第3節 鋼鉄の静寂――臨界の共犯者
岡田の問いが、執務室の空気を決定的に変えた。
「如月君。君の想定する《最悪》。この異常行動者の増加が辿る破局の全貌を、包み隠さず聞かせてくれないか」
如月は一度、ゆっくりと瞼を閉じた。
今だけは、作為も誘導もすべて脇に置く。
岡田という人間が、初めて《正面》から現実を受け止めようとしている。
それを受け止める彼の覚悟を、彼女も確かに感じていた。
目を開けた時、如月の声には一切の震えがなかった。
淡々と、ただ真実のみを投げ入れる。その響きは、あまりにも冷たく、重い。
「審議官。もはや、《最悪と最善》という幅で語れる状況ではありません。
この感染症は、
・全世界で同時多発的に拡大しています。
・日本国内でも、既に地方都市まで発症者が確認されています。
・未発症の感染者は、統計上、この何倍もいると推測されます。
感染拡大係数は、既に数値化できるレベルです。
死亡率100%、回復例はゼロ。
この一点で《希望的観測》は、全て捨てなければなりません」
短く息を継ぎ、如月は一気に言い切った。
「私が弾き出した最新の予測は、こうです。
《治安維持機能の崩壊》は、明後日(日曜)。
《国家としての機能停止》は、もっても月曜日から火曜日。
それ以降は、
『来週』という概念そのものが、日本から消失します。
これは、悲観的な推測ではありません。
《最も正確な演算》が、導き出した、確定された日本の終わりです」
岡田は、目をきつく閉じ、眉間に深くしわを寄せて、その絶望的な《結論》を聞いていた。
*
――本当に、こんなことがあり得るのか。
昨日、俺は彼女の警告を退けた。
あの瞬間、《証拠が足りない》と、俺は判断した。
正しかったと思いたい。
だが、この一日の遅れが、この国を取り返しのつかない破滅へと追い込んだのかもしれない。
認めたくはない。
今もなお、心のどこかで「何とかなる」「自分の判断は間違っていなかった」と叫ぶ声がある。
目の前の現実は、そんなものを粉々に踏み潰していく。
天秤の片方。
リスクの大きさ。
それを、俺は致命的に見誤った。
治安維持機能の連鎖的崩壊。
その意味を、もっとよく考えるべきだったのだ。
警察も、病院も、もはや崩壊寸前だ。
今、この瞬間だけ、秩序はその体裁を保っている。
保ってしまっている……というべきか。
数体の異常者でこれだ。
さらに増えればどうなるか。
考えるまでもない。
この最後の一点、平穏の最後の砦が崩れた瞬間。
暴徒は解き放たれ、それを取り締まる者も、収容する者もいない。
一瞬にして、街は、社会は、あっけなく地獄に変わる。
――自分は今まで、《国家の番人》として生きてきた。
災厄の芽を摘む役割。
それは、俺の誇りだった。
だが、今、俺の《判断ミス》が、この国を殺しかけている。
この、絶望。
余りにも、重い。
だが、逃げられない。
どれだけ現実を否定しても、どれだけ正しい言い訳を並べても。
国が滅べば、何の意味もないのだ。
それだけは、確かだ。
次、判断を誤ったら、もう、この国は救えない。
もし、目を背ければ、俺は……俺が、本当にこの国を、自分の手で殺すことになる。
誰かが、止めなければならない。
では、誰が止める。
――それこそが、俺の仕事だったはずだ。
誰よりも、俺自身で、やらなければならなかったのだ。
*
岡田は強く唇を結び、如月を見据えた。
「……そうか。そうだな。君が涙を見せてまで助けを求めた意味が、今、私にも、ようやく分かった」
心が砕けそうだった。
失敗の重さ、取り返しのつかなさ。
だが、目の前にいるこの少女は、その重さのすべてを背負いながら、なお、砕けていない。
――信じられん。
たった一人、孤独の中で、この重荷を背負いなお、《諦めていない》人間が、ここにいた。
「如月君。本当に君は大したものだ」
その言葉には、敬意と、どこか救われたような響きが滲んでいた。
「さて、諦めていない君は、この状況から、一体《何をしようとしている?》」
如月は息を整えた。
*
審議官がついに《戦場》に立った。
私は、ついに、戦友を、得た。
*
思わず涙腺が緩む。
もう独りではない。
その安堵と、まだ残る緊張が、声に微かに震えを乗せる。
「最悪に備えます。
具体的には、
本日中に《治安維持出動準備命令》を出し、自衛隊の《即時動員》を開始すべきです。
国民には何も伝えません。
パニックを引き起こしては、本末転倒です。
もし、仮にこの感染症が収束したなら、
静かに部隊を解散すればいい。
政治的なリスクは、まだ大きくありません。
けれど、今、この瞬間に備えなければ、いざという時、自衛隊はもう《存在しません》。
私はこれが、《最悪を想定した最小の備え》だと確信しています。
隊員の動員に必要な時間と、加速度的に悪化する感染状況。
全てを加味すれば、
『今日中に命令を出さなければ間に合いません』」
如月は、岡田の目をまっすぐに見据えた。
(――これが最後のデッドライン(死線)です。どうか、どうか、ご決断を)
完全な静寂が訪れた。
それは絶望や虚無ではなく、戦場の只中で、極限まで研ぎ澄まされた者たちが分かち合う、冷たい鋼の静けさ。
光は差さない。
温もりなどない。
だが、ふたりの間には確かに。
魂が触れ合った瞬間の、かすかな熱が生まれていた。
岡田は、静かに息を吐き、かすかに呟く。
「……君のような人間が、この国にいたこと、それこそが、本当の《希望》だな」
鋼鉄ような静寂は破られない。
だが、ここに、新たな《共犯者》が誕生した。
日本政府、最後の抵抗が、今、始まろうとしていた。