未落下のパターン
それは、わたしがちょうど教室に入った時のことだった。
「あの子、ちょっと顔がいいからって調子に乗りすぎ。ほんと、きらい」
「分かるわあ。あばずれ。あばずれのあず子」
わたしは心底驚いて立ち止まった。あず子とはわたしのことだ。そして今私の悪口を言っている二人組は、わたしの親友なのだ。二人は心底楽しそうにわたしの悪口を言っていた。
教室に入ってすぐ動かなくなった不自然なわたしに、彼女らはようやく気づいた。わたしはこの最悪の状況を現実と信じたくなくて、震える唇を開いた。
「あ...お、おはよう」
消え入りそうに呟いたわたしを、二人はとても驚いたように見つめた。その様子は、まともに悪口を聞かれた後ろめたさやバチが悪くて気まずい、といった反応ではなかった。わたしにはそれがなんだか不思議だった。
「...あいつ、よく学校来れたね。また家に行ってやろうか」
「やっぱナメてんじゃん、あいつ。フツーにうざ」
二人はわたしが挨拶したことなど無かったかのように、むしろ存在も最初っから無かったかのように、再びわたしの悪口を始めた。わたしは当然酷く傷ついたが、それ以上に急に親友の態度が変わったことが疑問でならなかった。
「出席とるぞー。あれ、今日は来てるんだな。体調、大丈夫か?」
担任の先生は明らかにわたしを見て言った。唐突なことで脳は情報の処理が追いつかず、わたしは適当に頷いてしまった。先生は満足げに頷くと、ホームルームの続きを始めた。
訳が分からない。こんなんじゃ、まるでわたしは不登校の生徒だ。確かに小学生の頃はそんな時期もあったが、今は毎日学校に通っている。夢でも見ているのだろうか。試しにほっぺをつねってみたが、普通に痛かった。わたしは首を傾げた。
一限目、数学の授業が始まった。
前のドアから教室に入ってきた数学教師は、さっそくわたしを二度見した。今日は何回、この表情を見ることになるのだろうか。
数学は相変わらず分からなかった。黒板の計算式は、時間が経てば経つほど壮大かつ意味不明に進化して、わたしには手がつけられなくなった。
わたしは視線を落として内職に没頭する。いつもの事ながら、授業中の落書きははかどる。
「ええー、皆さん」
数学教師が急に声を張り上げたので、わたしはびっくりして顔を上げた。
「今日は風邪でお休みが多いですねえ。皆さん、健康には気をつけてくださいな。私の授業が分からなくても出席することは大切です。入試には、出席数が大きく関わってくるのです」
言い終えながら、教師は自分の腕時計をちらちら見た。どうやら時間稼ぎのつもりだったらしい。しかし、ただの時間稼ぎにしては耳が痛いことを言ってくれる。
自慢では無いが、わたしは壊滅的に勉強をしない。なんだか色々手遅れな気もするが、全く授業を聞かないので何がどの程度手遅れなのかも知らない。というか、知りたくない。
だからせめて毎日登校は心掛けていたのに、それすら達成出来ていないとされた今日の異常に、戦慄を覚えてならない。
数学教師がまた数学の話を始めたので、わたしは俯いて内職を再会しようとした。
しかし今度は、シャーペンを持った手があまりに重く、すぐに止まってしまった。不安で心がいっぱいになった。腹の底から恐ろしく冷えきった気がした。
お昼休み、わたしは親友のはずの二人に話しかけに行った。
「ね、ねえ、わたし、二人になにか悪いことしてた?」
わたしは恐る恐る尋ねた。朝の出来事がまだ信じられずにいたわたしは、二人を信頼しているふりをして、心の内では酷い暴言に耐えられるよう予防策をはっていた。しかしそれは、徒労に終わった。二人はわたしの後ろを一瞥してから、答えた。
「え?あず子があたしらに?なんで?」
「どしたの、あず子。いっつも私らに超優しくしてくれんじゃん。こわいくらいに」
「え...じゃあ、朝どうしてわたしの悪口を...」
「悪口?」
二人はキョトンとして互いに顔を見合わせた。
「あたしらがそんな事、言うわけないじゃん。悪い夢でも見た?」
「そーだよ。昨日だって、ジュース奢ってくれたしねえ」
二人はなんでもないように笑った。しかし、わたしにはそれが嘘か本当かなんてすぐに分かった。
ジュースを奢ったことは本当だ。いい年齢のくせに石蹴り、それも負けて二人にジュースを奢らされた。しかしこれはいじめでもなんでもなく、わたしも石蹴りに勝って二人にジュースを奢ってもらったことは多々ある。三人の下校タイミングが揃った時の、恒例行事みたいなもんだ。
「あず子さん」
振り向くと担任の先生がわたしを手招きしていた。わたし達の会話が一段落するのを待っていたらしい。わたしは二人から離れて先生の方へ向かった。
「なんですか」
「あず子さん、朝言い忘れてたんだけど、今日も保健室登校って連絡入ってたぞ。教室に来るなら、ちゃんと保健室の先生に断っておくんだぞ」
「え...あ、はい」
わたしはまた反射的な反応しかできなかったことにすぐ後悔したが、また何か正体不明の不思議に襲われた気がしてなにもできるはずがなかった。わたしはそんな連絡していない。いつも通り、わたしは登校してきた。
先生の小さくなっていく姿を見つめながら、やがてわたしは一つの事を思いついた。
誰かがわたしの振りをして、わたしの邪魔をしている?
翌日、わたしはいつも通りに登校せず、教室に行く前に保健室へと向かった。そしてドアを勢いよく開け放つと、
「電話来ても、休んだり保健室登校したりしないので無視してください!」
そう叫んで教室へ向かった。これで誰にも迷惑はかかるまい。わたしは早く犯人を見つけたかった。
教室では、また親友らが悪口を言っていた。なんだか昨日より酷い気がした。
「うわ、また来てやがる」
「なんであんなクズが」
「どっか行けばいいのに」
「目の前から消えて欲しい」
わたしは、この二人がわたしの振りをして学校に電話をかけているのだと睨んだ。随分手の込んだオイタである。
翌日、また教室に行く前に保健室に行った。わたしの足取りは重くなっていった。
「ねえ、今日は休むってまた電話かかってきたわよ。どうして、普通に登校し始めたのにそんなことするの?」
「その人の声は、確かにわたしでしたか?」
「ええ、確かに」
教室に戻ると、わたしの机は酷い有様になっていた。油性ペンで目も当てられぬ罵詈雑言。変な傷が沢山入っている。親友らがくすくす笑っていた。いじめは明らかにエスカレートしている。
わたしは昔のことを思い出した。勉強できないってわめくと、仕方ないと言いながらも教えてくれた親友。不器用すぎてなんにもできなかった時、笑って助けてくれた親友。なのに今、こんなことになってるなんて有り得ない。
わたしは、決心した。ずかずかと歩いて彼女らの目の前に立ち止まった。
「ねえ」
「......」
「ねえ」
「何よあばずれ」
「なんで昔あんなに仲良かったのに、今こうなっちゃたの」
「...は?あんたと仲良かった記憶なんて微塵もないけど」
「違う。みんなわたしのこといじめてたけど、二人はいつも助けてくれた...だって、消しゴム、落としてたの」
「は?」
「それを拾ってあげたら、仲良くなった。初めて学校でありがとうって言ってくれた」
「なに?きもちわる...」
「なのに今は、わたしを不登校扱いにしようとしてる。そんな事のために電話まで学校にかけてる」
「...は?そんなことしてないけど」
翌日、保健室には行かずそのまま教室に向かった。ドアに手をかけた。でも、開けられなかった。ドアの窓から見える中の景色が、わたしにそうさせた。
自分の机の上に、白い花がいけられている。机は昨日掃除したまま綺麗だった。そして教室の誰一人喋らないどんよりした空気。この景色は、漫画やドラマで見た事がある。
自分が、死んでいる。
わたしはすぐに自分の肌を触って体温を確認した...温かい。わたしは死んではいないはずなのに。
「......」
わたしが、二人いる?
「あず子さん」
すぐ後ろから声をかけられた。振り向くと、若い男の顔があった。
「これでやっと、帰れますね」
その男は不気味に笑ってなにか振り上げると、そのまま勢いよく私に振りかかった。
わたしは目を覚ました。やはり、夢だったのか...
「夢じゃありませんよ」
聞き覚えのある男の声がした。その方向を向くと、夢で見た若い男の顔だった。さっきと同じように、不気味にニヤついている。
「修学旅行中ですよ。どうでしたか、平行世界旅行は」
「最悪でした。友達にいじめられていました」
「それはそれは」
わたしは自分を包んでいた大きな機械から飛び降り、次の順番待ちをしている生徒に席を空けた。部屋を出て、体験済みの生徒専用待合室に向かう。
「あず子ー」
わたしの名前を呼ぶ声がした。わたしは親友の下へ駆けていった。