第4節 猟犬の嗅覚──見抜かれた焦燥
【D2 昼】
昼下がり、師団司令部の食堂。
喧騒の波が途切れる窓際のテーブルに、黒瀬は一人腰を下ろしていた。
書類に目を落としながら、やけに味のしないカレーを口に運ぶ。
軽快な軍靴の音が一つ、近づき、黒瀬の前で止まる。
顔を上げずとも分かる。
人の変化を嗅ぎつけるのが、異常に上手い男の気配だ。
視線を上げれば、案の定、トレーを手に、柴崎大隊長が立っていた。
先ほどの会議で、唯一黒瀬の提案に理解を示した男である。
「お疲れ様です、黒瀬一佐。ここは静かですね」
黒瀬は苦笑して答える。
「考えごとにはちょうどいい」
向かいに腰を下ろした柴崎は、真剣な表情で黒瀬の顔を覗き込む。
「……黒瀬一佐。俺が言うのもなんですが――喋らない時間が増えてますよ。そんなにヤバいんですか?さっきの会議のあれ」
その、愛嬌の中に刺のような鋭さを含んだ言葉に、黒瀬は一瞬だけ息をのむ。
(……そんなに出ていたか?)
胸の奥の抑えきれない焦燥を、この男は見抜いていた。
柴崎の《嗅覚》に、黒瀬は内心でまた一つ評価を上乗せする。
「……いや、まだ《嫌な予感》の域を出ない」
杞憂かもしれぬことで、あまり不安がらせるべきではない。
だが、柴崎は、その黒瀬の配慮すらも見透かしたように、言葉を続けた。
「黒瀬さん。俺は、あなたの《嫌な予感》を軽く見ませんよ」
柴崎の声が、確かな《信頼》を帯びる。
「ほら、前の災害派遣の時。皆が『やり過ぎだ』と渋った、あのルート変更の判断。もし、あのまま進んでいたら、俺の部隊は、今頃、土砂に呑まれていました。俺だけじゃない。現場の人間は、あなたの《勘》がよく当たることを知ってます」
「だから――俺は、あなたの判断を信じます」
その、どこまでも実直な言葉に、黒瀬は静かに頷いた。
(危険の香りに寄ってきたんだ。ならば、伝えておくべきだろう)
黒瀬は、柴崎をまっすぐに見据え、声を潜め、しかし、有無を言わさぬ口調で告げた。
「柴崎――。《嫌な予感》がする。もしもの時は、頼んだぞ」
柴崎は、一瞬だけきょとんとした後、すぐに、まるで分かりきったことを聞かれたかのように、ニッと笑った。
「もちろんです。黒瀬さんの頼みなら、何でもやりますよ」
そのやり取りで、もう十分だった。
黒瀬の小さな頷き。
それを見て柴崎は、満足げに、しかし、どこか誇らし気な笑みを浮かべて立ち上がった。
「俺は、あなたが引き金を引くのを待つだけの、猟犬ですから。何かあったら、いつでも声をかけてください」
そう言い残して、彼は部下たちの方へと戻っていった。
黒瀬はわずかに口元を緩め、その背を見送った。
ふと、窓の外を見やる。
――日常の風景が、どこか遠い世界に思えた瞬間だった。