第6節 地獄界と人間界の境界線──理性と温度の邂逅
【D5 18:02 国立国際医療研究センター 病棟】
小野田の目の前で病棟へと続く中央制御棟の気密自動ドアが開く。
音もなく滑る扉の先、そこにあったのは、見慣れた《日常》ではなかった。
研究室の冷たい蛍光灯と慣れ親しんだコーヒーの匂い。
異様な要請や怒る主任といった異常はあれど、一見すれば日常を紡いでいた研究棟。
対する病棟は・・・そこは──《戦場》だった。
しかも──末期の。
ストレッチャーが横を駆ける。看護師数名で暴れる患者を押さえつけて。
ベルト状の拘束具が胴体と手足を締め上げているが、暴徒の叫び声とともに何度も軋んだ。
「噛みつくから気をつけろ!」
「通してくださいッ!」
誰かの怒鳴り声。誰かの叫び声。誰も立ち止まらない。
わずかに首をひねり、半開きのドアから病室を覗き込む。
手前のベッド。拘束具に縛られた中年男性が、呻き声を漏らしながら身体を揺らしている。ベッドの脚が「ギシギシ」と不規則に軋んでいた。
──だが、その奥のベッドが異様だった
人だかり。
5人の医師と男性看護師が、一人の男を全身で押さえ込んでいた。
肩、肘、腰、膝──全ての関節を封じるように、重ねるように覆いかぶさる。
抑える者たちの顔は赤く、肩で息をしている。
ただ、抑えるだけ。
だが、それすらも「今にも崩れそう」だった。
首を巡らせて反対側の病室も覗く。
抑える白衣の中に、青色の制服姿の警備員も見えた。
彼らもまた、ベッドの上で暴れる何かを手で抑えていた。
一体何が起きている?
混乱の中、小野田の視線が前方の白衣をとらえた。
九条主任。
少し先を歩くその背中は、振り返らない。病棟の喧騒を無視して、彼女は進んでいく。あの背中に追いつかねば。小野田は無言で早歩きに移った。
その時。
「302病室で、両手の拘束が外れています。至急、男性看護師は対処を」
院内放送。
前置きもなく、端的に、危機感が籠った救援要請。
病棟全体に響き渡る耳と肌を刺す押し殺しきれない切迫感を纏う声。
──これが、こんなものが院内放送?
重い唾がごくりと喉を通る。上から降ってきた声音だけで、小野田の背筋が凍るには十分だった。
周囲に響くのは、暴徒を押さえ込む看護師の呻き声。
軋みを上げるベッドの金属音。
そして、暴徒の叫び。
感情ではない。意思すらない。ただ、噛みつき、破裂するような音。
わずか24時間前。
ここは日本有数の研究施設を有する総合病院だった。情報が行き交い、秩序が支配する医学の牙城だった。
だが今は──
映画で観た野戦病院。
《地獄界》と《人間界》の壮絶なぶつかりあいが、音と臭いと温度を持って、ここにあった。
──これは医療ではない
彼らは何を《治療》しようとしているんだ?
小野田は、九条の背中を見失わぬよう、足を速めた。
ふと足を止める九条。
視線の先にいたのは、シーツの束を抱えて通り過ぎようとしていた一人の看護師。
「桜庭」と九条が呟くように声をかける。
院内に相応しくない騒音の中、届いたその声を聞いた瞬間に、看護師が振り返った。
疲労の色を帯びた顔。一瞬だけ安堵が浮かぶ。
紺のスクラブに白衣を重ねた、やや小柄な女性。
肩にかかる長さの黒髪。落ち着いた、どこか人の体温に寄り添うような眼差し。
──桜庭沙耶香。
彼女のことはよく覚えている。
感染症病棟の看護師だ。
九条の研究室で、感染管理認定看護師候補として数週間派遣研修を受けていた。
明るく一生懸命で、それでいて感染症そのものを見るのではなく、その先にいる苦しむ人を助けたいという思いを常に忘れない女性だった。
主任も、主任にしては珍しく、彼女のことを数度話題にしていた。
「余計なことを言う。だが、それは、人の感情に寄り添ってしまうからだ」と。
それを聞き、主任が記憶していること自体が、信頼の証明だと小野田は思っていた。
「……九条先生……どうして病棟に……?」
桜庭の声は驚きと微かな安堵、そしてどこか期待してしまっていた自分への戸惑いが混ざっていた。
九条が何も言わず首を傾げると、彼女は目を伏せ、次に顔を上げたときには、真剣な表情に変わっていた。
それは、悲鳴ではなく、報告でもなく、現場の全てを背負った看護師の、本音そのものだった。
「……先生、もう、どうすればいいか……わかりません。なんなんですか、これ……」
その声は、この病棟の誰もが口に出せなかった言葉だった。
感染症研究の最先端にいる九条、その能力に尊敬の念を抱いている桜庭だからこその切なる問い。
あなたなら何か知っているはずと縋りつくような──問いかけ。
追いついた小野田も固唾をのんでその返事を待った。
九条は何も言わない。
病室から響く呻き声、叫び声。廊下の先でストレッチャーが倒れる音、全周から聞こえるベッドの軋む断末魔のような金属音、廊下を駆け抜ける職員の余裕のない足音が空間を埋める。
その病院にあるまじき喧騒の中だからこそ、九条の《無言》に確かな重みが乗った。




