表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 灯野ユヅル@GoodNovel契約作家
第10章 人類の英知、いまだ振るわれず──The Wisdom of Mankind, Still Sheathed
75/75

第8章 戦場の民間人──国家理性との接続

【D5 18:12 国立国際医療研究センター 病棟3階 ナースステーション】



平時であれば、ここは整理された資料と穏やかな看護師たちが患者の相談に応じる場所だった。


だが今、その面影は微塵もない。



小野田の見たナースステーションは、まるで敗軍の司令部のようだった。


テーブルの上にはカルテと書類が乱雑に投げ出され、電話の音がひっきりなしに鳴り続けている。



看護師たちは誰一人として座っていない。


受話器を肩に挟みながらカルテを探し、受話器を置いた次の瞬間には走り出していく。



通路をストレッチャーが通り、飛び込んできた看護師が応援お願い!と叫ぶ。


そこは、もはや《病院》ではなく、暴徒の圧力に押し切られつつある《司令部》だった。



受話器を押さえながら、ある看護師が声を張り上げる。



「急患──また暴徒です。3名、すぐに運ばれてきます!」


「どうしましょう?もう、手一杯ですよ!」


「病床はまだ空いているが、人手が足りない。非番も呼び出しているが……」


「昨日噛まれた中田さん、連絡がつきません!発症したんじゃ……」



それぞれの声が、同時に、別の危機を告げていた。


患者の流入、職員の欠勤、感染の恐怖。



もう持たない。見ればわかる。でも、彼らは諦めていない。


限界を超えた均衡の上に、希望などなく、絶望を前にしてもなお、現場はかろうじて戦っている。


確実に破綻する。だが、今はさせない。ただその一心で。



廊下の向こうで誰かが怒鳴る。


天井のスピーカーからは応援要請が鳴り響く。


それでも、誰一人立ち止まらない。


走り、叫び、次の急患を迎えに行く。



小野田は思う。


どうすればいい。どうにもならない。でも、どうにかするしかない。



──ここは崩壊しつつある、医療の最終防衛ラインだ



病棟全体が、もう制御下にない。


誰の助けも望めない。もう持たないと皆が分かっている。



だが、誰に助けを求めるというのだ。



国か? 警察か? 彼らがこの地獄に何をしてくれる?


自力で何とかするしかない。だが、非番も投入してなお足りないのだ。



主任は、その混乱を観測し、なお、沈黙していた。


歩きながら、その目で、ステーション全体を一瞥する。


そして、ぽつりと、言葉が落ちた。



「……これが臨界点か」



誰に向けた言葉でもない。観測結果をただ理性で判定した言葉。


だが、その一言が、この空間を、小野田の胸をさらに冷やす。



隣で桜庭が小さく息を呑んだ。


「臨界点」という言葉は、彼女にも聞こえていた。



「先生……どうすればいいんでしょうか?」



九条は黙して答えない。


だが、立ち止まり、白衣の胸ポケットに刺さったペンを取り出し、それを桜庭に掲げて言った。



「観測し、報告するんだ。《可能性》はこの場に無い」



312号室へ、と呟き、九条が歩き出す。


小野田と桜庭は、その背を追った。



ナースステーションの喧騒が背後に遠ざかるにつれ、通路の空気が微かに静かになる。


そこで小野田は気づく。



声がした。


通路の隅、消火器の横に背を向けるようにして、一人の看護師が壁に顔を寄せ、携帯電話に語る声。


携帯の使用は、通常、勤務中は固く禁じられている。だが、今は誰も、それを咎めない。



「今は帰れない。……帰れそうにないから、カップラーメン食べておいて。お父さんが帰るまで、家から出ちゃダメだからね」



乱れた髪。震える声。


彼女が看護師であることを忘れてしまいそうになる。


その言葉は、混乱の中で掻き消されかけた日常だった。



──普通の人、なのだ



彼らは命知らずの兵士ではない。


銃を持つことも、戦地に赴く訓練も受けていない。


家に帰れば、妻がいる。夫がいる。子どもがいる。



──それでも



彼らは今、この混沌の只中で命を賭けている。


職場に残る、それだけのことが、この瞬間、戦場への志願に等しい。



その《ささやかな通話》が、小野田の胸を締めつけた。


あまりにも切なく、苦しかった。



──ここは地獄だ



それでも、前へ進むしかない。


可能性は、《病棟》にはないのだから。



背後で誰かの泣き声が届く。


だが、九条も、小野田も振り返らなかった。



「まだ終わっていない。観測する時間はある。──彼らが、命懸けで稼いでいる」



九条が、歩みを止めずに言った。


視線を向けることもなく、ただ前を見据えたまま。


その言葉は、桜庭と小野田に向けられていた。



観測し、記録すれば、この戦いに勝てるのか。


そんな疑念が、小野田の胸に浮かぶ。


だが、それ以外に、自分にできることはない。



──それが研究者の唯一の武器



桜庭と視線が交わる。


短く、確かな頷き。



312号室の前に立つ主任に追いつく。


ドアに手を伸ばした主任が、わずかに腕を上げたところで止まった。



何ごとかと思い見つめた先で、彼女の手が白衣のポケットに入る。


取り出したのは、携帯端末だった。


画面を一瞥し、彼女は通話ボタンを静かに押した。



「……九条だ」



短い応答。


それは、知の尖兵が、国家理性と接続した瞬間だった。

0117 執筆状況 現在、本作の集中執筆期間となっています。

ホワイトリリィ作戦の執筆を完了(約5万字20話程度)

ブラックオーキッド作戦の下書き中です。

全編完結後、公開予定です。(あと30%くらい!)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ