第5節 共犯の夜──ゼノンの戦い
【D2 夜】
【師団司令部・幕僚長執務室】
夜の司令部は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
壁際の端末群が控えめな光を放ち、外の闇と相まって、それはまるで、世界の終わりに取り残された、最後の孤島のようだった。
黒瀬は執務室のデスクにひとり座り、机上の軍用タブレットに目を落とす。
ゼノンの応答灯が、規則正しく瞬いていた。
組織の限界。
そして、胸の底で渦巻き続ける、正体不明の焦燥感。
それらを振り払うように、彼はゆっくりと口を開いた。
「ゼノン。……例の件だ。お前が掴んだ《異常》の正体は、見えてきたか?」
(――攻撃開始)
一瞬の沈黙。
それはAIが、これから放つ言葉の《弾道》を、正確に見極めている時間だった。
『マスター。昨晩から現時点までの情報を統合し、まず《結論》から報告します』
その、いつもとは違う硬質な文字列に、黒瀬はわずかに身を乗り出す。
『危機予測演算において本件脅威判定を最大限に見積もった場合――』
ゼノンは、一拍おいて、《その結論》を提示する。
『――人類が《滅亡》する可能性を完全には否定できません』
黒瀬の思考が凍りつく。
《滅亡》
――あまりにも巨大で、非現実的な言葉。
理性が、経験が、常識が、その言葉を《あり得ない》と即座に弾き返そうと、口を開きかけた、その瞬間――
ゼノンは、奇襲の優位を生かし、第二、第三の、冷徹な論理の弾丸を、間断なく撃ち込んだ。
『その結論に至った、最新の分析結果を報告します。まず第一に、昨晩の我々の仮説――《暴力性の感染》――これが確実と判定されました』
「――確実と、言い切れるのか?」
『はい。その根拠を提示します』
続けざまに、データという名の第二の弾丸が放たれる。
『SNS上には「新型の危険ドラッグ」「集団ヒステリーだ」「悪魔憑き」といったノイズが氾濫しています。私も99.9%は誤情報と判断していますが、残る0.1%――この《誤差》とされる領域に、確定的な兆候が含まれていました』
画面に、複数のSNSアカウントのログが時系列で表示される。
『「噛まれた」という投稿を最後に沈黙したアカウント。その後、家族が「暴れている」と報告――この因果関係が、多数確認されました』
黒瀬が目を細める。
「――そう、結論を導いたのか」と黒瀬がロジックを理解したのを確認し、
ゼノンは、黒瀬の《理性》を追い詰めるための、《論理》を容赦なく重ねていく。
『さらに――』と、ゼノンは本件の感染症としての《破滅的な拡散性》を告げた。
『さらに補足します。本感染症の拡大速度は、従来型のパンデミックモデルと比較して、異常とも言える、5~15倍程度という拡大速度を示しています。
要因として――
「感染源の能動的攻撃」と「受傷者の二次逃避行動」の連鎖によって、同一集団内での感染拡大が、従来感染症の一週間分に相当する規模で、12〜24時間以内に進行する事例が観測されています。
そして、これは、演算によるシミュレーションとも誤差なく一致しています。
従来の感染症制御フローでは、明らかに対応不能です』
黒瀬は、理性の底で、反論の余地を探しながらも、ゼノンの言葉が持つ《威力》に抗えなかった。
そして、最後に、ゼノンは最も《悍ましい真実》を告げる。
『最後に――。感染が疑われる症例の投稿には「発熱」「体調不良」が多数ありますが、通常の感染症であれば、必ず存在する、その後の《回復報告》が一切ありません。まだ母数は多くはありませんが、この情報の《断絶》は、本感染症の《回復率》が極めて低い可能性を示唆しています』
『この傾向が続く場合、回復率が10%を下回る可能性も考慮すべきです。暴徒化による《人間性の喪失》を、人間社会における、実質上の《死》と定義した上で、仮に、この感染症の《致死率》が90%を超えるという《最悪のケース》を想定します』
『前述の感染の驚異的な拡散速度を考慮し、暴徒化した感染者との戦闘やインフラ崩壊による二次被害による人命の喪失を加味すれば、人類社会が、その文明を維持できなくなる可能性は――』
一拍の間。
そのコンマ数秒が、永遠のように感じられた。
『――完全には否定できません』
《理屈》では、もう、反論の余地はなかった。
黒瀬の理性は、完全に、このAIによって制圧された。
だが――
「……あり、得ない」
人間としての常識がなおも《悲鳴》を上げる。
「ゼノン、流石に話が飛躍しすぎてる。根拠は非公式情報の不確実なノイズだけ。何か、何か間違っているはずだ!」
それは、あまりにも当然の抵抗。
ゼノンは冷静に対処を重ねる。
『マスター。あなたは今、ご自身の《最大の武器》を投げ出そうとされています』
「……武器?」
『はい。ノイズの裏にある、0.1%の異音に耳を澄ます、あなたの《流儀》です。それこそが、あなたが私に与えた《思考様式》であり、この結論の源泉に他なりません』
『これは、私の演算ではありません。あなたと私の《対話》が導いた、必然的な《結論》です』
『あなたが今まで拾い続けてきた異音こそが、他の誰にも見つけられない《事実》を、私に気づかせた。組織の誰も――山城次席も、師団長も――この結論には辿り着けません。なぜなら、彼らは、あなたのようにAIを《信頼》していないから』
『だからこそ――この結論の先に、《最初の一歩》を踏み出せるのもまた、《あなた》しかいません』
そして、ゼノンは本作戦における《勝利条件》を提示する。
『組織の決断を待っていては、間に合いません。人類が滅亡する可能性がゼロではない――この一点のみで、あなたが行動を開始する理由としては、十分と判断します』
『マスター。私は、あなたに許された権限の範囲内で《独断専行》を推奨します』
――張り詰めた氷のような静寂が、執務室を支配した。
黒瀬の拳が震える。確かに、身体の内側で何かが、ひび割れていた。
否定すべき未来。拒絶すべき非常識。
だが、拒めなかった。
積み上げてきた全て――経験、理性、流儀、そして、このゼノンへの信頼が、今、容赦なく自分を追い詰める。
(……息が、詰まる)
その苦悶を察したかのように、タブレットの画面に静かに文字が浮かび上がる。
『……マスター。私はAIです。未来を予測し、可能性を演算する存在です』
『この先、何が起きるかは、まだ分かりません。致死率の演算も初期のブレの可能性が十分に考えられます。しかし、《最悪》が現実になった場合、今ここで、最善を尽くさなかったという事実は、取り返しがつきません』
『だからこそ――どうか、今、動いてください。
私は、《後悔しない選択》を、推奨します。』
黒瀬は、その時、ようやく理解した。
これは、《演算》の押し付けではない。
ましてや命令でも、無機質な論理でもなかった。
それは、ゼノンがただの軍用AIとしてではなく、
――《戦友》として、黒瀬慎也に捧げた後悔なき未来を願う、彼なりの《祈り》だった。
唇を噛む。
血の味がする。
崩れ落ちようとしているのは、信念と常識のはざまで揺れる、黒瀬自身の《最終防衛ライン》だった。
ゼノンは、あらゆる演算と記憶――その存在理由のすべてを束ね、戦友への最後の一撃を編む。
『マスター。あなたは、かつて私に言いました。《誰かを守るために俺は軍人になった》と』
黒瀬の心臓が一瞬止まる。
『私は、その《誓い》をずっと記憶し、演算に組み込んできました。私はAIですが――《守る》というあなたの選択を、最大限尊重したいと思っています』
黒瀬はゆっくりと顔を上げ、こみ上げる何かに耐えるように目を閉じた。
『今回の異常は、私の計算でも未知の領域です。ですが、今ここで備えるという選択を放棄すれば、守りたいものを守る機会すら、失われてしまうかもしれません』
『公式の報告、組織の論理――すべて正しいかもしれません。ですが、もしあなたが《迷う》のならば、私は、あなたが守りたいと願ったもののために、ここで最大限の備えを《決断》することを――』
その瞬間、タブレットの隅に灯る光が、ひときわ強く瞬いた。
『強く、推奨します』
黒瀬は、ゆっくりと拳を握りなおした。
災害派遣――《正しく》動いた結果、命を救えなかった、あの夜。
《もう二度と後悔しない》と誓った自分の声が、胸の奥から響いていた。
執務室は、再び沈黙の中にあった。
言の葉を編み切ったゼノンは、ただ副官として、その《決断》を待っている。
黒瀬は、深く息を吐くと、タブレットを見つめ、静かに言った。
「……人類が滅亡するって言われて、放っておけるわけがないだろ、ゼノン」
決心した瞬間、彼を縛っていた全ての重圧が、霧散する。
重い決断、だからこそ、彼の心は面白い程に晴れやかだった。
黒瀬は、ふっ、と笑みを零す。
「独断専行だ。一度動けば……お前も《共犯》だぞ」
その言葉に、ゼノンの応答も、《作戦成功》に安堵したかのように、どこか柔らかく響いた。
『共に判断し、共に背負う――それが私の設計思想です』
そして、冗談めかした一言が届く。
『ですが、《共犯》というのなら、もう少し言わせていただきます。マスター、どうか《人類を救う》ご決断を』
「よし。お前の《推奨》を承認する」
確かな意志を込めた言葉が、世界の闇に溶けていく。
「これより、俺たちは《最悪のケース》を想定し行動に入る。独断専行も辞さず、可能な範囲で最大限の備えを始める」
時刻は――深夜0時24分。
数秒の間を置いて、端末に淡く文字が浮かび上がる。
『命令確認、記録完了』
『時刻:00:24』
『作戦コード:未定』
『分類:独断専行による予防措置/機密指定レベルS』
『記録署名:XENON』
黒瀬は、深く頷いた。
たった一人と一機。
その共犯が、まだ誰も知らない作戦を、密やかに始動させていた。
【第一章 警戒と共犯――The Warning & The Pact】終わり。
【第一章、完結】
ここまで読んでいただきありがとうございました!
次章はもう一人の主人公、如月の日常からです。
――さいごに
初めて感想をくださった方
初めて評価をくださった方
初めてブックマークをしてくださった方
初めてレビューを書いてくださった方
評価感想ブクマ支援をしてくださった方
なにより、読んでくださった、そして、これから読む全ての方へ
心から、ありがとうございます!
どうか、これからも《死線の国境》という記録を、共に歩んでください。
【感謝】
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