転職先」かもしれない。
「……うん。別に問題ないな。こっちでの仕事の方が余程やり甲斐があるか。」
一族を守るために強大な邪龍に挑み、その刺し違えるような最期の果てに共に滅んだ、美しくも悲しい始祖ヴァンパイア。
片腕を失いながらも、神速の剣技で万軍を退け、最期は狂王の喉元までその刃を届かせながら力尽きた孤高の剣聖。
無償の愛で多くの人々を救い、癒し続けた結果、最後は魔女として処刑場の露と消えた優しき聖女……。
砂漠の民を飢えから救うため、自らの命を触媒に禁忌の雨を降らせ、干上がった大地で砂の彫像へと変わった若き賢王。
裏切った盟友の軍勢を一人で食い止め、全身に数多の矢を受けながらも、死してなお一歩も引かずに門を塞ぎ続けた不屈の重騎士。
種族の存続を願い、呪われた聖域を封印するために自らを礎として永久の眠りについた、エルフの守護巫女。
記憶の中の彼らは、誰もが眩しいほどに懸命に生きていた。 ゲーム画面の向こう側にいた他の君主たちも、皆一様に高潔で気高く、柔軟で誇り高かった。
今この世界に彼らが生きているのなら、心底から「死なせたくない!」と思える奴らばかりだ。
「ゲームでは助けることができなかった。……でも、この世界なら、救えるかもしれないんだろ?」
ああ……そうだな。悪くないかもな。 そんな奴らと共に生き、笑い、戦っていく未来。それは銀行員として数字を追いかけていた日々よりも、ずっと「生きてる」実感が湧きそうだ。
たとえこの先、死と隣り合わせの戦いが待ち受けていて、仮に俺が命を落とすことになったとしても――。
(……悪くない。そう思ってしまう自分がいるな)
ふと、自分の思考の軽快さに苦笑いした。
あれ? 俺ってこんな直情的な人間だったか? もう少し石橋を叩いて壊すような慎重派だった気がするんだが……。
「ひょっとして、既にこの『ラルフ』っていうキャラの性格に影響を受けてるのか?」
まあ、それならそれで仕方ない。 元が冷徹で強力な魔族の真祖だ。 慎重すぎる元銀行員よりは、少しばかり直感的で自信家な方が、この弱肉強食の世界には適応しやすいだろう。
こうして俺は、異世界で生きていくことを割とあっさりと決めた。




