第1節 貴女の命に賭ける――国家官僚の天啓
思わず、衝動のまま飛び込んでしまった。
それでも、もう後戻りはできない。
理性はかろうじて戻りかけていたが、《迷う余地》はなかった。
如月は、短く深呼吸をした。
(落ち着け。もう一度、立て直す。今、迷えば全てが終わる)
指先は小刻みに震えていた。
けれど、今の自分が何をすべきかだけは分かっている。
ミューズの支援で、端末に、全ての集積データが瞬時に立ち上がる。
「……岡田審議官。昨日、私が提出した報告書。あれは、決して大げさな警告ではありませんでした」
「今、医療機関は、表面上はまだ《余裕》があるように見えていますが、現実には、静かに崩壊が始まっています。
スタッフの欠勤率は急上昇。感染者も、表に出てこないだけで、確実に増えています」
「つい先ほど、感染症シミュレーションでご協力いただいた、感染症専門医の新城先生と連絡を取りました。現場スタッフも多くが負傷し、異常行動をする患者には誰も近づきたがらない、と」
「先生はこう断言しました。『これは感染症だ』、『天然痘よりも危険な、人類史上最悪の疫病』だと」
そこで、一拍、間を取り、如月は、岡田の顔をまっすぐに見つめる。
自分に舞い降りてきた天啓。
――これが最後の賭けだ。
吉と出るか、凶と出るか。
しかし、彼女を止めるものなど、もはや何も残っていなかった。
「……岡田審議官」
「娘さんは、大丈夫ですか?」
一瞬、時間が止まった。
*
「娘さんは、大丈夫ですか?」
その言葉を聞いた瞬間。
飛び込みざま「助けて」と叫んだ如月の姿。
それが、ふいに自分の娘と重なって見えた。
――千嘉。
無事なのか。
これは……
こればかりは。
父親として《絶対に無視できない》衝動だった。
*
如月は、声が震えるのも厭わず、さらに畳みかけた。
「今すぐ、電話してください。娘さんが、現場で、今、何を見ているのか、直接、確かめてください」
「……感染すれば、絶対に助からないんです!この感染症は、治りません。娘さんが感染していないかも。今すぐ、確かめてください」
岡田は思わず、携帯電話に手を伸ばした。
震える手で携帯を握り、しかし、逡巡しつつも、静かに、如月に問いかける。
「それは、父親としての私に言っているのか。審議官としての私に言っているのか」
如月は、迷わず返す。
「父親として」
使えるものは何でも使う。
それが今の自分にできる《最善》。
(国を救うためなら、私の矜持などどうでもいい)
岡田は、小さく息を吐き、僅かに肩を落とし、目を閉じる。
「……逞しいものだ」
岡田は、机の上にそっと仮面を外す。
審議官ではなく、父親として、娘の番号を迷いなく押し始める。
「少し、待っていなさい」
如月は、父親の背中を見つめていた。
この瞬間、自分が《国家》ではなく、個人の《命》に賭けていることを、彼女は痛烈に自覚していた。




