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衣織の物語  作者:
48/65

衣織の物語46「発声練習」1

 高校最初の定期テストが心のどこかに存在しながらも、それを見て見ぬふりをして、私は例の部室へと向かった。教室では、さっそくテスト勉強に励む生徒の姿があったから。

 今朝、自転車に乗る私の身体を太陽が指し、そのあたたかさがジャケット越しに感じられる季節に浮き立つ心が私にはあった。その反面、これから向かう部室は、狭い小屋なのだけれど、まだその内実をすべて解明していない若干の不安があった。実はここで数年前に小さな事故があったらしい。立てかけておいた鉄の板数枚(!何に使うの?)が倒れ掛かり、危うく女子生徒がその下敷きになりかけた。実際に下敷きにはなったらしいけど、うまく体を防御して避けたらしく、足の一部にけがをしただけで済んだ。このように、高校七不思議のひとつである演劇部プレハブには、危険がいっぱいなのだった。

 私自身、後に釘を右足で踏み抜いたり、のこぎりで手のひらの角を結構深く切ったりした。右足はいまだにうずくし、手の傷も思い出として残っている。


 ドアをやっとのことで引き開け、薄暗い中に一歩足を踏み入れると、たちまちあの匂いが私を包む。その主成分は、大道具に塗り付けるペンキなのだろうが、ほかにもなにやら出どころのわからぬ臭気がプラスされ、何とも言えない異臭がする。だから、長時間の滞在は、シンナー中毒患者のような症状を呈する。目がクラクラし、鼻の奥がツーンと痛み出す。それを過ぎるとめまいが襲う。副部長はもう慣れたと言っておられるけど、私は慣れない。当分無理だろう。

 なにせ私は貴族だ。清浄な空気と多少のミネラルを含んだ清らかな水が、私という存在を形成している。だから私は、この不潔な臭気に囲繞されている間に、私という成分が変わってしまうのではないかと思っていた。しかしそんなことは人には言えない。

 演劇部の歴史を含んだ空気と薄暗さと雑然と。新入部員当時のその印象は、いつまでも私の記憶に残っていた。


「こんにちは!」

 その日、例によって開き戸を力いっぱい引き開け、中に入ると、先輩方が既に集合していた。ただし、これも例によって、影山先輩だけは不在だった。彼は、良く言えば自由人、悪く言うと気まぐれだ。


「おはようございます!」

 その薄暗さにまだ目が慣れない空間から、部長の声が聞こえてきた。

 すでに午後4時を過ぎている。何と答えたものかためらう私に、部長の声は続けた。

部長「あぁ、『おはようございます』は、演劇界での挨拶なんだ。夜中でも『おはようございます』って言うんだよ。変だよね」

私「いいえ、それならば私もこれからそうします。『おはようございます!』」

部員たち「おはようございます!」

 演劇部員は基本的に声が大きい。地声がデカい人もいるが、発声練習による部分も大きいだろう。だからこの挨拶の音量に、私の大切な耳は驚いた。幼少期からピアノで鍛えた耳だ。大切な絶対音感の危機。私の耳は繊細にできている。でも先輩方はそんなことは知らないし気にしない。逆にわたしに、演劇式の挨拶を教えてあげようという優しい気持ちからの大声なのだった。ふだんは陰キャの集まりだけど。


部長「それじゃあ、新入部員も来たことだし、発声練習でもするか?」

副部長「はい! そうしましょう!」

遠藤「ずっとオフシーズンだったから、なんか久しぶりだ」

 演劇にオフシーズンというものがあるのかと心に引っかかったけど、私は笑顔で発声練習への意気込みを先輩方に返した。しかし、この狭い空間で発声を行うのか?

部長「みんな、外に出て」

 部員たちはみな、手に持っていたスマホをテーブルに置き、外に出る。私はどこで練習するのかとドキドキしていた。これが初めての練習だったから。


 学校の敷地を取り囲む湿った杉の匂いが、私たちを包んだ。

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