ラジオネーム“ザリガニになりたい”
眠れない日々が、ずっと続いている。あたしは、極度の不眠症だ。
午前三時を少し過ぎたころ、あたしは薄暗い部屋の中で、布団にくるまりながらスマホのラジオアプリを起動した。
少し前まで、孤独という化け物に食い殺されそうだった。
脆い柔肉のあたしに牙を突き立て、その心ごと、ぐちゃぐちゃにされるような感覚。
この世界には、あたしひとりしか存在していない――そんな錯覚にとらわれる。
小さな箱の中に、無理やり押し込められたような息苦しさ。
張り詰めた静寂の中で、あたしは声にならない声を上げる。
けれど、誰にも届かない。
あたしは、ただ心をばたつかせる。酸素の足りない金魚のように。
……いっそ、誰かにすくい取ってほしかった。
希死念慮を抱えたまま、あたしは今日も、ラジオに耳を傾ける。
意識が、少しずつ番組に引き寄せられていく。
いつもと同じ。ただ、それだけのはずだった。
特別興味があるわけじゃない。けれど、聴かずにはいられない。
それは、蟻の行列をぼんやりと見下ろすような感覚だった。
一言で言えば、灰色の毎日。
本当にそんな感じで、空は今にも落ちてきそうだし、猫が人の言葉を話しても、たぶん驚かない。
あたしという“空洞”は、今日もただ、虚空を見つめている。
今聴いているラジオの番組名なんて、とうに忘れてしまった。どうでもよかった。ただ、耳の奥で邪魔をしなかった、それだけ。
……けれど、その日は少し違った。
凛として、どこか乾いた鈴の音のような、澄んだ声。
そのパーソナリティの声は、優しくて、切なくて――耳の奥に残った。
聴いていると、胸が締めつけられる。
そして、その声は――どこかで、聞いたことがある気がした。
――あれ?
最初に胸に浮かんだのは、言葉にならない微かな違和感。
けれど、それが消えなかった。
記憶の奥から、ラジオ越しに誰かがこちらを覗いている気がして、あたしはスマホを握る手に力を込めた。
「次のお便り。ラジオネーム“ザリガニになりたい”さんからです――」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
そんな名前、書いた覚えなんてない。
まったくの無記名だったはずなのに、声にならない声が喉から漏れ出す。
「……ぁ……あぁ……ぁ……っ……」
“ザリガニになりたい”――それは、過去のあたしが捨てた言葉。
唯一無二の、かけがえのない想いだった。
あの子にしか話さなかった、誰にも触れられない秘密の告白。
「あなたと共食いをしたい」
正直に、誠実に、何もかもをさらけ出した、あの夜。
そのすべてを、笑いながら受け止めてくれた、優しいあの人。
あたしは、すべてを思い出していた。
――その声は、灯火のようだった。
あたしの醜く、歪んだ心を、そっと優しく撫でてくれた。
胸が「拍動」する。あの時と同じように。
「“ザリガニになりたい”さん。お便り、ありがとう」
声が、花のように咲いた。
微笑むように、電波の向こうから、あたしをじっと覗き込む。
「ふふふ、ねえ、あなた。今日も眠れないんでしょう? ――大丈夫。わたしはここにいるよ」
スマホを握る手に、力が込もる。
誰かの言葉に、ここまでしがみついたのは、はじめてだった。
あたしは祈るように、お便りを送った。
遠い過去に置き捨てた、二度と届かないはずの“想い”を。何通も、何通も。
そして――再び読まれた。
ラジオネームは変えた。“おはようのザリガニ”。
あたしは、ザリガニになりたいんじゃない。
ただ、やわらかくて甘いところを、いただきたいだけだった。
祈りごと「想い」を、互いに食べ合いたかった。
それこそが、“生まれたての白さ”。“真白”。
「ふふ、“しろわた”さん。噛みしめたくなるほど魅力的な、肉のカタチさん。あなたの声、とてもきれいだと思うわ」
届いてる。間違いなく届いてる。
「……あなたの言葉、わたし……前にも聞いた気がするんです。夢の中……? それとも前世の記憶、でしょうか」
読め。言え。あれを口にしろ。
すると、彼女はふふっと笑い、冗談めかしてこう言った。
「舌がね、忘れられないんです」
――あたたかくて、やわらかかった。
深夜の台所で、カップラーメンを分け合いながら、ふたりで笑い合った、あの日のこと。
大好きだった……いや、今でも変わらず大好きな、あの子の、どこか心をくすぐるような艶のある声。
本当に、我慢できなかった。そして、もう、衝動を抑えきれなかった。
ははっ。
彼女の声だけが、あたしを生かしてくれた。
ははっ。
ラジオの音は、日に日に大きくなっていく。
ははっ。
その声は、日に日に――耳元へと近づいてくる。
――もう、すぐそこまで。声はあたしの耳元へ、そっと優しく、ふうっと息を吹きかけた。
「いつでもいいよ……我慢なんかしないで……」
それは、まるで耳の奥から脳みそをねっとりとかき混ぜられているかのような、甘く、じんわりと痺れる囁きだった。異常なまでに心地よくて、正直に言えば……快感そのものだった。
……ははははっ。
おいしい。
舌がとろける。
やわらかくて、あたたかい。
歯に残る希望は、噛むたびに味が深まっていく。
ある夜、目の前の仄暗い調理場に、“誰か”がいた。
骨ばかりが浮き立つ、空っぽの赤い目をしたきれいな女――あたし自身だった。
スマホを耳に当てれば、ぐちゃりと肉が潰れる音がする。
じゅる、じゅる、と何かを吸い上げる音が止まらない。
スマホ越しのその音に触れているあいだだけ、あたしの輪郭が、確かに“この世界”にあった。
……そう、思っていたのに。
ある晩、彼女はこう言った。
「――ねえ、“おはようのザリガニ”さん。変な夢を見たんです。ずっと“ごめんね”って言われてて……でも、何を謝られてたのか、思い出せなくて」
あたしは、スマホを落としかけた。
「あなたがわたしにしたこと、ほんとうは、ぜんぶ覚えてるんじゃないですか?」
乾いた笑い声が耳に響く。
あたしは目の前の“肉”にしがみついた。でも、それは、ただのやわらかい肉にすぎなかった。
歯で引き裂けば、中身は“骨”だけ。
骨は嫌いだ。硬くて、食べられない。
でも、骨にしがみつくしかないあたしたちは、もう逃げられなかった。
そして、スマホが壊れた。
アプリはもう、どこにも繋がらない。
新着もランキングも、パーソナリティ一覧も、全部消えていた。
ただ一つ、彼女の番組だけが再生できた。
番組名は、なぜか変わっていた。
『その声は、わたしの骨を撫でる』
……妙だった。けれど、もう考える力もなかった。
あたしは、再生ボタンを押した。
「ふふ、もえちゃん――ごめん、違ったね。“ザリガニになりたい”さん。今日も聴いてくれてありがとう」
名前が、混ざっていた。
匿名のはずの言葉が、ひとつひとつ掘り返されていく。
「……あの夜、あなたが言った“ずっと一緒にいられたら”っていう言葉、覚えてるよ」
「わたし、本当は……あの時、とっくに死んでたのかもしれない。でもね、あなたが――わたしをずっと“生かして”くれてたんだよ」
彼女の声は、まるで幸せそうだった。
けれど、どこかが不自然だった。
喉の奥に水を含んだような、くぐもった響き。
耳元で囁かれているような、どこか気味の悪い声。
あたしは思わず、スマホを顔から遠ざけた。
けれど――音は、止まらなかった。
「……どうしたの? なんで震えてるの? わたし、怖くなんかないよ。ねぇ――あの日、なんであんなことしたの?」
あたしは、何も答えられなかった。
言葉が、口の中で腐っていくのがわかる。
やがて、腐臭は腹の底まで広がり、内側から崩れていくような感覚がした。
あたしは、こらえきれずに嘔吐した。
思い出した。
すべてを。
別れ際、泣きながら“もう声を聞かせないで”と叫んだことも。
あの子のすべてを、口の中で“味わった”ことも。
あたしは、ななかを“消化”した。
ブーン、ブーン――スマホが大きく震えた。
画面は凍りついたまま、電源も切れない。
ただ、声だけが、流れ続ける。
「でもね……それでも、好きだったよ。あんなに愛してもらえたこと、ほんとうに嬉しかった」
スマホが、じっとりとした熱を帯びた。
掌が湿るような、嫌な温度。
「ふふ、やっぱり、あなたはきれいだよ。だから――次は、わたしが“食べて”あげるね」
その瞬間、背後から、耳元に声が届いた。
「――ほら、やっぱり。あなたは“美味しそう”だよ」
ななかの声が、笑っていた。
まるで、これから“ごちそう”を食べるかのように。
そして、あたしの身体は――
よく熟れた柘榴のように、ひと噛みで弾けた。
スマホは、もう持てなかった。
床に落ちた画面に、赤い滲みが広がっていく。
ななかに“調理”されていくあたしの声だけが、部屋中に響いていた。
「ふふ、大好きだよ。その身を、いっぺん残らず、“消化”したいほどに、ね」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご覧いただき、心より感謝申し上げます。