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衣織の物語  作者:
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衣織の物語7「友だち」

 これまでいっこうに友達の話が出てこないが、私に友人がいないわけでは決してない。私のもとには人が、相手の方からたくさん寄ってくる。これはまさにこう表現するしかない現象が、毎日生じている。私は貴族であるので、下々の者たちの考えはよくわからない。何を思って私に近づかんとしているのか、見当がつかないのだが、簡単にまとめると、私は人に好かれるタチらしい。ママもよく「あなたには人が寄ってくる」と言う。それがいい意味なのか、悪い意味なのか不明だが、私は私で万民を平等に愛する心構えでいるから、それに魅かれて勝手に人々は集まるのかもしれない。「桃李もの言わざれども、下自ずから蹊を成す」というヤツか? しかも、人々に好かれることは、為政の邪魔にはならぬ。よきかな。

 確かに、私に「親友」などというものはいないかもしれない。「親友」の定義づけについては諸説あるが、私自身、特にそのようなものを存在として必要と感じていないため、マードーデモイイカーと思う。休み時間に話す相手はたくさんいる。放課後の歓談も楽しい時間を過ごしておる。休日の予定をよく聞かれ、遊びに誘われる。私が時間を持て余している場合でも、声をかければ人は集まる。つまり、交際相手はいるのである。しかもたくさん。私を慕ってくれてる子もいる。それを友達と呼べるかどうかは、なかなか難しいところではあるが。


 今、私の話を聞いているみなさんは、思ったかもしれない。お前が人を受け入れていないのではないかと。先にも言ったとおり、私は万民を平等に愛する心構えでいる。これに偽りはない。しかし個別に愛するかどうかはビミョウだ。個別の愛にかかずらうほど、暇ではないことも事実だ。

 ある先生がおっしゃった。「人生において親友と呼べる存在は、たった一人あればいい」と。私はその一人すら求めない。達観しているのだ。人と人とのコミュニケーションは難しい。自分の考えや感情を完全に他者と共有することは無理に等しい。自他が分かれている以上、その中に盛られる心理もまた別個のものとなるであろう。パパとママがそのよい例だ。ふたりの心は、隔たりすぎているが。

先の先生はこうもおっしゃった。「俺にはその一人すらいない。だから諸君にはぜひ、学生時代に良好な友人関係を築いてほしい」と。自分がなしえなかったことを、純粋で年若い我々に期待するのは、いかがなものかと思う。それに、友人関係を尊重する言説を、ことあるごとにいろいろな大人たちが発するがゆえに、それをいまだ持ちえない若者は惑わされるのだ。自分は何かが欠けているのではないかと。人としての欠陥ゆえに、友達ができないのではないかと。


 私は考える。意思の疎通が困難な現代社会において、友人や親友を得ようとすることもまた困難なのではないかと。それらのマボロシやゲンソウを捨て、自立することこそが、今、求められているのではないかと。

 ゆえに私は自立している。自主独立の精神が確立されている。起床時間も、歯科矯正も、身に纏う洋服も、たまにする化粧の方法も、ダイエットの仕方も、その他ありとあらゆることを自分で判断し決めている。中学生にして、ここまでできるのは逆に立派なことだ。その決定内容が、ママとパパには気に入らないことが多いのは残念ではあるが。

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